Open the Hedge
母の声が好きだった。
母の話す物語が好きだった。
ゆったりとした声には様々な物語が詰め込まれている。悲しい物語。喜びの物語。怒りの物語。数を数え始めれば切りが無い程の多くの物語。
僕はいつも、物語を聞きながら、自分が物語の主人公にでもなったかのような気分でいた。
だけれども……母はいつもこの世界の歴史の話をする時だけは、母自身が悲しそうな表情をしていた。
そして決まった言葉で物語を締めたのだった。
『健一、あなたはどんなことがあっても、絶対に信じる心を忘れてはいけないの。歯車になってはいけないよ』
言葉の意味は今でもわからない。
本当は少し違う。
昔は必死になってその意味を考えていたけれども、今は考えることすら止めてしまった。考えたところで、世界という名前の大きな機械の一部である自分は、歯車として決められた動きしかできないとわかってしまったからだ。
2023年 東京
事件現場に踏み込む時はいつも緊張している。
百は超えている数だけ、事件現場に携わってきたが、慣れてしまってはいけないと思っている。
だが、今月の生活費を考えるといい加減に成果をあげなくては凛華にドヤされてしまう。
彼女は空虚は俺に意味を与えてくれた恩人であり、幼馴染みでもあるが、性格に難があると思っている。
「どうして女っていうのは、理由を聞かずに結果だけで怒鳴り出すのか……」
男と女がわかり合えない理由を一つあげるとするならば、俺は間違いなく話を聞かないからだと言える。
『聞こえているんだけども? 愚痴を言うならば、せめてもの気遣いとして、インカムの電源はオフにしておきなさいね』
件の彼女の声が聞こえ、急いでインカムの電源を切る。
天崎 健一一生の不覚。電源を入れっぱなしの方が、手間が省けるなどというくだらない理由のせいで墓穴を掘ってしまうのだから、どうしようもなくだらしない。
唐突な叫び声は俺の思考を遮るには十分すぎた。
曲がり角を飛び出し、現場となっているボロアパートの2階の部屋を目指して階段を駆け上がる。
ドアノブに手をかけると案の定、施錠はしてなかった。
やはり、黒瘴となってしまうと知能も低下してしまうらしい。最も、身体能力は人間の数十倍になるのだから、限りなく退化してしまうわけであって決して進化ではないと俺は思っている。
部屋の中には住人のものと思われる血が壁や床といった一面に広がっていた。
身長に廊下を進む。
「動くな! 狩人だ! お前にまだ知性が残っているならば投降しろ! 治療施設での治療が認められる!」
禍々しい瘴気を宿した元人間へと俺は言葉を発したはずだった。
……しかし、目の前にいるのは般若の仮面を被り、僧侶の袈裟を着た謎の人物であることに気がつくと、ホルスターから銃を抜き、構える。
般若の目の前にはもと黒瘴と思われる男性が血を吐き出しながら倒れていた。
「遅かったじゃないですか。この化け物は私が殺しておきましたよ」
「誰だお前は!」
「おやおや……狩人でもあるアナタが私を知らないとは……もしかして、私は既に狩人の資格を剥奪されているのですかね」
「なに……?」
般若は俺へと向き直ると、格好に似合わない西洋風のお辞儀をする。
「私の名前はスクイード。私の袈裟などという格好とカタカナの名前が噛み合っていないことを、昔はよくからかわれたものですが、コードネームですからご安心を。さすがに本名ではありませんよ。……はて? 何を安心するのでしょうかね?」
コイツは何を言っているんだ……?
自分の言葉にツッコみを入れる般若に不信感を浮かべる。
それは危機感とはまた別物である。
「あなたは……天野さんですね」
「俺の名前を……なぜ?!」
「色々と私の世界では有名人ですよ。アナタにとっては不本意かも知れませんがね……今回は私の勝ちです。いずれ必ず、アナタを迎えに行きますよ。あぁ、手柄は差し上げます。このような低級の黒瘴を討ったところで、微々たる金額にしかなりませんしね」
「待てっ!」
スクイードは俺の制止を聞くことなく、窓から飛び去っていく。
数秒後には彼の姿は見えなくなっていた。
俺の名前を知っていた……俺が有名人となっている……?
思い当たる節が一つだけある。
俺が永遠に抱えなくてはいけない頭痛の種。
「はぁ……事後処理班を呼ばなくちゃいけないか……」