第1話 命懸けになろう
「痛つつ……ここは?」
悠斗は目を覚ました。辺りを見渡すと、背の高い木々が生い茂っていた。空は暗く、どうやら夜のようだ。
「森……? どこのだ?」
悠斗は覚醒したばかりの頭をぶんぶんと振り、何が起こったかを思い出そうとした。
「確か東風谷に告白しようとしたら変な喋る輪っかみたいなのが……そうだ! 東風谷は!? 無事なのか!?」
悠斗は完全に目が覚め、辺りを更に注意深く見渡す。
「ぅ……ん……」
愛梨の声が聞こえ、悠斗は声のした方へと駆け出す。愛梨は木に背を預ける形で眠っていた。
「無事、だったか……」
悠斗は愛梨の姿を確認すると、安堵からか崩れるように座り込んだ。
「ここは一体どこなんだろう……? 木の感じからして日本っぽくないけど、まさか外国? うわぁ……これ帰れるのか?」
「……ん? 立花君?」
悠斗の独り言に愛梨は目を覚ます。悠斗は時々考えたことを口に出す上にその声がそこそこ大きいという中々に厄介な癖があるのだった。
「東風谷! 無事か? どっか痛むところとかないか?」
悠斗は転んだ幼児を心配する母親のように愛梨の周りを回りながら無事を確かめる。
「うん、大丈夫。ちょっと頭がボーッとしてるけど平気だよ」
愛梨はそう言って服の埃を払い元気に立ち上がった。
「そうか。よかった……」
「立花君は? 大丈夫なの?」
「ああ。なんともない。それより」
悠斗は言葉を切って辺りの様子を再び確認する。
「ここ、何処だろう? 東風谷は何か分からないか?」
悠斗の言葉に愛梨は木や空を注視するが、難色を示した。
「ううん。私植物とか詳しくないし、空を見てもここが何処かなんて……あれ?」
愛梨はそう言って空を見上げた後、とある一点で動きが止まった。
「どうかしたか?」
「見て、あの星。というか、星座」
悠斗は愛梨が指差す方を目で追った。
そこには輝く星々が並んでおり、特に大きな星がジグザグに置かれている。
「星座……? あんな形のあったっけ?」
「ううん。あそこまで規則正しくジグザグに並んでる星座は見たことない。ひょっとして、日本では見れない星座とかなのかなあ?」
愛梨は違和感に気付いたものの、その正体が分からず首を捻った。
「うーん……とりあえず人のいる場所に行ってみるか? 言葉が通じなくても見た目とか文化でこの辺が何処か分かるかもだし」
悠斗はアレコレと考えるのにもどかしさを感じ、行動しようと思った。
「そうだね。他の人がいると安心できるし。でもこの森を無闇に歩くのは危険かも」
愛梨の言葉に悠斗はハッとした。森は深く、視界は草木で囲まれており、時折鳥獣らしき鳴き声も聞こえている。
「あ、そっか。悪ぃあんま考えてなかったや」
(俺のせいで東風谷に何かあったら嫌だしな。もう少し慎重に動かないと)
悠斗は深呼吸をして思いとどまった。
「こういう時は……火を起こすのがいいよ! 獣避けにもなるし、あったかいし、煙で誰か気付いてくれるかもだし」
「…………」
悠斗は驚いた顔で愛梨を見る。
「? どうかしたの?」
「いや。東風谷って案外サバイバル慣れしてるんだなって……スゲーや」
悠斗は愛梨の逞しさに戸惑いと尊敬の念を抱いた。
「えへへ。私結構冒険モノの小説とか好きで一杯読んでるんだ。だから見よう見まねなんだけどね」
愛梨はちろっと舌を覗かせていたずらっぽく笑う。
「でも説得力あったぜ今の。よし、じゃあ俺は燃やせそうなものを探してくるか! 頭使わない分体動かさないとな!」
☆
悠斗は軽いキャンプ気分に切り替えて行動に移った。枯れ落ちた枝は意外と多く集まっていく。
(枯れ枝が多いな。ちょっと肌寒い感じもするし、日本と同じ気候なのかも。東風谷とまた話し合ってみるか)
パキッ
背後で枝を踏み抜く音。
「東風谷か?」
何気なく、振り向いた。そこにいたのは。
「グルルル…………」
狼だった、灰色の毛並みを月光に煌めかせ、黄ばんだ牙を剥き出しにして悠斗を威嚇している。
「え、えっと……」
(これ、スゲーピンチじゃね? 狼って確か群れで狩りするんだよな?)
「ウァオーーン!」
狼が空高く吠え猛る。すると、八方から呼応するように足音が聞こえ始めた。
「やっべ!」
(東風谷に知らせねーと! けど俺が近付くと東風谷も危険に!)
「きゃあああ!」
森に愛梨の悲鳴が響く。悠斗は事態を察し、一目散に愛梨の方へと走り出した。
「東風谷! 大丈夫か!?」
悠斗が合流地点に着くと、数頭の狼に囲まれた愛梨が木の枝でそれらを牽制していたが、腰が抜けたのか地面にへたり込んでいる。
「あ、立花、君……」
愛梨の顔は恐怖に歪んでおり、先刻までの明るい笑顔は消え失せていた。
「待ってろ! すぐに助け……」
「グガアアアア!」
悠斗が愛梨に近付くと、狼の一匹が悠斗に襲いかかった。どうやら彼らのテリトリーに足を踏み入れたらしい。
「くっ!」
悠斗は咄嗟に腕で防御するが、狼の鋭い爪が腕に掠る。冬服の学ランを切り裂き、鋭い痛みが走った。
「立花君!」
「クソッ! 東風谷……どうすれば……?」
(俺に何かできることは……!)
悠斗は思考を邪魔する痛みを恨めしく思う一方で、作戦を考えた。
(1つ……ある)
悠斗はその場にしゃがみ込み、足元の小石を拾う。
「…………」
小石を握り締めた悠斗は覚悟を決めるように一瞬目を閉じた。
(俺は、ここで死ぬのかもな……)
握る手が震える。いつもは考えるより先に行動に移すのに、今回ばかりは簡単には体が動いてくれない。
命懸けだと、自覚しているから。
「東風谷」
愛梨を、見る。愛梨も、悠斗を見た。
「生きろよ」
にっこりと、笑う。愛梨の怯える顔が、いつか笑顔になると信じると、手の震えは不思議と止まった。
「え? 立花く……」
ビュッ
「キャイン!」
悠斗は小石を思い切り投げた。それが脇腹付近にヒットした狼が小さく鳴く。
「まだまだ石はあるぜ! オラこっち来やがれ!」
悠斗は、まるで尻を叩いて挑発するように小石を狼のグループに投げ続けた。狼達のヘイトが悠斗へと向く。その証拠に、狼達は全員悠斗の方を向き始めた。
驚異の排除を優先したのだろう。狼達が唸りながら悠斗との距離を詰める。
「東風谷! 音が聞こえなくなるまで動くなよ! じゃあな!」
悠斗は愛梨に背を向けて走り出した。
「立花君!」
愛梨の声が悠斗を貫く。大好きな人が自分の名を呼ぶ。最後に聞く声がそれなら悔いはないと悠斗は自分に無理矢理言い聞かせた。
☆
「クソッ! 流石に速えな!」
森を駆け抜ける。大きな木の根を跳んで避け、背の低い枝を屈んで躱す。脚が悲鳴を上げるほど全力疾走しているのに、狼達は確実に距離を縮めてくる。
(まだだ! あと、300……いや、500メートルは離れないと! )
悠斗は息も絶え絶えに、それでも走った。そして、脚が動かなくなり、転がるようにして止まった。
「ハァ……ハァ……もう限界かよ? ちょっと、体を甘やかし過ぎたかな? こんなことなら……面倒がらずに……ハァ……部活やっときゃ良かった」
悠斗は這うように近くの木に寄り、もたれかかった。
(東風谷は……逃げ切れたかな?)
悠斗が最後に考えたのは、愛梨のこと。
家族や友人が頭をよぎらなかったとは言わない。それでも最後に、最期に思い出したのは、彼女の笑顔だった。
(もう一度、見てえな)
視界が滲む。死を直前にして、悠斗の不安や恐怖がようやく顔を出した。頬の上を温かい感触が伝う。
「ガルルル……」
狼が悠斗の周りを取り囲った。逃げ場はない。そもそも、逃げる足すら、既に捨てていた。
「あば、よ……」
「ゴガアアアア!」
狼達が一斉に飛びかかる。悠斗は笑顔を浮かべたまま目を閉じた。
「バーン・ジャグリング!」
ボボウ
「キャイン!」
「キャンキャン!」
轟音が鳴り、熱風が肌を撫でる。狼達の情けない鳴き声と共に、遠ざかる雑踏が悠斗の耳に届いた。
「……? あれ? 俺生きてる?」
悠斗は目を開く。手を握って開き、乳酸の溜まった脚がガクガクと震えているのを感じた。
「アンタ!」
悠斗は前方からの声に顔を上げる。そこに立っていたのは。
「魔法使い……?」
そう、魔法使い。
黒いマントに三角帽子。手には小さい杖のような棒きれが握られている。その顔は帽子のつばで隠れているが、声色から察するに少女だろうと悠斗は断じた。
「聞いてんの!? 夜の森に入るなんて何考えてるのよ! しかもそんな軽装で! 自殺志願者だったら邪魔して悪かったわね!」
少女はずかずかと悠斗に近付き、悠斗の鼻先をビシッと指差した。
「ん、と……あれ? 日本語?」
悠斗はチラリと少女の顔を見る。金髪に、エメラルドグリーンの瞳。どう見ても日本人ではなさそうだ。
「ニホンゴ……? まあいいわ! あっちで泣いてた女の子は知り合い?」
「! 東風谷!」
悠斗は立ち上がるが、震えた脚がすぐにガクンと膝を折る。
「ちょ、ちょっと! 大丈夫なのアンタ? 歩ける?」
悠斗の様子を見かねた少女が肩を貸す。
「あ、ああ。悪い。あの子を頼む、わ……」
悠斗はそれだけ言い残して気を失った。
「ちょ、ちょっと! 私腕力はそんなに無いのよ! しっかりしなさいよ!」
少女の声だけが森に響き渡った。
☆
少し前。悠斗が狼の群れを愛梨から遠ざけた直後。
「た、立花君……待って……」
愛梨は動かなかった。腰の抜けた自分が情けなくて、許せなかった。
(どうして、私なんかの為に……)
愛梨は悠斗のことを思い出す。
思えば、悠斗は優しい人物だった。
友人の頼みごとにはなんだかんだで応えていたし、任された仕事には文句を言いながらも、真摯に向き合う誠実さがあった。
(あの時、3年前の体育祭だって……)
愛梨は悠斗と初めての会話を反芻する。
楽しそうに話す悠斗。それを見ていると自分も楽しい気持ちになれた。
今。命を投げ出して自分を救ってくれた悠斗の最後の顔を思い出す。笑顔だった。
(もう、一度)
愛梨はキッと前を向き、立ち上がった。聞き分けのない足腰に鞭を打つ。
(もう一度、あの笑顔が見たい……)
「ちょっとアンタ! 女の子一人でなんでこんなとこにいるのよ?」
「きゃっ!?」
背後からの突然の声に、愛梨は再びすっ転んだ。
「あ! ゴメン……でも、どうしてこんな危ない場所にいるのよ?」
「魔法、使い……?」
愛梨はその少女の風貌にそんな印象を受ける。
「とにかく、早くここを出なさい。夜は狼が……」
狼、という単語で愛梨はハッと我に返る。
「お、お願い!」
愛梨は少女の肩をガシッと掴む。
「ひゃっ!? な、何?」
少女は驚きながらも聞き返す。
「たす、けて……立花君を助けて!」
声を振り絞って叫んだ。
☆
「あー……もう疲れた……」
魔法使いの少女は愛梨の前に現れた。肩には悠斗が担がれている。
「あ……立、花君……」
悠斗の姿を見つけ、愛梨の目から涙が溢れた。
「ほら、コイツでいいのよね? 全く、肉体労働は専門外よ。物を運ぶ魔法は苦手だし……って、泣いてるの?」
少女は愛梨の顔を覗く。愛梨は両手で顔を覆って泣きじゃくっていた。
「あり、がとう。ありがとう」
愛梨はお礼を言った。
悠斗に、少女に。
「バ、バカ! 知っちゃったものは放っとけないでしょ! 当たり前のことをしただけよ!」
少女は照れ隠しに帽子を目深に被り直した。
「うぅ……ぐすっ……良かった、本当に、生きててくれて良かったぁ」
愛梨は泣き止む様子は無く、どうしたものかと困り果てた少女は咳払いをして愛梨を注目させた。
「改めて自己紹介するわね。私はアンジェリカ・ロックウェル。あなたたちの名前を教えてくれるかしら?」
「わ、私は東風谷愛梨。この人は立花悠斗って言います」
愛梨は涙を拭って答えた。
「そ。コチヤとタチバナ……言いにくいわね。アイリとユートって呼ぶわ。それで? どうしてあんなところにいたのかそろそろ教えてくれるかしら?」
アンジェリカはそう言って悠斗が集めていた枯れ枝に掌をかざす。短い呪文を唱えると、掌から火の玉が発射され、枯れ枝を燃やした。
「……! 凄い! ホントに魔法使いなんだ!」
「ふふん。これくらいなんてことないわ」
アンジェリカは得意げにすまし顔で答える。
悠斗を焚き火の側に寝かせ、愛梨は事の顛末を話し始めた。
☆
「ふーん……車輪に飛ばされて、ねぇ……」
アンジェリカは愛梨の話を聞き終え、考え込んだ。
「信じてもらえないかもだけど、本当のことなの」
「そうね。話の辻褄は合ってるし、そもそもそんなホラ話をする為にしては夜の森のど真ん中にいるのは命懸け過ぎだわ。ところで」
アンジェリカは一応愛梨の話を真実と受け止める。
「何?」
「あなたたちの言うニホンって……一体何?」
アンジェリカの問いかけに、愛梨はきょとんとする。
「日本は国の名前で……」
「そんな国あったかしら? 聞いたことも無いわ」
アンジェリカはきっぱりと答える。
「? ……そう言えば、どうして私の言葉が分かるの? 日本語なのに」
「え? だって人間語は万国共通じゃない」
「???」
愛梨は話が噛み合わずに首を傾げる。
「どうもおかしいわね。とりあえず家に世界地図があるから確かめてみましょ。ほら、そいつ運んでよ」
アンジェリカは焚き火の火を杖で掬い取って松明のように持ち上げる。
「あ、うん」
愛梨は立ち上がり、悠斗を担ぎ上げた。
「あ、案外力持ちなのね……。やるじゃない」
アンジェリカは軽々と悠斗を担ぎ上げる愛梨に対抗心のようなものを燃やす。
「あ……」
愛梨は悠斗を背負って、気付く。
近い。というか、物理的にゼロ距離である。
「んー……むにゃ……」
「…………ッ!」
悠斗の鼓動を、寝息を、存在を近くに感じる。愛梨の顔は見る間に真っ赤になった。
「大丈夫? やっぱり無理してるんじゃない?」
そんな愛梨を見たアンジェリカは心配そうに声をかける。
「だ、大丈夫だから……」
「? なら、いいけど」
アンジェリカは釈然としない顔で歩き始めた。愛梨の気持ちなどどこ吹く風である。