5 暗転
私にとっては、いつもと変わらぬ朝だった。
毎日のように朝食の時間に寝過ごしていた私は、その日も見かねた誰かが起こしにくるのを待っていた。
それはいつも、母かメイドの誰かで。今日はどちらだろうか――と、思いながら私はもう一度眠りにつく。
二度寝は良いもの、極上の幸せである――なんて、その時階下で何が起こっているかも知らずに、のんきなものであった。
おかしい、と思い始めたのはしばらく経ってからのこと。とうに朝食の時間を過ぎているのに、誰も自分を起こしに来ない。こんなことは初めてだった。
とうとう、穀潰しには朝食を食べさせる価値なしと思われたのか――一瞬だけ、それも考えた。けれど、さすがにそれはないと思う。とはいえ、存在を忘れ去られた可能性は否定できないが。
後者の可能性を考慮して、私は階下に様子を見に行くことにした。穀潰しである私は、公爵家に忘れられては食い詰めてしまうからだ。
渋々にベッドから出て身支度をする。とりあえず何か食べるものを、と軽い気持ちで厨房に――そして食堂に向かった。
しかし、待っていたのは予想外の光景。
がらんとした食堂は静まり返っていて、ここで家族の朝食が食べられた形跡がまるでない。この時間ならまだ食事の片付けに、使用人たちがせかせかと動き回っているはずなのに、それもない。
何より、父、母、兄……未だ一緒に住んでいる家族の誰にも出会わない。騎士団に所属している兄はともかく、父が早朝から出掛けるという話は聞いていない。
母は――……? そう思った時、玄関ホールの方から声が聞こえた。
「奥さま、こんなところに座り込んでいてはお身体に障ります。どうかお部屋の方で……」
懇願するふうなそれは、よく知った執事の声。
私は慌てて、玄関ホールへと足を向けた。
「お母さま、何があったの?」
床に座り込んで茫然としていた母は、私に気づくと弱々しく微笑んだ。
その姿を見て、少しだけ安堵する。だけどそれは、間違いだった。
「モニカ……お父さまが」
「お父さまが、どうなさったの?」
「……」
母その先を言わず、ただ苦しげに顔を歪めるだけ。
傍らで今にも倒れそうな母の肩を支える執事に目をやったが、彼もまたきまりが悪そうに私から目を逸らした。
事の次第が分かったのは、母を執事のアンダートンと共に寝室に連れていって眠らせた後になってから。
一部始終を見ていた彼の口から語られたのは、今朝方憲兵が家にやってきて、父を連行していったということだった。
「憲兵なんて、何故? うちに何の用が……」
言いかけて、私は言葉を止めた。
騎士が王宮・王族の警備を司るの対し、憲兵の仕事は街の治安維持だ。それには、犯罪者の捕縛も含まれる……
――つまり、父は逮捕されたことになる。
「クレイトン伯爵から、憲兵団に訴えがあったそうでございます。その……伯爵夫人と、旦那さまが、姦通の罪を犯していると」
アンダートンの言葉に、まさかとは思うが、納得はいった。この国では不義密通は犯罪だから――でも。あの、お父さまが?
「嘘でしょう? お父さまは誰かに嵌められたのではなくて?」
不思議と私は落ち着いていた。あの父が、そのようなことをするとは到底思えなかったからだ。
「……真偽は分かりません。しかし、旦那さまは憲兵に抗議することなく……まるで」
「否定しなかったと? 何故なのですか?」
「……それは……分かりかねます」
アンダートンは、そう言って私から視線を外す。
これ以上は無駄だ、と思った。彼はこれ以上の事実を知らないし、分からない。もしくは、答えられない理由がある。
「しかしながら、若さまがお手を尽くしてくださいますゆえ、どうかご心配なさらぬよう……」
先程の母のように倒れられては困ると思ったのか、アンダートンは付け加えるように言った。
だけど気休めだ、そんなもの。
兄にそんな力があれば、父はそもそも捕まってなどいないだろう。
「分かりました、ありがとう。私は部屋に戻っていますから、何が新しいことが分かれば教えてください」
「かしこまりました、お嬢さま」
労をねぎらうように微笑めば、アンダートンは恭しく頭を下げた。
部屋へと戻る途中、馴れた家の廊下がひどく長く感じた。いかにのんき者の私でも、この状況の深刻さは分かる。
たとえ、ことの真偽がどちらであろうとも、これは大変なことになる――そう、思った。
しかも、クレイトン伯爵夫人だなんて――……見知った顔が頭にちらついて、私はますます憂鬱になっていった。
翌日になると、ブライトマン公爵家の憂いは晴れるどころか悪化した。新聞には「公爵家の大スキャンダル」の文字が踊り、父の逮捕は街中の人々の知るところとなったのだ。
父の件に対する釈明のためには兄が王宮に出向いていたが、戻ってきた兄の表情はただひたすらに暗い。私はとても状況を訊ねる気には慣れず、空気を察するしかなかった。
――おそらく、お父さまは有罪になる。
正式な決定は裁判の判決を待つことになるが、兄の様子からして、父の罪は真実なのだろうと思った。冤罪ならば、家で大人しく落ち込んでいる兄ではない。公爵家の名誉をかけて戦う――そういう人だ。だからこそ、もうどうしようもないことなのだ、と分かった。
しかしながら、父がクレイトン伯爵夫人と通じていたという事実には未だに実感が湧かなかった。そのせいか、父に対しても特に嫌悪は感じない。
たけど、優しくも真面目な父だと思っていた――それが、こんなにも簡単に脆く崩れ去る。一生をかけた誓いを立てたはずなのに、これでは母があまりに哀れだ。
――結婚が幸福なことだなんて、誰が言ったの。
かつて、王子との婚約に浮かれきっていた自分が本当に馬鹿みたいだ。
やっぱり、私はこのままがいい。穀潰しと陰口を叩かれても、家族と暮らす今の生活で満足している。
今更結婚なんて必要ない。私は一生この家で生き、いつか父母を看取り、そして死んでいく。
そう望むことが、いけないことであるはずがない。だって私は、それができるだけの家に生まれたんだもの。
父の逮捕からしばらく時が過ぎて、裁判の判決が出た。父と伯爵夫人は共に有罪、そしてそれぞれに罰金が科され、事態は一応の決着を見た。
父は、釈放され家に帰るなり母に土下座した。そんな父を見て、母も今更離縁して実家に戻るよりは、公爵家で父とやり直すことにしたらしい。母が決めたことならと、兄も姉も賛成した。
私も反対はしなかった。家族が元通りになることが望みだったし、そうでなければ、自分の居場所がなくなることも分かっていたから。
けれど、世の中そう甘くはなかった。
例の件に引き続き、父の借金が発覚する。どうやら父は伯爵夫人に相当な金額を貢いでいたようで、公爵家の土地や資産を抵当に入れていた。
その返済のアテであった事業は、父のスキャンダルのこともあり失敗に終わり、裕福だった公爵家は次第に困窮していく。
もちろん、父も兄も表向きはそんな素振りは見せなかった。古くは王族の血を引くと言われる生まれながらの貴族が、庶民の暮らしに身を落とすことなどできるはずもない。
こうして残された資産を食い潰し、没落していく貴族は珍しくないと聞く。誰も彼もそんなことは分かっているはずなのに、現実に気づかないふりをする。
かくいう私もその一人で、滅びゆく運命を感じながら、これまで通りに日々を過ごしていた。
父のスキャンダル以降、「結婚相手を探すふり」なんてばかばかしいことはやめた。兄が何かを言ってくることもなかったので、私の生活は更に内にこもったものになっていった。
いつしか夏が過ぎ、秋になる。私はまた一つ歳をとり、結婚からは遠のいた。
ルシオ王子から手紙が届いたのは、そんな時だった。