3 王子の性癖、私の悪癖
「……今日は、月が綺麗だ」
私がバルコニーで夜空をぼんやりと見上げていたから、彼はそう言ったのかもしれない。
舞踏会もお開きに近づいたこの時になって、私に声をかけようなんて物好きがいるものだ――そう思って振り向いた刹那、その人物を見て硬直する。
先程と比べると顔色もすっかりよくなってはいたが、それは間違いなくあのルシオ王子だった。
「……そ、そうですね」
思わず声が上擦る。
王族とまともに話をするのなんて初めてだ。これで大丈夫なのだろうか? ていうか、私に話しかけてるんだよね?
「先程は大変失礼した。私はフランドルト王国が第二王子、ルシオ・フランドルトと申す者。まずは礼を言わせて頂きたい」
「……わ、私は何も。礼には及びません」
「いえ、そういうわけには。貴女は私を救ってくださったのだから」
「そんな、大袈裟です」
間近で見る吐きそうになっていない王子は、精悍な体つきで目鼻立ちも整っている。
一般的に言って、見目はかなり良い方だと思う。なんだか……変な気分だ。一度も会わぬまま婚約破棄されてしまった元婚約者。その人が今、何の巡り合わせか目の前にいて、私と話をしているなんて。
「ならばせめて、今宵はエスコートさせてください。私と踊って頂けますか?」
もはや、何が起こっているんだか。当然、私に手を差し出す王子は、まさか相手が元婚約者とは思ってもいないだろう。
そして更に私を困惑させたのは、王子の手がわずかに震えているように見えたこと。
けれど、彼は微笑んでいる。これは私の気のせい? いや、でも……
「そういえばまだ、お名前を伺っていなかった。レディ、なんとお呼びすれば?」
「……いけません。私、殿下とは踊れません」
私は差し出された手を拒絶する他なかった。
王子と踊るのが嫌だったわけではない。クレイトン伯爵夫人の言葉を真に受けているわけでもない。
けれど、王子は私が自らが婚約破棄した元婚約者だとは知らないのだ。それを黙ってこの手をとるのは、なんだかとても卑怯なことのように思えた。
「……何故です?」
そう言った王子の顔から微笑みが消えた。
しかし、代わりに浮かんだのは驚きでも怒りでもなく、私は更に困惑する。
そう――まるで、拒絶されることを知っていた、みたいな。
「私のような者と踊っているところを見られては、殿下があらぬ噂をたてられてしまいます。どうぞ、私のことはお気になさらずお捨て置きください」
「そんなことはないでしょう? 貴女は素敵な女性だ」
よく言う、と思った。社交辞令だとしても、気づいていないのだとしても、無神経な王子の言葉に何故だか急に腹が立つ。その素敵な女性を一方的に捨てたのは誰なのか。
「……私の名がモニカ・ブライトマンだと知っても、そう言ってくださいますか」
自ら名乗ったのは、涼しげな王子の顔を少しでも崩してやりたいと思ったから。
穀潰し上等でやる気のない私に、こんな感情が残っていたことに自分で驚く。どうやら――私は、思っていた以上にあの婚約破棄を気にしていたようだった。
「……貴女が……ブライトマン公爵家の?」
「そうです。二月ほど前まで、畏れ多くも殿下の婚約者でした。もしかしたら、もう覚えてはおられないかもしれませんが」
王子の顔には明らかな戸惑いが浮かんだ。自らが婚約破棄した元婚約者の存在を思い出したのだろうか。
王子がどんな風に言葉を返してくるのか見ものではあった――が、彼の反応は私の予想を超えたものだった。
「忘れるなんて――そんな、もちろん、もちろん覚えています。貴女には大変申し訳ないことをしてしまった。その上、知らなかったとはいえ更なる無礼を……どうかお許しください」
突然の元婚約者との出合いは、ルシオ王子にとっても思わぬものだったらしい。
狼狽しきって、いち公爵令嬢ごときに平謝りする王子はこちらとしても想定外で、反応に困る。――というか、仮にも王家に連なる者が、そう簡単に頭を下げても大丈夫なのか。いくら非があちらにあるとはいえ。
「父が……問い合わせても、理由すら教えて頂けませんでした。それほどの謝罪の気持ちがおありなら……どうして……」
「全ては私の不徳の致すところで――申し開きの言葉もない」
王子と話をすればするほど分からなくなる。
唐突な婚約破棄をしておいて何のフォローもない不実さと、王子という身分にありながら、たかが公爵令嬢に頭を下げることも厭わない潔さ。どちらが本当の彼か。
表面だけ取り繕うことはもちろんできるだろう――……しかしどうしても、王子の謝罪が嘘には見えなかった。
「元々……貴女との婚約は私の本意ではなく、公爵家との縁を結びたい王妃――母が、強引に推し進めたもの。もちろん、それをとめることができなかったのは私の非力さゆえだが。婚約を破棄したのは、私の独断で――結果、母をカンカンに怒らせてしまってね。本来なら、直接お詫びに伺うべきところを、許されず、今に至るという情けない話ですよ」
途中から、王子はほとんど自嘲するようだった。
本意ではない結婚――……王族や貴族にとってはさして珍しくもない話だ。それに抗おうとする者が全くいないわけではないが、大抵の者は自らの使命として受け入れる。高貴な家に生まれた子供は、幼いころからそのように教育されるからだ。
私自身、ルシオ王子との婚約が決まった時、自分の運命として何の疑問も持たなかった。
それが、この王子は……よほど奔放に育てられたのか。それとも……
「貴女を傷つけまいとの一心で婚約破棄に至ったが、結局貴女をひどく傷つけてしまった。ブライトマン公爵はさぞお怒りのことだろう」
「殿下との結婚によって私が傷つくとはどういう意味でしょう? 殿下には、他に想い人がいらしたのですか」
例えば、小説の中に出てくる身を焦がすような恋。そういう人が王子に既にいたとすれば、他の女との婚約など破り捨てたくなるのかもしれない……と私は考えた。
「いや、そういうわけでは……ないのだが……」
私の浅い想像はすぐさま否定される。しかし、後に続く言葉を待っても、王子は言葉をを濁し、はっきり言おうとしない。
「では、私のことがよほどお気に召さなかったとか……」
「それは違う! 断じて違う……貴女に一切に非はないのだ……」
「ならば、何故ですか」
婚約破棄の理由は、確かに気になるところもあったが、もはや終わったこと。王子がこれほど言いにくそうにしなければ、私だって迂闊に追及しなかっただろうに。
適当な嘘で流してしまえないところがこの人……この王子の短所であり長所であったのだと、私は後になって思い至る。
「貴女は、私の噂をご存じないのだな。でなければ、私を助けたりはしない。このように、長話に付き合ってくれることも」
「はあ……噂ですか」
ぼんやりとクレイトン伯爵夫人の言葉を思い出す。確か……性癖がなんとか。
その言葉の意味が私の中で十分に咀嚼される前に、王子が先に口を開いた。
「私は……女性を愛することができないのだ」
「……えっ?」
王子の衝撃的な告白に、思わず素っ頓狂な声が漏れる。
「それは、つまり、えーと……」
同性愛者、的なあれですか?
さすがにはっきりとは言いづらい私に、王子は頷きすっかり肩を落として言った。
「……王子といえど、私のような者に対する世間の風当たりは強い。だれが言いふらしたのか分からぬが、今では社交界でもすっかり広まってしまっている。このような男と結婚して、貴女が幸せになれるはずがない、そう思って婚約を破棄した」
「……そ、そうだったのですか。でも、ならば何故、今日は夜会に?」
「こうなってしまったのは、私が女性に苦手意識を持っているからだと……このような場所で女性に触れられるようになれば、いつか私も女性を愛せるかもしれぬと医師が言ったからだ」
荒療治にもほどがある。女に触れることすらままならないのに、私をダンスに誘っていたなんて。本当にあの時王子の手をとらなくて良かったと思う。
この国で同性愛者への風当たりが強いのは確かだ。クレイトン伯爵夫人の冷ややかな言葉、貴族令嬢たちの嘲笑を見れば分かる。
私を誘う王子の手は震えていた。それなのに、精一杯微笑んで、懸命に女を愛せるようになろうと努力して……
「私はきっと一生同性しか愛せない……子を残すこともできないだろう。王家に生まれた男として、これ以上の親不孝はない……」
先程までの王子は、おそらく虚勢をはっていたのだろう。全てをさらけ出してしまえば、王子は非常にネガティブでじめじめしていることこの上ない。
けれど、私は同性愛者には特に何の感情もないし、そして何より――王子が他人とは思えなかった。もちろん王子と私は違う。彼は懸命に努力をしていて、穀潰しするための努力くらいしかしていないクズな私と同列にするのは失礼な話だ。
何故か、この王子には笑って欲しいと思った。この人は――他人の心ない言葉に傷ついて、落ちていっていい人じゃない。
「子を残すことが全てじゃないと思います……だからそんなに落ち込まないでください」
「そう言ってくれる貴女は優しい人なのだな。しかし、世間の目はそうはいくまい……家族にも迷惑をかける」
「それは、そうかもしれませんけど……」
どうにかして、元気を出して欲しかった。だから……つい、調子に乗ってしまったのだと思う。
「――実は、私も同じなのです。殿下のお気持ちはよくわかります。確かに周囲の風当たりは強いですけれど、恥じるようなことではありません」
「ちょ、ちょっと待ってくれないか。同じ……とは、どういう?」
まさか聞き間違いだろうと、首をかしげた王子に、私ははっきりと答える。
「私も異性を――男性を愛せません。同性愛者なのです。だから私たち、良いお友達になれると思いませんか?」
調子がいいのも、ここまで堂々と大嘘をつけばもはや悪癖だ。
もしも過去に戻れるならば、この時の私をいっそ殴り殺したい。
後々、クズな私はそんな後悔をすることになる。