29 決心
ふたりの間に、どれくらいの沈黙が流れただろう。それは王子の言葉によって、唐突に破られた。
「すまない――こんなことを言うつもりではなかったんだ。君を困らせるだけだとも分かっている。ただ――伝えたかった。私は誰よりも君を必要としていると――だから、自分に価値がないなどと思わないで欲しい」
何と答えれば良いのか、分からなかった。喜びよりも驚きが大きく、未だ現実とは思えなくて。
「――やはり、私は自分の部屋に移ろう。混乱させてすまなかったな」
いつまでも言葉が出てこない私にわずかに苦笑すると、王子はいつものように優しく微笑んだ。
「いえ……」
「ゆっくりお休み、モニカ」
寝室の扉がゆっくりと閉まる。
引き止める勇気なんて、私にはなかった。だって――全部、私のせいなのだ。
一人残された寝室で、私は王子と初めて会った夜のことを思い返した。
兄に言われて渋々出席した舞踏会。あの夜の王子は、なんだか酷く落ち込んでいて。私は、それを励ましたくて……嘘をついた。
思えば、彼が自分を男色家だとか、同性愛者だと明言したことはなかったかもしれない。それなのに私は、勝手に勘違いをして。
自分の馬鹿さ加減には、ほとほと呆れる。もしも、過去に戻れるなら――全部なかったことにしてしまいたい。
そうしてもう一度王子と、出会いなおせたらいいのに。
もちろん、そんな願いが叶うはずもなく――……こうして始まった結婚生活は、意外にも淡々と過ぎていった。
王太子妃というものは、想像していたよりもずっと、することがない。結婚に際して、薬室も辞めてしまった私は日々暇をもて余していた。
まるで、実家で穀潰ししていた頃の生活のよう――と思いきや、あの頃とは決定的に違う要素があった。それは、王妃(=姑)の存在だ。
ルシオ王子とフランシスカ王女の生母で、国王の二人目の妻でもある現王妃は、大きな子供が二人もいるとは思えないほどに若く見える。
さらには、今も衰えぬその美貌で王の寵愛を受け続ける彼女のおかげで、その生家の貴族家は勢力を拡大し続けているとか、いないとか。
そんな王妃は、何故か私と同じく暇をもて余しているらしく、自分の茶会に頻繁に私を呼び出し――否、招待して下さった。
「――それで、孫の顔を見せて下さるのは、いつ頃になるのかしら?」
何回目の茶会か、その日も王妃は毎度の台詞を繰り返した。
内心緊張が走る。幾度この質問をかわしても慣れることがないのは、誰にも言えない罪悪感なのか――
「お義母さま……それは」
「もう――母さまったら、昨日も同じことを義姉さまに聞いてらしてよ?」
震えかかった私の声を遮るように言ったのは、共に茶の席につくフランシスカ王女だった。
おそらく私の緊張を察してくれたのだろう、彼女は王妃に気づかれないように目配せして微笑む。
「だって――いつ懐妊のきざしがあるか分からないでしょう? 楽しみなの、初孫ですもの」
――ああ、言えない。私がルシオ王子と、一度も夜を共にしたことがないなんて。
王子が同性愛者ではないと知ったあの日以来、彼は一度も私の寝所を訪れてはいない。幸いにもそのことを知るのは、夫婦のごく近くに仕える者だけだ。今のところは。
「だからって母さま、そう義姉さまを急かしては、できるものもできないのではありません?」
「あら、そういうものかしら……ごめんなさいね、モニカさん。ほほほ……」
こわばった笑顔を作りながら、この人はきっと明日も同じことを言っているに違いないと確信する。
正直、この王妃の茶会は……どちらかと言わなくても苦痛だ。王妃自体は少々子供への愛情に溢れすぎている以外は、悪い人ではないのかと思う。私と王子との結婚も祝福してくれたし、早く世継ぎを、と望んでもくれる。それが辛いのは、嘘をついているような罪悪感だと思う。王子と私の結婚生活は、彼女が想像しているようなものにはほど遠く、子作り以前の問題である。
唯一の救いは、母親に似て気の強い(失礼?)フランシスカ王女が、私の味方でいてくれて、しばしば助け船を出してくれること。
しかし、頼もしい義妹はもうすぐ隣国セーヌに嫁いでしまう。そうなれば、茶会も姑と二人――一体どうなってしまうやら。
全部、全部自業自得だ。自分が情けなくて、いっそ消えたくなる。
「ところで、モニカさん。結婚パーティーのことなのだけれど、ドレスの手配は済んで? もし良かったら、わたくしが昔着たものがあるから、一度着てみないかしら? きっと似合うと思うのよ」
「えっ……パ、パーティー……ですか?」
自己嫌悪に陥っていたところに、満面の笑みの義母から、耳慣れぬ言葉が飛び出した。
――しかも、結婚……パーティーって。
「あら、ルシオから聞いていないの? おかしいわね、昨日には陛下から話が行っているはずなのだけれど」
王妃は少し怪訝そうに首をかしげる。
だけどまさか、昨日どころか数日ほど王子には会っていないなんて言えないし。
「きっとあの子ったら、モニカさんに伝えるのを忘れちゃったのね。まぁ、詳しくはルシオから聞いてもらったらいいのだけど――……結婚した二人のお披露目がまだでしょう? ほら、式は内々で済ませてしまったし……少し落ち着いたら、お披露目のためにも、パーティーでも開くのがいいわねって、陛下ともお話していたのよ」
「それは素敵なお話ね。義姉さま、結婚式もお綺麗だったし、皆に見せて差し上げないと。きっと兄さまは羨ましがられるわよ」
「そんな……恐縮ですわ」
曖昧に笑った私の小さな声は、パーティーの話に花を咲かせる王妃と王女の声にほとんどかき消された。
まるで別世界の話のようだ……と思いながら、私は気が遠くなる。
パーティーのことはともかく、このままではいいはずがない。でも……どうしたら?
「母さまのこと、悪く思わないであげて下さいね」
茶会の後、自室に戻ろうとする私を呼び止めたのは、フランシスカ王女だった。
「いえ、悪くだなんて……いつも良くして下さっているのに」
「無理なさらなくってもいいのよ。わたしから見ても、少々浮かれすぎだと思うから。兄さまが結婚すると言った時の喜びようったら……きっと、誰よりも喜んでいるのが母さまね」
「そうなのですか?」
王女は、わずかに苦笑しつつ更に言う。
「そうよ。父さまも母さまも、ルシオ兄さまに関しては半ば諦めていたところがあったし。昔から兄さまの女嫌いはすごくってね……せっかく決まった縁談を何度も勝手に反故にしちゃうような人だったから。まあ、全く相談なしで決めた母さまも悪いかもしれないのだけれど」
そう言えば、私と王子の縁も婚約破棄から始まったのだった。それがなんだか、遠い昔のことのように思える。
「しまいには、男色家だなんて噂が流れて……だけど兄さまは何も言わないから、実はわたし、半分くらい信じていましたもの」
「……まあ」
「義姉さまに出会ってから、兄さまは本当に変わったわ。家族以外の女とは、まともに口も利けなかったあの兄さまが結婚なんて。本当に義姉さまのことが好きなのね……その点だけは、自信を持っていらして大丈夫ですわよ」
「そんなこと……」
何故だか、急に泣きそうになった。
私は王子に好かれる資格なんてない、クズなのに。嘘をついている、クズなのに。
「きっと幸せになってくださいましね。兄さまなら、必ず義姉さまを大切にして下さるから」
フランシスカ王女は、両手で私の手を取って屈託なく笑った。
彼女は、政略結婚で隣国に嫁ぐことが決まっている。王族や貴族にとって、それは珍しいことでも何でもない。
――ごめんなさい、フランシスカさま。
彼女の手を握り返しながら、私は心の中で呟いた。
――大切なお兄さまを傷つけてしまうかもしれないこと、どうかお許し下さいね。
愛する人に愛される――それがどれほどの奇跡なのか、少しも分かっていなかった。
やっと心が決まった。どうしようもない私でも、これ以上の不誠実は許されない、と思う。
ほんの一瞬でも、王子が心を下さった。それだけで十分幸せだった。
だから――この嘘はもう終わりにしよう。たとえ二度と、彼に笑いかけてもらえなくなっても。




