25 彼女にあって、私にないもの
その日――何日かぶりに冴えた頭で目覚めた私は、朝日が眩しいということを思い出していた。
「モニカ、本当にもう大丈夫なの?」
「はい、リディアお姉さま。ご心配をおかけいたしました」
こちらを見るリディアの表情は未だ心配げで、安心させるべく力強く頷いてみせる。
正直に言うと、身体にはまだ気だるさが残ってはいたが、それはどちらかというと数日の間寝床から起き上がれずにいたことに対する後遺症のようなものというか。
この程度なら、問題ないだろう。それよりも私が寝込んでいる間、姉には宿舎に泊まり込みで看病させてしまったし、薬室の仕事もずっと休みっぱなしで、これ以上迷惑はかけられないと思う。
「よかったわ。じゃあ、私はもう帰るわね。さすがに家の方も心配になってきたし……」
「では、馬車までお送りします」
「いいのよ、そんな。病み上がりでしょう?」
「いえ、どちらにしろ私も出勤しなくてはいけないですから」
そう言って仕度を始めた私を、リディアは目を丸くして見た。
「……あなたがそんなに仕事熱心だなんて知らなかったわ。だけど、今日くらいは休んでもいいと思うわよ」
「…………」
何年も穀潰しに甘んじてきた私だ。
そういう風に驚かれるのは仕方がないのかもしれない。というか、自分でも少し、驚いている。
ルシオ王子と出会う前、こんな私はきっと想像もできなかった。
「いえ……仕事熱心というか……薬室の方々にも迷惑をかけたことを謝らなければならないし、その殿下にも」
お礼を、と言いかけて思わず口をつぐんだ。
オーガスタス王子とリリーさまの婚約披露パーティーの夜、私がいなくなったことに最初に気づいたのは兄と姉だ。けれど、二人はあの夜本当は何があったのか知らないはず。
別れる前に、ルシオ王子には口止めをした。余計な心配をかけたくなかったから。
けれど、気まずく視線を逸らした私にリディアが言ったのは、意外な言葉だった。
「ルシオ殿下は、当分薬室にはいらっしゃらないと思うわよ。きっと、それどころじゃないくらいにお忙しいから」
「え? そう、なのですか……?」
今までも、そういう時はあった。薬の研究は、本来ルシオ王子の仕事ではない。公務があれば、そちらを優先しなければならないのは分かる。
だけど、何故かリディアが断言するふうなのが気にかかった。
「あなたが寝込んでいる間に、大変なことがあったのよ。なんだか言いそびれてしまったのだけど……先日、オーガスタス殿下がご病気を理由に王位継承権の放棄を申し出られて、国王陛下の承認のもとに廃嫡が決まったの」
「ちょ、ちょっと待って下さい……!」
「驚くわよね。オーガスタス殿下が病弱だという噂は前々からあったけれど、とてもそんな風には見えなかったし……婚約したばかりだったのに」
オーガスタス王子の廃嫡――しかも彼は、自らそれを申し出たのだという。
病気は事実だとしても、一体何があってそんなことになったのか――寝ぼけ頭に理解が追い付かない私に、リディアは更なる事実を突きつける。
「ルシオ殿下は正式に立太子されて、王太子になられたわ。急に決まったから、王宮はもうバタバタっていう話よ」
「……ルシオ王子が……王太子?」
「そう、パーティーでモニカと一緒にいたあの方が、次の国王になられるのね。なんだか実感がわかないわ」
「……はい」
私は気の抜けた返事を返しながら、ぼんやりと思い出した。
ルシオ王子の婚約者だった頃、もしも王子が国王になれば、私は王妃になって贅沢三昧……なんて、クズな妄想をしていたっけ。
私は王妃にはなれないけれど、王子は本当に王太子になった。
――そして、次の国王になるんだ。
リディアの言った通り、ルシオ王子は何日たっても薬室には現れなかった。
それでも何もなかったかのように、日々は続く。やがて最後に会ってから一月が過ぎて、あの日王子と一緒にいたことは夢だったのだろうかとすら思い始めた。
王子と長く会わないことは前にもあった。
しかし、あの時とは事情が違う。
王子は怪我をして人前に出てこれないわけではない。時を待てばそのうち会えるだろうなどと、楽観的には思えなかった。
もともと違う世界の人だったけれど、王太子となったルシオ王子は、ますます遠い存在に感じてしまう。
そのうち薬室のことなど忘れてしまって、私のことも思い出さなくなってしまうんだろう……そんな気がする。
だけど……多分、それは仕方のないことだ。私は単なる薬室の雑用係で、彼はこの国の頂点に立つ人なんだから。
「モニカさん、大丈夫? こぼれてるけど」
「えっ……あっ! すみません!」
ある日の勤務中、不意に薬室長に現実へ引き戻された私は、カップから溢れだす茶に気づいて慌てた。
ここへ来て茶の淹れかたを覚えてからは、こんなミスはしなかったのに。
「すぐに淹れなおします!」
「いいのよ、慌てなくて」
薬室長が呆れることもなく、優しく笑ってくれたのがせめてもの救いだったが、いたたまれなさは感じてしまう。
そんな私に、薬室長は更に言った。
「それより、モニカさんにお客さまがいらしてるわ。気分転換にでも、出ていらっしゃいな」
お客さま、と言われて首をかしげた私を待っていたのは、オーガスタス王子の婚約者のリリーさまだった。
彼女と会うのもパーティーの夜以来のこと。あの後どうなったのか全く知らない私は、どう声をかけたらいいのか酷く迷った。
「ご無沙汰しておりました、モニカさま。あれからお詫びにも伺わず、申し訳ございませんでした」
結局、先に口を開いたのはリリーさまで。
深々と頭を下げる彼女に、私は戸惑いを隠せなかった。
「頭を上げて下さい……私のような者に、そんな」
リリーさまは仮にも、元王太子の婚約者。もしもオーガスタスさまが国王になっていれば、王妃になっていたお方だ。
それに……あの日どんな事情があったのかはよく分からないけれど、助けてくれたのは間違いないわけで。
「いいえ、そういうわけには参りません。一歩間違えば、取り返しのつかないことになっていたのです。幼い頃から側にいた者として、彼を止めるのはわたくしの義務でした。それなのに、一時とはいえ……わたくしは、モニカさまの将来に傷をつけてしまうところでした」
確かに、あの時のことを思い出せば今でも怖い。けれど、オーガスタス王子がああなったのが、リリーさまのせいだとは思わない。
王太子と幼馴染みで婚約者の侯爵令嬢……どちらの立場が強いかなんて、誰に聞かなくても分かる。
「私は、リリーさまを恨んでなどおりません。だから、どうか頭を上げて下さい」
「けれど……」
「リリーさまがいい方だっていうのは、今のでよく分かりました。私に取り入ったって、いいことなんて一つもないのに、真摯に頭を下げて下さるのがその証拠でしょう?」
すると、リリーさまが顔を上げる。そして、自嘲するように言った。
「モニカさまは、わたくしを買い被っておられますわ。わたくしは、自分勝手な人間です。どれだけ周りの人々に迷惑をかけようと、とうとうオーガスタスさまを諦めることができませんでした。あんな方だと分かっていても、お慕いしているのです……他には何もいらないと思えるほどに。今も」
リリーさまは自分が非難されて然るべきだと思っている。それは実際、正しいのかもしれなかった。だけど。
「私は、リリーさまが羨ましいです。一人の方にそれほど想いを尽くせることが。だから……どうか、オーガスタス殿下とお幸せに。私は、リリーさまを許します」
私なんて、ただ遠くから眺めているだけだ。忘れられても仕方ない、なんて諦めて。
そんな人間に、どうして彼女の想いを責める資格があるだろう。
「……モニカさまはやっぱり、お優しい方ですね」
そう言って微笑んだリリーさまに、上手く答えることができなかった。
リリーさまのことは本当に恨んでいない。
だけどこの気持ちは多分、優しさとは違うと思ったから。




