24 リリーとオーガスタス③
それからは、少々肩身の狭い数年だった。わたしは未婚のまま年を重ね、この国で言われる女の旬を過ぎてしまった。そのうち社交界に出るのも気が引けるようになって、時々自分が捨てしまったものをまざまざと見せつけられているような気分にもなる。
結局、手に入れたと言えるものは何もない。オーガスタスさまがわたしの方を向いてくださったのは、あの一度きり。愛されないばかりか、触れてすらもらえない日々が長く続いている。
それでも、これまでのようにそばにいることだけは許されたから、後悔はしていなかった。
そのオーガスタスさまの病気は、緩やかな進行をたどっていた。毎朝飲んでいる薬が一定の効果を発揮しているのか、 医師の見立てよりももう随分長く生きた。
とはいえ、確実に悪化はしている。去年よりも確実に細くなった脚が、腕が、その先を予感させる。
異母弟を蹴落とし、誰もが認める王位継承者になって、彼は満足しているようだった。国民の期待を一身に背負う彼の後ろ姿を見る度、わたしは目を背けたくてたまらなくなる。
これが彼の欲しかったもの? だけど、その先には何もない。彼はきっと、どこへも行けない――
「結婚しよう」と言われた時は、本意がどうであれ嬉しかった。
これまで頑なにわたしの気持ちを受け入れようとしなかったオーガスタスさまが、本気でそんなことを言うはずがない。わたしはただ、利用されようとしているだけだと分かっている。
本当にひどい人、でも、わたしはそれを否と言えない。決して、彼を嫌いになれない。幼い頃からの夢がようやく叶うのだ。たとえそれがどんな形であろうと、……だから。
彼が本当は何を考えているのか、頭をよぎったそれを何度も打ち消して、笑った。
何も知らないふりをする――それがオーガスタスさまの愚かな企みに加担することだと、分かっていたのに。
婚約披露パーティーの夜、「モニカさまを人知れず連れていくこと」――オーガスタスさまがわたしに望んだのはたったそれだけだった。
察することも、理解することも放棄した。これはオーガスタスさまのため、そして……自分のため。
首尾よくモニカさまを閉じ込めて、わたしは王宮の客室で一人、眠りにつく。
――明日になれば、またいつも通りの朝が来る。
そう、思ったのに。雑念がずっと頭から離れない。浮かんでは消える、二人の影。
――何のために、モニカさまを?
聞けば教えてくれたのかもしれない。でも、たずねることはできなかった。
愚鈍で能なし、根暗で研究室ばかりにこもって、その上男色家。そういう不名誉な評判ばかりだったルシオさまに、少しずつ明るい話が聞かれ始めてから、オーガスタスさまがの機嫌が目に見えて傾いたのは知っていた。
今、彼が何をしようとしているかなんて、いくらでも想像がつく。
そしてわたしは、また見過ごそうとしている……彼のために、ほかの誰かが傷つくことを。
「……お嬢さま」
不意に――扉の外から申し訳なさそうな侍女の声がして我に返る。
彼女は戸惑った様子を見せながらも、来客の訪れを告げた。
日付もとうに変わってしまった深夜、わたしの泊まっている部屋を訪ねてきたのは、ルシオさまだった。
「このような夜更けに大変申し訳ございません。実はパーティーの後から、ブライトマン家のご令嬢の姿が見えず――宿舎にも帰っていないというのです。万一のことを考え、こうして聞いてまわっているのですが、リリーさまは何かご存じありませんか」
ルシオさまは平静を装いつつも、内心では狼狽しているように見えた。
違う意味で、それはこちらも同じ。まさか、こうして訪ねてこられるとは思わなかったから。
「まあ、それは心配ですのね。だけど、存じませんわ。お力にはなれなくて、申し訳ありません」
「いえ、お気になさらず。こちらこそ夜分に失礼致しました」
わたしの大嘘にも微塵も疑う素振りを見せず、ルシオさまは丁寧に礼を言って去っていった。
――本当に、お人好しなのね。
オーガスタスさまとはまるで正反対。そんなのだから、つけこまれる。傷つけられる。泣きたくなるくらい、人を疑うことを知らない人。
もういい大人なのだから、ルシオさまだってしたたかになることを学ぶべきだった。かわいそうだけれど、わたしにはどうしてあげることもできない。
自分が許してもらえるとも思っていない。だけど、オーガスタスさまは本当に分かっているんだろうか。
罪なき人々を傷つけて、その先に残るものは何か。遠くない未来、確実にやってくる最後の時に、わたしはきっと彼と地獄に落ちる。
それでもいいと思っていた。ずっと前から覚悟はしていたから。でも、本当は――
「そんな未来が、見たかったんじゃないわ……」
「お嬢さま?」
こぼれ落ちた言葉に、隣で侍女が不思議そうな顔をする。
はたから見れば――わたしは今、幸せいっぱいの王太子妃。こんな気持ちは、誰にも分かってもらえない。
それは自業自得だ。彼を止めなかった、わたしへの罰だ。
――わたしが、もっと強かったなら。こんなことにはならなかったの?
遠ざかっていくルシオさまの後ろ姿は、滲んでしまってもう見えない。
それでも、嘆き悲しむ前にやらなければならないことがあると――今、思った。
「お嬢さま? どちらへ?」
後ろで侍女の困惑が聞こえた気がした。気づけばわたしは、ルシオさまを追って駆け出していて。
全部今更かもしれない。だけど、こんなことがオーガスタスさまのためだなんて嘘だ。誰のためにもならないことを、決して幸せにはなれないことを、気づかないふりをするのは、もう。
「ルシオさま! お待ちになって!」
驚いたように振り返ったルシオさまに告白する。わたしとオーガスタスさまの罪を。
「大切なお話があります。わたくしは、貴方に謝らなければなりません」
自分を騙し続けるのは、もう嫌だった。
わたしはどうなってもいい。だから――彼をどうか、地獄には落とさないで。
「裏切るのか? お前は――」
「貴方さまがわたくしの言葉を聞き届け下さらないのなら、そういうことになります」
ルシオさまと共にオーガスタスさまのところへ向かったわたしを待っていたのは、蔑むような視線の刺。
しかしオーガスタスさまは意外にも説得の必要もなく、あっさりとしたものだった。
場を放棄するように退室した彼を追いかけたわたしの脳裏を掠めたのは、わずかな違和感。それを振り払うように、懸命に走った。
「オーガスタスさま!」
「……リリー」
ようやく追い付いた時、オーガスタスさまは微かに笑っていた。自嘲にしては、どこか晴れ晴れしているようにすら思える。
「お前に見捨てられるとは、私もとうとう焼が回ったかな」
「そうではありません――わたくしは」
「嫉妬と憎しみに狂った心は、自分では止めようがなかった。だから―― いつかこんな日が来るような気がしていた。すまないな、お前には嫌な仕事をさせる」
「何を――」
言いかけた刹那、オーガスタスさまはおもむろに懐から短剣を取り出し、きらりと光る刃を自ら首筋にあてがった。
「この先自分がどうなるかは分かっているつもりだ。ならば、せめて誇り高き王太子として死にたい」
「どうか、おやめください…」
震える声でそう言うのが精一杯だった。
オーガスタスさまは……本気だ。彼が分かっていないはずがなかったんだ。
ルシオさまを憎んでも、何も手に入らないなんてことは。
「最後に聞いてやろう。私に何か言いたいことがあったのだろう?」
「わたしは――」
言いたいことはたくさんあった。だけど、ずっと言えなかった。
オーガスタスさまが好きだったから。傷ついて欲しくなかったから。
けれど、彼が自らを傷つけようというなら、無意味ではないか。全然意味がないんだ。全部。
昔から――そうだ。いつも彼は、わたしのことなんて、わたしがどれだけ心配しているかなんて、気にも留めていなかった。
ぷつり、とわたしの中で何かが切れた。それは、十数年に渡って張り詰めた――感情の糸。
「……誇り高き王太子として死にたい? ふざけるのも大概になさっては? 弟君へのなさりようは、そもそも誇り以前の問題です!」
オーガスタスさまは呆気に取られた様子で……もとい、明らかに引いていた。けれど誰に何と言われても、とても止められはしなかった。
心の片隅で積もった思いが、洪水のように溢れて、どんどん大きくなって――
「大体、いい年した男が弟に嫉妬して嫌がらせなど、みっともないにもほどがありますわ! 不治の病におかされて、貴方は自分を哀れんでいらっしゃるのかもしれませんけど、かわいそうなのは逆恨みの被害にあったルシオさまやモニカさまですよ! もしも貴方に誇りなんてものが残っているのなら、ルシオさまに王位継承権をお譲りください。それが一番この国のためになると、貴方はとっくに気づいておられるはずです!」
いくらなんでも言いすぎたと思っても後の祭り。
終わった、と思った。差し出がましいのはもちろん、身の程知らずというほかない。どれほどの怒りを買ったとしても仕方のない暴言を吐いてしまった。
良くて婚約破棄、悪くてブレシェルド家の爵位の剥奪だろうか――なんて想像をして、思わず青くなる。
しかし、直後――辺りには小さな笑い声が落ちた。それは、苦笑の類いだったとは思うけれど。
「……馬鹿だな、私は。お前が怒るところを、初めて見たよ」
そう言ったオーガスタスさまの瞳から、一筋の滴がこぼれる。それから彼は、かみしめるように天を仰いだ。
オーガスタスさまが王位継承権の放棄を国王陛下に申し出たのは、三日後のこと。
彼がどんな思いでそれを決めたのか、わたしは知らない。




