23 リリーとオーガスタス②
オーガスタスさまに会うのは最後にする――そう決めていたはずなのに、わたしは父の決めた方と正式な婚約を結んだ後も、オーガスタスさまの元へ度々通った。もちろん、父の目を盗んで。
「また来たの?」――オーガスタスさまはそう言いつつも、会えば話にも付き合ってくれたし、それほど邪険にされることもなかった。
確かに、かつての完璧な理想の王子さまの姿ではなくなってしまったかもしれないけれど――わたしはそれでも構わなかった。
完璧でなくてもいい。
優しくされなくたっていい。
愛されなくても、いい。
オーガスタスさまには一番に守ってくれるはずの母親がいない。次に頼れるはずのブレシェルド家は、もう彼の即位を諦めてしまった。そして、王宮の中には継母である王妃の息がかかった者たちばかり。
せめてわたしは側を離れてはいけないと思った。これは、その孤独や苦しみに気づいて差し上げることができなかったことへのわずかながらの償いのようなもの。
こんな関係がすぐに破綻してしまうのは分かっていた。
わたしは、もう他の男性と婚約した身。
そのことだけは、いつも考えないようにした。
それからまた少し時が過ぎて、その日もわたしは、密かにオーガスタスさまの元を訪れていた。
けれど、彼の私室には既に先客がいて。
「それじゃあ、頼んだよ。エリィ」
「はい、殿下。また呼んでくださいます?」
「気が向いたらね」
「楽しみにしておりますわ」
オーガスタスさまとその女性は親しげに抱擁を交わし、互いの頬に口づけをして離れた。
そういう挨拶の仕方がないわけではないが、この国ではあまり一般的ではない。
自分より五つは年上に見えるその女性は、わたしが見ていたことに気づいても特に恥じらうこともなく、逆にこちらに微笑んで見せた。
そして、颯爽と去っていくその女性の後ろ姿を見ながら、わたしは思わず首をひねる。オーガスタスさまが私室に招くような令嬢が、自分の他にもいたということに少なからず驚きながら。
――エリィ? 聞かない名前だわ。どちらの家のご令嬢かしら。
そもそも、オーガスタスさまとはどういう関係なのだろうと訝しがっていると、不機嫌そうなオーガスタスさま声がかかる。
「リリー、来るとは聞いていなかったぞ」
「申し訳ございません。でも、いつも連絡などないようなものではないですか」
「そういう問題ではない」
使いの者を出すこともあるが、たいてい約束をしているわけではない。ずっとそうだったのに、何故今日に限ってオーガスタスさまが腹を立てているのか分からなかった。
「私の侍従はお前を見ればすぐに通してしまうから困りものだ」
「まあ、それはわたしに言われても困りますわ。それよりオーガスタスさま、今のお方はどちらのご令嬢でしたの?」
オーガスタスさまの侍従とは長年の顔見知りだ。そのことに少しだけ優越感を感じながら、わたしは先程の女性について尋ねる。
すると、オーガスタスさまは、声を上げて笑った。
「どこぞの令嬢だと? ははは、あれは娼婦だよ」
「娼婦……?」
どことなく嫌悪感が沸き上がる。馬鹿にしたような笑い声に、そんな人間を私室に入れて「何か」をした彼自身に。
オーガスタスさまだって、年頃の男性だ。恋人でも婚約者でもないわたしに、それに腹を立てる資格などないのは分かっている。でも……
「真っ昼間ではありませんか。ご自重くださいませ」
「それくらいわきまえている。今日あれを呼んだのは、遊ぶためではない」
「では、何故?」
「ルシオの遊び相手を頼んだだけだ」
悪びれなく言うオーガスタスさまに、ぞっとした。ルシオさまには明らかに早く、過ぎた遊びだ。
「ちょっとした悪戯だよ。この程度のことで目くじらを立てるな」
「あんまりだとは思わないのですか。ルシオさまは、貴方さまのことをあんなに慕っておられるのに……」
「兄の本心を見抜けない馬鹿が悪い。いいじゃないか、私が死ねば全てを手に入れるのはどうせあいつだ」
わたしはささやかな苦言を呈すだけで、オーガスタスさまを止めることはなかった。
この日のことだけではない。オーガスタスさまは上手く立ち回って王子としての評価を上げ、一方ルシオさまの評判は芳しくなく。
わたしはそれらを全て見てみぬふりをした。
それがオーガスタスさまを支えているなら、仕方がないと思ったから。
けれど――オーガスタスさまのあの小さな悪戯が、ルシオさまの運命をあれほどまでに変えてしまうとは思ってもみなかった。
気づいたのは、周辺に噂が流れ始めてからのこと。
元々内気だった第二王子が、全く表に出てこなくなった――最初はその程度だった。
けれど、噂はどんどん大きくなって――
「オーガスタスさま! ルシオさまに一体何をなさったのですか」
遂に知らぬふりをできなくなったわたしは、ある日オーガスタスさまを詰問した。
「野暮なことは聞くな。それより聞いたか? あいつ、自分の乳兄弟を囲っているとか。四六時中べったりだそうだ――まさかそうくるとは思わなかったよ」
わたしの憤りなど全く意に介さぬ様子で、オーガスタスさまはただ愉快そうに冷えた笑みを浮かべる。
罪悪感などまるで感じているようには見えない。
「おやめください、こんなこと……」
「うるさいな。お前こそ、来月には嫁ぐのだろう。早く帰れ、新婚早々離縁を突きつけられたくなければな」
婚約者とは、わたしが十五になった月に結婚するという約束だった。
もちろん、その準備は着々と進められている。家族はみんな式を楽しみにしているし、婚約者もその日が待ち遠しいと毎日のように手紙をくれる。
今更、やめることなんてできない。それは、わたしを大切にしてくれた人々全てを裏切るということだ。
「意地悪なことをおっしゃいますのね。わたしの気持ちをずっと知っているくせに……」
「忠告してやっている。ずるずるとお前を突き放さずに来てしまったのは、私のミスだ。今なら戻れる――お前は僕を忘れて幸せになれる」
「何故……いまさら、そんな」
――気遣うようなことを、言わないでください。
「結局僕は――お前を側に置くのが心地よかったんだろう。だけど潮時だ。幼い頃とは、もう何もかもが違う」
オーガスタスさまは、そう言って久しぶりに昔のように穏やかに微笑む。
どれだけ荒んでしまっても、歪んでしまっても、やっぱりオーガスタスさまは、わたしの好きなオーガスタスさまなんだ。
だからこそ、これ以上……自分を貶めて欲しくない。
「わたしが最後までお側にいます。ずっとずっと、お慕い申し上げます。それだけでは足りませんか……」
オーガスタスさまの真っ直ぐな瞳がわたしを見た。視線が絡み合うように、逸らせなくなる。
彼への償い? ――違う。
わたしは結局、彼を諦めることができなかっただけだ。
ようやくそれを悟った時、オーガスタスさまの手がわたしの腕を掴んだ。
「……足りないな。全然足りない」
次の瞬間、オーガスタスさまの腕の中に身体がすっぽりと収まっていて。
驚きに息も継げないでいるわたしに、オーガスタスさまが荒々しく口づける。
初めて感じる、オーガスタスさまの体温。それは甘美なる毒のように、思考と理性を搦めとっていく――
部屋には二人きり。失望する家族も婚約者もなく、わたしはただ幸福な夢に溺れた。
翌日、わたしは父に全てを話した上で、婚約の解消を願い出た。
大切な人々を裏切った先に待っていたのは、当然幸福などではない。
これ以上ないくらいの親不孝娘が辛うじて絶縁されなかったのは、決して温情などではなく、オーガスタスさまの口添えがあったからだ。
貴族の娘としての幸せをふいにした愚かな令嬢――人々はわたしをそう噂した。
けれども、それは正しくはない。
どれだけ愚かであろうとも、オーガスタスさまのいない日々は、わたしにとっての幸福ではなかったのだから。




