22 リリーとオーガスタス①
かつて、長年勤めてくれている老齢の家庭教師が、誇らしげに言った。
「ブレシェルド家は度々王妃も輩出してきた名家です。お嬢さまもお家の名に恥じぬ立派な淑女になられませ」
リリアン・ブレシェルドさま。彼女は、わたしの父の妹――叔母にあたり、フランドルト王国国王に嫁いだ王妃でもある。
王妃を輩出した貴族家は名実共に格式高い名家となり、権勢を振るうのが普通だった。
故に父も祖父もそのつもりであったはずだけれど、その目論見は上手くいかなかった。リリアンさまは王子を一人産んで間もなく亡くなり、国王は新たに他家から王妃を迎えたからである。
亡くなったリリアンさまの遺した王子――オーガスタスさまは、ブレシェルド家にとって権力回復のための悲願であり唯一の希望。
彼の従妹にあたるわたしは、幼い頃から度々会って、共に遊ぶ仲だった。それは「王子殿下には気に入られておくように」という父からの言いつけのためだったけれど、嫌だと思ったことはなかった。
オーガスタスさま優しくて、わたしのお人形遊びやおままごとにも嫌な顔せず付き合ってくれたし、彼と過ごすのは本当に楽しくて、時間を忘れてしまうくらいだったから。
時々不意に申し訳なくなって、わたしはオーガスタスさまのしたい遊びをしようと提案もしてみた。けれども、決まって彼は優しく微笑んで、そして言うのだ。
――きみが楽しいならそれでいい、と。
そんな穏やかで幸せな日々が続き、幼かったわたしたちは少しだけ大きくなった。
オーガスタスさまは相変わらず優しくて素敵な、理想の王子さまであり、幼いわたしが彼に恋するのは必然だった。
「ねぇ、父さま。わたし、将来オーガスタスさまのお嫁さんになりたいわ。だめかしら……?」
十二歳の春、わたしは意を決して父に自らの気持ちを打ち明けた。
貴族の家に生まれた娘として、自らの結婚が意のままにならないことは知っている。けれど、この頃のわたしはオーガスタスさまなら父も応援してくれるに違いないと思っていた。
「とうさま?」
だから、顔色を変えて黙り込んでしまった父を見ても、ただ驚いたのだとしか思わなかった。
「自分が何を言っているのか分かっているのか?」
「え? ええ……もちろんですわ。オーガスタスさまは将来の国王陛下ですから……わたしは、妻として王妃として……」
「そういう話ではない!」
忌々しげに言い捨てた父を見て、ようやく父が決して喜んではくれないことを悟って。
「何故ですか? 父さまはそのつもりで、殿下とわたしを引き合わせたのではないのですか?」
「幼い頃とは状況が変わった。お前と殿下では釣り合わぬ」
冷たく言った父は、それ以上の納得のいく理由をくれなかった。
当然、納得できるはずなどない。正当なるブレシェルド侯爵家の令嬢で、従妹でもあるわたしが、オーガスタスさまと釣り合わない、なんて。
いつものように王宮を訪れれば、オーガスタス王子の客人として丁重にもてなされ、彼との面会だって容易く叶う。周囲の者たちが、わたしをオーガスタスさまの婚約者候補として見ていることだって、本当は知っている。
――わたしがいつか王妃となれば、ブレシェルド家は大きな権勢を振るうことだってできるのに。父さまは一体、何が気に入らないというの。
「……どうした? 今日はずっと難しい顔をしているな」
「そんなことは……」
王宮の庭を二人で散歩している時のこと、わたしは心のうちの不満をオーガスタスさまに見破られてしまう。
慌てて否定はしたけれど、オーガスタスさまにはそれすらも見透かされているようで。
「いいさ。人間、いつも心穏やかというわけにもいかないだろう?」
やっぱり、オーガスタスさまは優しい。一緒にいると、心が落ち着く。
「……オーガスタスさまも、そんな時が?」
「もちろん、あるさ」
「そうでしたか……」
少しだけ、驚いた。こんなにも穏やかで優しい彼の平穏を壊すのは一体何だろう。
そんなもの、なくなればいいのに。安らぎをくれる彼のために、わたしが彼の安らげる場所になりたい。
「リリーは何か悩みごとでも? 僕でよければ話を聞くが」
不意に心配そうな表情でこちらをのぞき込まれて、わたしの心は一気に舞い上がる。
確かに――想いを告げたことがあるわけではないけれど、オーガスタスさまだって、きっと。
――こんなわたしは思い上がりかしら。身の程知らずかしら。
「わたしは……誰よりもオーガスタスさまをお慕いしています! でも父さまは、わたしでは釣り合わないと言うのです……」
自分でも唐突な告白だったと思う。オーガスタスさまもさすがに面食らったようだけれど、すぐににこりと笑みを作った。
「ああ、そういうことか」
「オーガスタスさまもそう思いますか? わたしが……」
「……そうだね。そう思う」
きっと否定してくれる思っていたオーガスタスさまの口から出たのは、まるで真逆の言葉。
「でも勘違いしないで。それは、君に原因のあることじゃない」
「え?」
そして、オーガスタスさまは顔色一つ変えずに言った。
「僕は死の病におかされ長くは生きられない。父親として大切な一人娘が、そのような男と釣り合わないと考えるのは当然だよ」
呆然として言葉を失うわたしに、彼はさらに続ける。
「分かったら、僕のところにはもう来ない方がいい。若い時間は限られている。君なら、どんな素晴らしい家にだって嫁げるよ」
オーガスタスさまがどんな気持ちでそう言ったのか、わたしには分からない。
しかし――返す言葉もなく、言われるままに家に帰るしかなかった。
だって、幼い頃から側にいながら、わたしは全く知らなかったのだ。
彼の苦しみも痛みも絶望も、何もかも。
渋い顔をした父から改めて聞いたところによると、オーガスタスさまの病は、ブレシェルド家の者に度々発症するという遺伝病であるという。しかも原因は不明、治療法もなく、発症すると数年をかけて必ず死に至るというものだった。
「父も妹も助からなかった、殿下もおそらく……」
そう言った父は、もはや全てを諦めていた。王位の継承権があろうとも、オーガスタスさまが即位できなければ、我が家が権力を得ることはできないからだ。
……思い返してみれば、父がオーガスタスさまの元を訪れることもめっきり減ったような気がした。
父はいつから知っていたのか。オーガスタスさまは、いつから……
それからしばらくは、オーガスタスさまに会うことなく日々が過ぎていった。
父が彼に会うことすら反対しているのはあからさまだったし、わたし自身も合わせる顔がないと思った。
突然、婚約者が決まったと父から言われたのは、季節を一つ見送った頃のこと。
わたしが知らなかっただけで、父は随分前から嫁ぎ先を探していたらしい。正式な婚約を結ぶのはまだ少し先の話だったけれど、相手は有力貴族家の嫡男で、ブレシェルド家としては申し分ない方。
わたしはこの婚約を受け入れなければならない。それが貴族の娘として生まれた者の宿命であり、義務だから。
そう理解はしているのに、どこか吹っ切れないのは、あんな風にオーガスタスさまと別れてしまったからなのか。
依然としてくすぶり続ける気持ちに訣別するため、最後に一度だけオーガスタスさまに会うことにした。
あれから会わずにいる彼は、どんな風に日々を過ごしているのか、それだけが気がかりだった。せめて、病気があまり進んでなければいいのだけれど。
しかし、様々な不安を抱えながら向かった先で見たのは、あまりにも意外な光景だった。
「兄上、これは?」
「それは、図鑑というものだよ。興味があるのか?」
「はい! 知らない植物がたくさんのっています――本当に借りていってもいいのですか?」
「もちろん。ここにある本は、好きなように使うがいい」
オーガスタスさまを訪ねて案内された王宮の図書室で、わたしは仲睦まじい兄弟のような二人を見た。
机に植物の図鑑を広げ、無邪気な笑顔を見せるのはルシオ第二王子。オーガスタスさまより四つ年下の、母の違う弟君だ。
間近でお会いするのは初めてのこと。これまでわたしは、二人が仲よくしているところを見たことがなかったから。
けれど――ルシオさまを優しい眼差しで見つめるオーガスタスさまを見て、わたしは心から安堵した。
――きっと心穏やかな日々を過ごしていらっしゃるんだわ。これでわたしは、全てを忘れて嫁ぐことができる。
「リリー?」
ふと、二人を見つめるわたくしの視線に気づいたオーガスタスさまが顔を上げる。
交わる視線も久しぶりのこと。オーガスタスさまは本当に驚いた様子だったけれど、すぐにいつものように微笑んでくれた。
図書室にルシオさまを残して、オーガスタスさまとわたしは、二人で庭へと出た。
昔からオーガスタスさまとよく遊んだ場所だ。こうしてここで話をするのも最後になると思うと、胸には込み上げるものがある。婚約のことを伝えなければ――と思うのに、どう切り出せばいいのか急に分からなくなってしまう。
そうしているうちに、先に口を開いたのはオーガスタスさまだった。
「正直、もう来ないと思っていたよ」
「そんな……わたしは」
「そのつもりで、突き放したんだ」
微笑みを浮かべたオーガスタスさまに胸がざわめく。とげのある言葉、冷たい声色。優しい笑顔は以前と同じはずなのに、何もかもが違うと感じてしまうのは。
「な……何故、そのようなことを?」
「言っただろう? 長く生きられない男と過ごすのは君にとっても時間の無駄だよ。それに――僕は君のこと、全然好きじゃないし」
心が張り裂けそうになる。もしもわたしの気持ちが一方通行でも、こんな風に吐き捨てられるとは思ってもみなかった。
けれど、泣くことはできない。
わたしは必死に心を奮い立たせ、笑顔を作る。
「それでもわたしにとっては、オーガスタスさまとの時間は大切な思い出です。時間の無駄だなんて思いません……この先結婚して、子供を授かって、全てが変わってしまったとしても」
「……そんなことを言いにわざわざ来たのかい?」
「ええ。実は、婚約が決まりましたの。だから、今日はお別れのご挨拶に参りました」
「……へえ、そうなんだな。おめでとう」
一瞬だけ、オーガスタスさまが言葉を失ったかのように真顔に戻った気がした。
けれどそれはきっとわたしの思い違いで、願望が見せる幻のようのもの。特に好きでもないわたしの結婚に、彼の心が動かされるはずがないから。
「ありがとうございます。それにしても弟君――ルシオさまは随分可愛らしいお方なのですね。わたしにも兄たちがいますが、あんなに仲良くはなかったので、ルシオさまを羨ましく思ってしまいました。もちろん、仲が悪いというわけではないのですけど――」
「本気でそう思っているなら、君の頭は随分とおめでたいことだ」
――え?
気づけば、オーガスタスさまがひどく不愉快そうな顔で嗤っている。
わたしは本当に仲の良い兄弟を羨ましいと思っていた。それなのに……
「あれは王妃が産んだ、僕を脅かさんとする悪魔の子供だよ」
オーガスタスさま口から出たのは、あまりにも不穏な言葉。
「どういう……意味でしょうか」
「この国の法では、先に生まれた者が王位を継ぐ。だが、どうだろう。僕に母という後ろ楯は既になく、今の王妃は――昔から自分の息子を王にしたがっている。だから僕は、いつでも隙を見せずに強くあらねばならなかった。けれど、今に病気のことが知られれば、あの女はこれ幸いとばかりに僕を潰しにかかるだろう――」
「王妃さまが? そんな。王妃さまと血が繋がっていないとはいえ、オーガスタスさまは国王陛下の正当なる御子です。そんなことがあっていいはずがありません」
「それは、君のような善良で能天気なお嬢さまの理論だよ。世の中には、そうでない者がいかに多いことか。僕も含めてね」
わたしの知っているオーガスタスさまは、いつも優しくて穏やかな方だって。わたしが善良だというなら、それこそ彼は誰よりも。
あれが全て嘘だったというなら、わたしはずっと彼の何を見ていたのだろう。
「誰がルシオなどに渡してやるものか。母も愛情もいらない――だが王位だけは僕のものだ。その権利だけは、誰にも奪わせない。なぁ、リリー。僕がどうしてルシオなんかと仲よくしているか分かるか?」
「それは……」
「王妃が僕を潰そうというのなら、その前に僕がルシオを潰してやる。あいつさえいなければ、僕は僕を守れるのだから」
オーガスタスさまはずっと、王位継承者であることにひどく固執していた。その思いは矛となり、罪なきルシオさまへと向かう。
わたしは間違っていると知りながら、彼を諫めることができなかった。それが唯一の拠り所なのだと、知ってしまったから。