21 王子様の腕
オーガスタス王子の手のひらが、頬を丁寧に撫でる。その冷ややかさに思わず肌が粟立ち、かつ私の抵抗は完全に封じられた。
これから起こることを想像して、心の中を恐怖だけが埋め尽くした――その時。
「何の用だ、リリー」
オーガスタス王子が小さく舌打ちをした。
その時になって、私は自分のいるこの部屋の様子が以前とは変わっていることに気づく。
いつの間にか鍵がかけられていた扉が開いていて、その前で薄い寝衣に外套を羽織っただけのリリーさまが立っていた。
「オーガスタスさま。わたくしはもう自分に嘘はつけません」
彼女はうつむき加減にそう言うと、背後の扉へと目をやる。すると――開いたままの扉からもう一人姿を現し、思わず目を疑った。
「何故ルシオがそこにいる」
苛立ちを隠しきれないオーガスタス王子が凄む。
リリーさまの華奢な身体はわずかに震えたように見えたが、その声ははっきりとしていた。
「わたくしがお連れしたからです」
「裏切るのか? お前は――」
「貴方さまがわたくしの言葉を聞き届け下さらないのなら、そういうことになります」
リリーさまが、ルシオ王子を連れてきた? もしかして、助けてくれたのだろうか――でも。そもそも、この部屋に私を閉じ込めたのはリリーさまで。
誰が味方なのか。何が本当なのか。訳が分からなくて。何も分からなくて。
二人の問答に困惑しながらも怖々とルシオ王子を見れば、彼も同じように戸惑った様子に見えた。
――ああ、どうしよう、私。
「興が削がれたな」
オーガスタス王子は言って、あっさりと私の身体を解放した。
突然のことに、退出しようとするオーガスタス王子をただ見送ることしかできず――結局、彼を呼び止めたのはルシオ王子だった。
「兄上――……リリーさまの話は、本当なのですか」
信じられない、信じたくないと言っているようなルシオ王子に、オーガスタス王子は軽く笑った。
「リリーが何を話したかは知らないが。今更、確かめなければいけないことか?」
「……それは」
ルシオ王子が最後まで言い終わらないうちに、オーガスタス王子は足早に部屋を出ていく。
その直後、私の方に一礼したリリーさまがその後を追いかけるようにいなくなって、期せずして部屋には私とルシオ王子の二人きりになった。
「……――薄々は感じていたが、やはり私は兄上に嫌われてしまっていたようだな」
自嘲気味に笑って、王子が気詰まりな沈黙を破る。
「私の問題に巻き込んでしまってすまない。こんなことになるなら、側を離れたりはしなかったのに。その――大丈夫か?」
未だ混乱から抜け出せずにいた私は、それが自分に向けられたものだと理解するのに時間がかかった。
「……モニカ?」
「え……あっ、はい。大丈夫です……私、何もなかったですから」
できるだけ努めて明るく言った。本当は、思い出せば身体が震えそうになる。もし、リリーさまとルシオ王子が来なかったらどうなっていただろう? 考えるだけで、身の毛がよだつ。でも――
「……本当に?」
――大丈夫なんかじゃない。
そんなことを言って王子を困らせたくなかった。
どうしようもない。あの手には、触れることすらできないのに。
「きょ、今日のことは全部忘れますから……安心してください。誰にも話しません。大丈夫ですから」
「そんなことはどうでもいい。君は?」
「――っ」
遂に答えられなくなった私に、王子が歩み寄ってくる。ベッドに座り込んだまま、それを制止することができないまま、王子の顔を間近に仰いだ。思わず顔を背ければ、膝を折って目線を合わせてくる。
本当のことを言わなければ、王子はきっと引かないのだろう。それはそれで困る。
「……怖かった、です。でも、もう大丈夫です。殿下が来てくださいましたから」
仕方なく観念して本音を吐き出す。しかし次の瞬間、信じられないようなことが起こった。
「――っ!?」
不意に、身体が傾いたと感じて――気づいたら王子の腕に抱きすくめられている。
私は次の言葉も紡ぐことができずに、一瞬呼吸すら忘れた。
――まさか。
これは夢だろうか。私の妄想が作り出した幻だろうか。
絶対に触れられないと思った腕がここにある。夢ならずっと冷めないで欲しい――私は天にも昇る気持ちで願った。
だけど、いかんせん……
「で……殿下? くるしい……」
力の限り抱きしめられ、さすがに苦しくなって声を上げる。すると王子は、我に返ったように身を引いてしまった。
「す――すまない、つい」
「いえ……」
楽になった呼吸に安堵しながらも、少し名残惜しく思う。だって、こんな機会はきっともう一生なかったのに。
「申し訳ない。私が不甲斐ないばかりに、怖い思いをさせてしまった。どう詫びたらいいか……」
「気に病まないでください……私は気にしていません。殿下が来てくださっただけで嬉しいのです」
「……嬉しい?」
王子は小首を傾げた。それがなんだか可愛くて、私はついつい余計なことを話す。
「はい。私、殿下に嫌われてしまったかと思っておりましたから」
言ってしまってから、しまったと思った。微妙に気まずい空気が流れ、王子も最後に別れた時のことを思い出しているのだと分かった。あの時――王子からのダンスの誘いを私が断って、彼を怒らせてしまったことを。
またあの時のようになってしまったらどうしよう――そう思ったが、王子はばつが悪そうに頭を掻きながら苦笑しただけだった。
「その……あれは、私も大人げなかったな。というか、あの程度のことで嫌ったりするわけがないだろう」
「え? そうなのですか?」
「当り前だろう?」
不思議そうに首をかしげる王子は、本当にもう気にしていないように見えた。
――あの程度?
もしかして、王子は本当に大丈夫だったのだろうか。たとえ勢いでも、私を抱きしめてしまえるくらいなら……なんて。
もしも、あの時王子の手を取っていたらどうなっていたんだろうか。そんな叶わない妄想をしながら、私はようやく肩の力が抜けるのを感じた。
絶対に叶わない想いだなんてことは、分かっている。
だけど、嫌われたわけじゃなくて……よかった。
その後、ようやく自分の部屋に戻った頃には、外はもう明るくなり始めていた。わざわざ送ってくれた王子と部屋の前で別れると、疲れた身体はそのままベッドに倒れ込む。
――今度会ったら、改めて王子にお礼を言わなければ。
薄れゆく意識の片隅でそう思いながら、闇に落ち、長い一日が終わった。
しかしながら、翌日から高熱を出して寝込んでしまった私が次に王子に会ったのは一月も後のこと。
その間に起こった騒動の顛末を知ったのは、全てが終わってしまった後だった。




