20 壊したのは
明確な悪意が見える――他人に対してそう思ったのは、初めてのことだった。夜会で噂話をする人、陰口を叩く人、そういう人たちとは次元が違う。
しかもそれを向けられているのが、血を分けた実の弟だなんて。
――分からない。分からない。どうして。
私にとって兄弟とは、いつも一番近くで自分を助けてくれる存在だった。
兄も、姉も、今は亡き妹も、だめな私を、ずっと見捨てないでいてくれた。それを感謝こそすれ、憎むだなんて考えられない。
「何故……なのですか。お二人は、ご兄弟なのでしょう」
ようやく絞り出した声は、ひどく震えた。
そんな私を、オーガスタス王子は満足そうに眺める。
「君には分からないだろうな。私はずっと、弟が妬ましかった」
――妬ましい?
それは目の前の王太子とは、あまりに結び付かない言葉だ。
容姿もその立ち振舞いも、全てが完璧に見える兄王子が、弟に何を嫉妬するのか分からなかった。この時は、まだ。
「あいつは最初から全てを持っている。母親の愛情も、健康な身体も、優秀な頭脳も。その上今度は、後継者としての未来まで手に入れようとしている……」
「ルシオ殿下は第二王子でいらっしゃいます。オーガスタス殿下より先に、ルシオ殿下が陛下の跡を継ぐことはあり得ないのでは」
この国の法では、王位の継承は国王の直系、長子、さらには男子であることが優先される。だから今、王太子と呼ばれているのは、間違いなくオーガスタス王子の方だ。
「……何事にも、例外はある。過去の歴史には、王位を巡って血生臭い争いもあった」
「ルシオ殿下はそのようなことはなさいません!」
「そうだろうな。清廉潔白なあいつは、そんなことは絶対にしない。だから私が敗れるのは、ただ自らの不甲斐なさのためだ」
――どういう、意味。
その言葉の意味をはかりかねていると、オーガスタス王子は自嘲気味に笑った。
「君は薬室に勤めていると聞いた。ならば知っているだろう。私の持病のことを」
「それは……毎朝、薬師の皆さんが薬を調合されていますから。でも詳しくは……」
急に胸が騒ぐ。オーガスタス王子は、何故今、この話をするのか。
「ルシオは何も話さなかったのか? 医学にも精通しているあいつなら、気づいていないはずがないだろうに」
「……王太子殿下は持病を幼い頃からのお持ちだと。それ以上は、何も……」
知らないのは本当だ。でも、気づいていなかったというのは嘘になる。
私がそれを忘れることにしたのは、疑念をたずねたあの時に、ルシオ王子がすぐに否定したから。
「空々しいことを」
しかし、憎しみのこもった目をこちらにむけるオーガスタス王子を見れば、やはりあの日、ルシオ王子は嘘をついたのだと理解せざる得なかった――けれど。
「この病は悪くなるばかりだ。私の命はそう長くないだろう」
それは私の予想の中でも、最も悪い部類のものだった。
とても信じられない。だって、目の前の王太子は、とても病人のようには見えなかった。まして、死期が近いなんて……そんな。
「……で、でもお薬は? 毎日飲んでいらっしゃるんでしょう?」
「あれの効果は、多少の病の進行を遅らせる程度だ。それに、長年飲んでいれば効果も弱まる。近頃は身体が重い、目も悪くなった……情けない限りだが」
「まだ死ぬと決まったわけじゃ……」
私は必死で言ったが、オーガスタス王子の答えは淡々としていた。
「決まっているさ。前王妃である母と、その父親は同じ病だった。詳しいことは分かっていないが、発症から早ければ数年、遅くとも十数年以内に確実に死ぬんだ。これでも長くもった方だろう」
――そんな。
若くして死期を悟った王太子を前にして、返す言葉など見つからなかった。ただ沈黙した私に、彼は愉快そうに問いかける。
「……同情したか? だが、哀れんでもらう必要はない。私がこのことを君に話したのは、せめてもの償いだから」
「……償い、ですか?」
「そうだ。君だって、自分が理不尽を受ける理由くらい知っておきたいだろう?」
「おっしゃっている意味が……分かりません」
無意識に身体を引く。そうしなければならない気がした。
けれど、立ち上がろうとした私の手を、すかさずオーガスタス王子が掴んだ――
「私はもうすぐ死ぬのに、弟は私が欲しかったもの全てを手に入れて、この先も生きていく。単純にそれが許せない、だから苦しめてやる。君はきっと弟の味方になろうとするだろう、だから邪魔だ」
「間違っています――そんなの……」
弟を苦しめる――そんなことを言うオーガスタス王子がただ悲しい。
……だって、ルシオ王子は。
「そうだろうとも。君には何の罪はない。だから最後にもう一度選ばせてやろう」
――そういうことじゃない。私のことじゃなくて。
「モニカ・ブライトマン、薬室を辞めて実家に帰れ」
冷たく微笑むオーガスタス王子に、私の言葉は届きそうもなかった。
掴まれた手首の痛みが、私の決心を鈍らせる。怖い。どうしようもなく、逃げたしたい。
ああ、だけど、それでも。答えなんて、最初から決まっている。
「――いやです! 貴方のお話には納得できません。私は何があっても、ルシオ殿下の味方でいると決めています。ここで逃げ出すことはできません!」
「ほう、では。君は弟のために、死よりもむごい地獄を見ても構わないと」
刹那、腕を強く引かれてバランスを崩した。オーガスタス王子はそのまま私を引きずるようにして歩かせると、ベッドへと乱暴に投げる。
「――っ、何を」
「さて、果たしてどちらがルシオのためになっただろうか。ただいなくなった女と、兄に裏切られ奪われた女と」
抵抗する間もなく倒れ込んだ身体に、オーガスタス王子の大きな体躯が覆い被さってくる。
オーガスタス王子によって、手足はベッドに押さえつけられ、まるで身動きがとれない。
情けないことに、この歳になっても男性経験のほとんどない私は、正直男の力を甘く見ていた。貴族の娘として、何も教えられなかったわけでなかったのに――そう思えば、自分の浅はかさに嫌気がさす。とはいえ今更落ち込んで、後悔している場合でないことは理解している。
教えられている――からこそ、この先のことはなんとなく分かってしまう。
死よりもむごい地獄、そう言ったオーガスタス王子は、私に女としての屈辱を与えようとしているのだ。それが、ルシオ王子傷つけることになると。
恐怖に気力が負けそうになる。それでも、精一杯の力を振り絞ってオーガスタス王子を睨み返せば、彼の唇は弧を描いた。
「ああ、でも、ルシオにはこう伝えるのがいいかな。モニカは進んで私の妾になることを選んだと。ようやく心を許せた特別な女に裏切られて、あいつ今度はどんな顔をするだろう」
「……今度は――って、前にも、こんな……?」
声が、震えた。まさかと思った。
「あいつの女嫌いの原因を作ったのは私だ。まあ、最初は小さな悪戯心で――まさか、男色などに走るとは思わなかったが。おかげであいつは一族の恥さらしだ。ははは……あの時は、笑いが止まらなかったなぁ」
思わず瞼を閉ざしたのは、こぼれそうになる涙を見られたくなかったから。
貴方は最低だと、そう言ったとしてもこの人には届かないだろう。おそらく全部分かっている。分かっていてやっている。
――どうして。こんなの、あんまりだ。
あの優しい王子が、何故苦しめられなければいけないのか。それが悔しくてたまらない。
「君に裏切られたあいつは、今度はどうするだろう。見ものだな……一生忘れられぬものになればいいが。はたして君は、そこまでの価値があるかな?」
「どうして……こんな、ルシオ殿下が……一体何をしたと言うんですか」
「何をした? あいつはただ、私の後に生まれてきただけだよ」
爽やかな声色とは対照的に、オーガスタス王子の言葉は実の弟に向けるものとは思えないほどに冷えきっていた。
ルシオ王子は、兄の本性など知らないのだろう。
だって彼の夢は、兄であるオーガスタス王子の病を治すこと。そのために薬学も医学も修めて……今も。