17 見えない心
王子と二人きりにされてしばらくの間、私たちはとりとめのない雑談をしながら、食事とお酒をつまんだ。
運よくなのか、どこかの貴族が挨拶にやって来ることもない。パーティーの喧騒の中にはあるが、王子との穏やかな時間。
以前なら、心から楽しめただろうと思うのに、今は何故かひどく心が騒ぐ。これがなんなのかは、ずっと分からない。
「兄上たちには、近づけそうにないな」
ふと、隣でルシオ王子が呟いた。
その視線の先には、相変わらず凛々しいオーガスタス王子と、ひときわ目を引く美人がいた。彼らの周りには、大きな人垣ができている。
――王太子殿下の側に……ということは、あのお方がリリーさま。なるほど、確かに。
「噂通りにお綺麗な方ですね……だけど」
「だけど?」
聞き返されて我に返った私は、はっと口をつぐむ。しかし、遅すぎた。
「な、なんでもございません!」
慌てて言った私に、ルシオ王子は意味ありげに微笑んだ。
「……気になるな。ここだけの話にするから、言ってみないか」
「いえ、本当に大したことではないのです」
「ならば尚更、言ってみたまえ。さあ」
ルシオ王子の謎の迫力に圧された。存外、彼には意地悪なところがあるらしい。どこかニヤついている王子に降参するのは、癪だったけれど……
「大したことではないのです。ただ、リリーさまは、私より年上に見えるなぁ、って思っただけで」
「実際、彼女は君より年上だ。何なら、私よりも。確か、兄上の二つ下だったかな」
「そうなのですか?」
初婚ですか、と思わず聞きそうになるが今度は堪えた。しかし、私よりも年上で初婚だというなら、この国の女としてはかなり遅い。オーガスタス王子よりは年下だというから、釣り合いはとれているのだろうけれど。
リリーさまは名のある侯爵家の出身なのだから、十代の頃から良い縁談は腐るほどあったと思うのに。このようなこともあるのだろうか、と思う。
「私はリリーさまとあまり親しいわけではないから、想像に過ぎないのだが……彼女は多分、幼い頃から兄上を慕っておられたように見えた。もしかしたら二人は、ずっと互いを想い合っていたのかもしれない」
「では、お二人は政略結婚ではなく? それは素敵なお話ですね」
「そうだな。当然、ブレシェルド家が政治に力を持つという意味はあるだろうが……しかし、それだとここまで結婚を遅らせた理由が分からない」
ちょうど王子がそう言った時、広間では今日の主役の二人の紹介――そして、挨拶が始まった。
先ほどまでの喧騒が嘘のように辺りは静まり返って、二人に注目し、言葉に耳を傾けている。オーガスタス王子とリリーさま……幸せそうに微笑む二人は、どこか完璧すぎて、作り物のようにすら思えた。同じ部屋にいるのに、違う世界の出来事のよう。だけど、これが王族という人たちの世界だ。
そして同時に、ルシオ王子も向こうの世界の住人なのだと思い出す。きっと今、彼が私の隣にいるのは奇跡のようなものなのだ――そんなことは、最初から知っていたはずなのに。
「殿下もいつか、あんな風に結婚されるのでしょうか」
その言葉は、自然と心の内からこぼれた。
王子が驚いたようにこちらを見たが、私だって驚いている。
「あ……いえ、殿下は王室の方でいらっしゃるので、いつかはそういうことも……と」
付け加えた言葉は、まるで弁解のようだった。
もちろん、分かっている。王子が女を愛さないことは。
けれど王族や貴族の結婚は、愛情や恋情などとは関係のないところで行われるもの。兄から許された私のような特殊例はともかく、れっきとしたこの国の王子である彼は、いつか国のために妻を娶るかもしれない。それは王子自身が拒否しようとも、十分にあり得ることだ。
「どうだろうか。少なくとも今はとても考えられないが」
言った王子は、特に気を悪くした様子もなく、更に言った。
「しかし、もしもそんな日が来るのならば、妃はモニカくらいの美人が良い」
「で……殿下、酔っていらっしゃいますね?」
「全くの素面だが」
王子は言いはったが、私は困惑する。王子からこのように面と向かって美人と言われたのも初めてだし、どのように受け取っていいのか分からない。お世辞か? これが社交辞令の洗礼なのか?
「君は意外と自覚がないようだな。ブライトマン家の娘といえば、美人で有名だと……君が私の婚約者に決まった時、アデルのやつが興奮していたぞ」
「また……アデルさん、ですか」
アデル――夜会狂いだというあの男は、相当なろくでなしだと確信した。フランシスカ王女の好みは、正直疑う。
「とにかく、君が着飾れば、あのリリーさまにだって可憐さでは負けないさ。私が保証する」
「滅多なことをおっしゃらないでください――ていうか、保証されても困ります!」
「なんだ、つれないな。モニカは」
誰が聞いているかも分からないのに、王子のおふざけ(?)はエスカレートする。
本人がなんと言おうと、これはもう絶対に酔っているに違いない。確かに顔が赤くなったりしているようには見えなかったが、きっと顔には出ないタイプなのだ。
しかし、こんな冗談が言えるのも、王子にも多少女に対する免疫がついたということだろうか。
そうだったらいい――と思う反面、心が疼く。そんな王子に、私も少々意地悪がしたくなる。ええい、どうせ酔った勢いだし。
「では――それほど私の容姿を気に入って下さっているのならば、もしも殿下が生涯伴侶を持たず、お一人であった時……私がずっとお側にいても構いませんか?」
ほろ酔いでなければ、絶対に言えなかったような言葉。
王子がわずかに目を見開いたような気がして、やはり後悔しかけたけれど……彼はそのまま笑った。
「おいおい、君こそずっと独り身でいるつもりなのか? 薬室のことなど気にしなくて良い。君の都合で辞めてもらって構わないんだぞ」
「いいえ。どうせ私に家族は作れませんから。それに私には愛や恋よりも確かな友情があるのです。だから、寂しくなんかもありませんし」
すると、王子は一瞬の沈黙の後呟くように言った。
「……そうか」
その姿は、何故だか悲しそうに見えて、私はそれきり言葉に詰まってしまう。
ずっとお側に……なんて、気持ち悪く思われるか、そうでなければ一生の友情を喜んでもらえると思っていた。だから、そんな顔をされるのは予想外の反応で。
――私、何かを間違えた?
いいや、だって王子は男色家なのだから、私が女として側にいることはできない。可能性があるとすれば、男も女も関係のない、友人としてだ。これだけが、ルシオ王子に受けたご恩をお返しするために、私ができる唯一のこと。
間違っているとは思えない。私はもう、自分には女としての幸せすらいらないと思っている。友人として、ずっと……王子を支えることができれば、それで。
たとえ――その手に触れることすらできなくても。
広間には、随分前から音楽が流れ始めていた。オーガスタス王子とリリーさまだけでなく、多くの招待客たちが踊る中、私と王子は隅の方でただそれを眺めている。
気詰まりな空気は私の中ではずっと続いていて、私の方から気安く王子に話しかけることもできない。王子も王子で、何かを考え込んでいるように押し黙ったままだった。
――本当に、何か、失礼をしてしまったのかも……
そう考えながら、ちらりと王子の方を盗み見る。やっぱり声は、かけられない。
しかし――それはちょうど、一曲が終わった時のことだった。
「……モニカ」
不意に口を開いた王子が、私を見つめる。
それから、私の方に手を差し出して言った。
「踊らないか?」