14 迷宮、迷子、目眩
その日、私は王子が自室に忘れたという資料を取りに行くように頼まれていた。
「薬室長――私、少々出て参ります」
そう告げれば快く送り出してくれる薬室長に感謝しながら、席を外して王子の部屋へと向かう。
一度、アデルに連れられて通った道。薬室から遠いというわけでもなし、私は「迷うかも」などということを全く念頭においていなかった。
そんなことよりも、王子が度々頼ってくれるようになったことが嬉しくて。
よくよく考えてみれば、私はただの雑用係で、友人といえども王子に頼って欲しいなど出すぎた物言いだったとも思った――けれど、言って良かった。
やっぱり、私の決意は間違ってはいなかったのだ。友人として、ルシオ王子にいつかご恩をお返しする。そのためにできることなら、なんでもしようと改めて思える。
ここ最近は特に事件もなく、よく言えば平穏、あえて言えば地味な日々。だけど、そんな日常が戻ってきて、私は幸せだった。
薬室の業務は滞りなく、王子はすっかり元気になって研究に励む。しいていうなら、少しだけ王子の研究時間が減った気がするけれど。そんなものはほんの些細な事柄で、私は王子といるこの安らかな日々がずっと続けばいいと思っていた――
おかしい、と思い始めたのは大分歩いてしまってからのこと。途中までは見覚えのあるような景色の気がしていたのに、今は違うと思う――否、最初から誤った道を選んでいたのだと気づく。
宿舎と薬室を往復するばかりの私は、実は王宮の内部構造に全く詳しくなかった。自分の現在地すら分からずでは、薬室へ帰ることすらままならない。
こうなってはもはや、恥を忍んで人にたずねるしかない。そう思ったのに、周囲には人っ子一人いなかった。
それほどまでに王宮の深いところに迷い込んでしまったのだろうか……いや、そんなはずは。
「……どうしよう」
呟いた言葉に、返答はない。辺りの冷たい石壁が、ただ反響音として返してくるだけ。
改めて見渡してみれば、その廊下は私の知っている王宮とはどこか違う雰囲気を醸している。暗く、静かで、湿った空気。来てはいけないところに来てしまった気がした。
とんだ失態だ――と言うには、私はあまりにも今までに失態を重ねすぎているので今更な気がするが、とりあえず焦りは募る。
――早く、元の道に戻らなければ。
ここは、暗くて怖い。その上にひどく寒かった。
誰でもいいから、人に会いたい……そう、思った時のこと。
「……そこで何をしている」
鋭い声に、私はびくりと肩を震わせた。
恐る恐る……でも人に会えたのだと、どこか安堵しながら振り返る。
見回りの兵士か。助かった、そう思って。
「すみません。私、道に迷って――」
そこにいた人を見て、思わず言葉を止める。
暗い廊下でも、彼が高貴な人だとはっきりと分かった。その佇まいは凜として、ある種の風格を備えている。そして、目鼻立ちの整った顔……それらを私は、ルシオ王子に似ていると思った。
「ここが立ち入り禁止の区画だと知っているのか? 用向きを答えよ」
「は、はい――私は薬室より参りました。ルシオ殿下の使いで、殿下のお部屋に伺ったはず……だったのですが」
「ルシオの――?」
彼は一瞬、怪訝そうに言った。しかしそれは、すぐに何かを思い出したような顔になった。
「ああ――では、貴女があのブライトマン家の。これは失礼を、いつもルシオが――弟が世話になっている」
「あ、……」
――貴方、は。
一転して穏やかに微笑んだ男は、警戒もなく私に近づいて片手を差し出した。
その手を拒めるはずなどない。だってこの人は……ルシオ王子を弟と呼べる人間は、たった一人しか存在しないのに。
――オーガスタス第一王子。この国の次の、王になるお方。
「みっ……身に余る光栄でございます。ルシオ殿下にはいつもよくして頂いて……」
「そのように固くならずともいい。私のほうこそ会えて嬉しい。このような場所でなければ、長く話したいところだ」
遠慮がちに伸ばした手を、オーガスタス王子は力強く握る。
「とりあえず、ここを離れよう」
そう言ったオーガスタス王子は、私の手を離さないまま歩き出した。
「あっ、あの!」
大股でどんどん先を進んでいくオーガスタス王子についていくのに精一杯になりながら、私は懸命に声をあげる。
「何か?」
不意に立ち止まったオーガスタス王子は、まるで気づいていないように首を傾げるので、私はあえて口に出さなければならなかった。
「いえ、あの……手を」
「あ――ああ。すまない。あそこにいるのは、どうも気分が悪くてね」
オーガスタス王子は、まるで悪びれる様子がなかった。彼からすれば、いや一般的にも、「手」など大したことではないんだろう。いい年して気にすることでもないのも分かっている、が。
「……先程のところは、どのような場所なんでしょうか」
本能で感じる恐怖と、好奇心。わずかながら後者が勝った。
少なくとも、私がいた場所は単に廊下にしか見えなかった。けれどもあのまま進めば、たどり着いたところは……
「……あの先は、地下牢に繋がっている。……といっても、今使われているわけではない」
思わず顔色を変えてしまった私を気遣ってか、オーガスタス王子は付け加えるように言った。
「立ち入り禁止区画に入り込んで行く人影を見たと聞いてね……何事かと思ったよ。あのようなところ、君のような女性が立ち入るべきところではない。今後は気を付けなさい」
「はい……申し訳ございませんでした」
自分の方向音痴っぷりを呪いたくなる。
オーガスタス王子に連れられて、今はもう見覚えのある景色の中にいたが、私はルシオ王子の部屋とはまるで逆方向の道を選んで来ていたようだ。オーガスタス王子の声は優しかったが、どうしたらこのような間違いをするのかと呆れられていることだろう。
「わ、私……もう、ここで大丈夫ですので! 本当にありがとうございました!」
だんだんいたたまれない気分になった私は、逃げるように言って、その場を離れようとした――けれど。
「――待って」
背を向けて歩き出そうと私の手が再び掴まれる。
「……っ」
「ああ――つい」
「いえ」
お互いに先程と同じような台詞を繰り返しながら、私は思わず目を伏せる。
一方で、どこかばつが悪そうにも見えたオーガスタス王子は、私の手を離すと畏まったように一礼した。
「失礼をした、モニカ殿。貴女ともっと話がしたいと思って――ああ、そうだ。私の婚約披露パーティーには、是非弟と共にいらしてください」
ルシオ王子と? 私が? どうしてそうなる。
「いえ、あの。私、畏れ多いですので……そんな」
「畏れ多いものか。貴女は弟の大切な人だと聞いている。ならば、それは私――ひいては王家にとっても同じこと」
ルシオ王子の「大切な人」。その言葉にこめられた意味を想像すると、咄嗟に否定しなければという思いが浮かんだ。
どうやらオーガスタス王子は勘違いをしている。そうでなければ、だって……
「違うんです。私と殿下は……」
「隠すことはない。私は歓迎するよ」
「ですから……あの」
「当日お会いできるのを楽しみにしている。それでは、本日はこれにて」
私の主張は全く受け入れられることなく、会話は打ち切られる。
去っていくオーガスタス王子の凛々しい後ろ姿を見ながら、目の前がクラクラするのを感じた。
――大切な人、なんて。王子は本当にそんなことを言ったのだろうか。
いいや、違う。そういう意味じゃない。単に王子は友人として、そうに決まっている。
そういい聞かせることで、私はなんとか平静を保とうとした。
――王子は大切な友人だ。私にとっても、それは同じ。
だから、絶対に違う。この胸の高鳴りは、きっと。




