11 消えた雪だるま
数年ぶりの大雪が降り止んでから数日。それからは嘘のように晴天が続き、積もった雪は順調にかさを減らした。
雪だるまの仲間を作ってやろう――ルシオ王子がそう言ったのが、随分と昔のことに思える。
結局、王子は約束に姿を見せなかった。あの王子のことだ、何か事情があったのだろう。
私は少し残念に思いながらも、一人で雪だるまを作った。今度王子に会ったら、仲間ができた雪だるまを見てもらおう、そう思って。
けれど、その願いも叶わなかった。手をつなぐように二つ並べて作った雪だるまは、いつしか跡形もなくとけて消えてしまった。
大雪の日以来、あれだけ頻繁に薬室に通っていた王子が全く姿を現さない。
薬室長に聞けば、王子が何日間も自分の研究室を空けるのは確かに珍しいことだと言う。きっと公務が忙しいのだろう。私はそうして自分を納得させた。
……けれど、次第に不安が募る。このまま王子に会えなくなったら――何故だかそんな考えが、胸のつかえのように心に重くのしかかった。
どこかで見覚えのある男が薬室を訪ねてきたのは、王子に会えなくなってさらに数日が経った頃のことだった。
それなりに立派な身なりの若い男だった。身分は少なくとも下位貴族以上、単なる王宮の下働きとは明らかに違う。その証拠に、薬室長が彼を見るなり歓迎した様子で部屋に招く。
「モニカさん、ダグラスさまにお茶を」
「は、はい」
ぽかんと二人を見つめていた私は、薬室長に言われて慌てて準備に取りかかろうとした――しかし。
「いえ――おかまいなく。ここへは少し様子を見に伺っただけですから」
ダグラス――と呼ばれた男は、やんわりとそれを制する。
「薬室も、皆様もおかわりなきようで何よりです。主もご安心なされるでしょう」
ダグラスさまの……主? 私は違和感の正体を懸命に辿った。正直名前に覚えはない。だけどこの顔――どこかで見たような気がするのだ。どこで見た?
その疑問は、私の戸惑いを察した薬室長によってあっさりと解消された。
「ああ――モニカさんは初めてだったわね。こちらは、アデル・ダグラスさまです。ルシオ殿下のご側近で、近衛騎士を務めていらっしゃる方よ」
「――っ」
はしたなく声をあげそうになって、慌てて自らの口を塞ぐ。
アデル――思い出した。フランシスカ王女の誕生パーティーの日、王女と口論をしていた男だ。王女によると、確か王子の乳兄弟で幼馴染みのようなものだと。
「アデル・ダグラスと申します。お初にお目にかかります、美しい姫君」
アデルは少し寒気のするような気どった台詞を吐いて、私に向かって恭しく頭を垂れる。
美しい……姫って。王女と口論していた時とはうってかわって紳士的だが、なんだか軽薄な印象は拭えない。
「姫君だなんて……とんでもございません。私は薬室で雑用係をしております、モニカ・ブライトマンと申します」
「ご謙遜を。俺――いえ私は、貴女より美しい女性をどの夜会でもお見かけしたことがない。美人で名高いブライトマン家のご姉妹の中でも、一番」
「はあ……そうでしょうか」
どこかで聞いたようなデジャビュ。アデルはかつてのリディアやマリーベルと会ったことがあるのだろうか――そこまで考えて、私はまた思い出した。
それはフランシスカ王女の言葉。王女の知り合いの夜会狂いの男が、ブライトマン三姉妹について話して聞かせたとかいう。
それが多分このアデルなのだろうと思うと、不思議なほど腑に落ちた。
「主よりかねがねモニカさまのことは伺っておりました。お会いできて光栄です」
――殿下が……?
胸の中で小さく呟く。それは声にはならなかった。
「いずれ、またお目にかかります。本日はこれで」
「あら、もうお帰りになってしまわれるのですか」
「すみません。今日は本当に立ち寄っただけなのです」
引き止める薬室長に申し訳なさそうに首を振ると、アデルはそのまま場を辞した。
一体何がなんだったのか。わけが分からず呆然と立ち尽くしていた私は、扉の閉まる音で我に返る。
――あの人は、王子の側近だという。
薬室長は彼と面識があるようだった。ということは、ここを訪れるのは初めてではないはず。もしかしたら、本当にただ挨拶に立ち寄っただけなのかもしれない。でも……
私がここに勤め始めてから、側近のアデルが現れるのは初めてのこと。それも、主である王子もいない時に。
じゃあ、王子――王子は?
「すみません、少しお手洗いに!」
私は側にいた薬室長に勢いよく告げて、アデルの後を追いかけていた。
先を行くアデルを追って、走る。ほんの少しの時間だったのに、彼は歩くのが速くて、追いつくには意外と骨が折れた。
「――アデル、さん! お待ちくださいっ」
私の声に気づいて、ようやくアデルは立ち止まる。不思議そうに小首をかしげ、こちらを見た。
「これは、モニカさま。何かございましたか」
「ルシオ殿下のことで教えて頂きたいのです。殿下は……その、壮健にお過ごしですか」
正直、笑い飛ばされるかと思った。
けれど、アデルは作ったように完璧な笑みで応えた。
「もちろん。しかし……何故、そのような?」
「殿下が最近薬室にいらっしゃらないので、少し心配になって。馬鹿な考えだって分かっています、でも……何か理由があって来られないのかもって」
自分で来られない代わりに、アデルを差し向けたんじゃないか……なんて、考えが頭をよぎる。
ただ忙しいだけならいい。けれど、もしそうじゃなかったら……?
「違うならいいのです。その、私の思い過ごし……ですよね」
「……なるほど。モニカさまはなかなかに鋭い方でいらっしゃるな」
アデルの意外な言葉に、思わず眉を寄せる。すると彼は、どこか不敵な笑みを浮かべたまま、さらに言った。
「気になるなら、会っていきます?」
「――えっ?」
そんなことを言われるとは予想外だった。
王子に見せたかった雪だるまはもうない。王子に会っても、とくに用事があるわけではないのに。
「無理にとは言いませんが……どうしますか?」
「……お会いしたいです、私。殿下に!」
気がつけば声を上げていた。
この時初めて、自分は王子にずっと会いたかったのだと分かった。
王子に会える――そう思えば、自然と胸が躍る。それが何故かは、分からなかったけれど。
王族の居住区は、普通王宮の最深部にある。ルシオ殿下は成人してからは、国王夫妻や兄王子と離れて、別の区画に部屋を持っているという。
仕事が終わった後、アデルに案内されて訪れたそこは、薬室からもそう遠くない場所にあった。華美な様子もなく、表には見張りの者もない。教えられなければ、そこが王子の居住区とはきっと思わなかった。
「ここで少し待ってください」
アデルがそう言ってその場を離れ、私は一人残された。
通されたのは隣と続き部屋になっている居間のような部屋。当然、執務室とは思えない。書斎のようでもない。おそらくここは、王子のプライベートな空間だ。
そう思うと、急に鼓動が激しくなる。途方もない場所に来てしまった……そんな気がする。相手は王族、私は貴族とはいえ今はただの雑用係。本来なら、口をきくのも畏れ多いというもの。
――いいのか、私。
何も考えずに、ただ会いたいからアデルについて来てしまった。友人だからって、調子乗りすぎじゃないのか。大体、私は何をしに来たんだろう?
そんな考えが頭の中を巡る。しかし、全てが今更の話だった。
「お待たせしてしまってすまない――」
不意に、続き部屋の扉が開く。そして姿を現したのは、私が待っていた人だった。
すぐに立ち上がって、挨拶をしようと思った――けれど一瞬、言葉を失ってしまう。
それは、私の知っている王子の姿とはあまりに違っていた。




