妖精はそうして泣いた
無駄に長くて中身のないお話です
息苦しさに、目が覚めた。
頭が痛い。
体がひどくだるくて、汗ばんで気持ちが悪い。
時計の針は午前6時を指している。
「起きたか」
ゆっくりと開いた扉から、幼馴染が入ってきた。
「ようちゃん・・・」
耀司は密かに眉をひそめたが、病人相手だと思い直し、呼び方を咎めることはなかった。
耀司は布団の上の椎名に近づくと、持ってきた水と薬をいったんテーブルに置き、椎名を座らせてから水と薬を渡した。
「ありがとう。わざわざごめんね」
耀司は返事をしない。
もともと口数の少ない人だし、体を崩しやすい椎名の面倒をよく見ている耀司からすれば、聞き飽きたセリフに答える気もないほど呆れているのかもしれない。
「ごめんね、耀司くん。大人しく寝てるから、帰って大丈夫だよ」
「ああ、そうする。おばさんからさっき電話があったが、もうすぐ戻るそうだ」
「うん、わかった。本当にごめんね」
耀司は椎名を一瞥すると、それ以上は何も言わずに帰っていった。
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両親は椎名が物心着く前に離婚しており、母子家庭である。
父親の顔さえ椎名は知らない。
仕事人間の母親は、幼い頃から病気がちだった椎名を一人にして仕事に行っていた。
子供の頃は少し走り回っただけで熱が出るほど貧弱で、保育所から迎えに来るよう呼び出された母はいつもすごく不機嫌だった。
その様子を間近で見ていた椎名は、子供心に母を困らせていることを知り、わがままを言わない子供になっていった。
母のことが大好きだった椎名はどうにか母親の関心を引きたくて、出来るだけ掃除や水準の手伝いをした。
母は、椎名の誕生日が近づくと酒をよく飲んで、一人で泣いてばかりいた。
どうしてか近寄ってはいけないような気がして、いつもその様子を物陰から見ていたのだが、ある日一人泣いている母が椎名の保育所の卒業写真を破り捨てているのを見て、母が泣いている原因が自分なのではないかと思うようになった。
それでも、いつかは母が笑いかけてくれる日が来るのではないかと思っていた。
期待することを止めたのは、天使が現れてからだ。
私たち親子は、小さいアパートの一室を借りて細々と暮らしていたのだが、小学校に上がる頃に隣に大きな一軒家ができて、そこに3人家族が引っ越してきた。
たまたま大家さんのところに挨拶に来ていた一軒家の奥さんと息子さんに出くわしたのが、全ての始まりだった。
質の良さそうな服に身を包んだ美しい女の人を見たとたん、母は突然その女の人のもとへ駆け出していった。
母がその人に抱きついて何か言っていたが、何たったかは覚えていない。
ただ、椎名が生まれて始めて聞くような初めて嬉しそうな声だった。
二人は高校の頃に一番仲の良かった友人らしく、奇跡のような再会に気分が高揚しており昔話に花を咲かせた。
母の元へ行くにも行けず、立ち尽くしていた私の腕を掴んで、母は友人に紹介する。
女の人に手を繋がれた小さな男の子が、耀司だった。
びっくりした。
今まで出会った中で、一番綺麗な子だったから。
色素の薄いくせっ毛の茶色の髪の毛、クリクリした大きな二重の目、ふっくらした頬も母親とつないでいる手も、白くて柔らかそうで。
まるで天使みたいだと思った。
笑ってしまうけど、あのときの私は、どうして羽がないのだろうと本気で不思議に思っていた。
母はその綺麗な子供を心底気に入った。
気に入って、大切にして、羨ましがった。
バカな私はやっと気がついた。
母が椎名を構わないのは、母の元来の性格ではなく母が椎名を大切にしていないからなのだと。
初めのうちは母は椎名を連れて隣家へ遊びに行った。
しかし母は耀司と耀司の母と三人でいてばかりで、椎名は部屋の隅で一人で遊んでおり、そのうち椎名を連れて行くこともなくなった。
ひそひそ話しているつもりなのだろうが、母と耀司の母は自分たちの世界に入ってしまうそんなことに気を使はなくなり、会話の内容は聞きたくなくても自然と耳に入ってきた。
そこで、なんとなくだが、自分は母に望まれて生まれてきたのではないことが分かった。
耀司は賢い子どもだった。
椎名の母から出来の悪い椎名への罵倒への賛同を求められても、内容をわかった上で話を無視するような、どこか冷めた性格をしていた。
椎名は耀司が苦手だった。
昔から無口であまり表情を表さなくて美しかった耀司には、常に近寄りがたい雰囲気があった。
しかし、私の家庭が破綻しなかったのは全て耀司のおかげだ。
放って置かれてばかりの私に、耀司は何を言うでもなくいつも傍にいた。
私の家にも来るようになった。
だから母は、耀司が来るから家の掃除も念入りにしたし、ご飯も作った。
耀司は体調を崩して寝込む私の面倒まで見るようになった。
なぜかは分からないが、耀司は私を見捨てなかった。
頭のいい耀司は自分の行動がどういう結果を招くのか分かっていたようで。
だから決して自然にではなく、私の家庭は意図的に耀司によって守られていた。
それを知っているから、私は耀司に頭が上がらない。
そんな生活は私たちが高校生になっても続いた。
耀司は偶然にも私と同い年だったが、私は中堅の公立高校で、耀司は名門私立高校に通っているのでお互いの学校生活はほとんど知らない。
ただ、この歪な関係の終わりがすぐそこまで来ていることは知っていた。
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「お帰りなさい、お母さん」
「耀司くんがあんたの様子を見に来てくれていたみたいだけど、もう帰ったの?」
「うん」
「そう・・・、耀司くん、最近女の子とよく遊んでるみたいだけど、あんた何か知らないの?」
「さあ、なんにも聞いてない」
「まあ、あれだけ綺麗な子なのだもの、モテるのも当然よね」
母は寝込んでいる私に見向きもしないで、お隣へ耀司くんにお礼を言いに行ってくると出かけてしまった。
母は気がついているか分からないが、耀司は私の母のことが苦手なのだと思う。
耀司は母がいるときは私の家にも耀司の家にもいたがらない。
出会った時からどこへ出かけても注目されるような綺麗な人で、最近では子供っぽさは消え去り、大人びていて、身長もぐっと伸びた。
父がいないためか、椎名は無意識に男性に対して抵抗がある。
ますます男っぽくなってきた耀司は、椎名にとってさらに近寄りがたくなってしまっていた。
どこか遠い存在の幼馴染は、外では椎名といる時と全く違う顔を見せているらしい
。
街中で一度見かけた耀司は、男女数人と一緒にいて、楽しげに目元を和らげていた。
ああ、あんな顔もするんだなあ。
よくわからない孤独感が胸を締め付けたことだけを、今でも覚えている。
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ふと目が覚めると、時刻は午後9時を指していた。
知らぬ間に眠っていたらしい。
すぐそばから身じろぐ音が聞こえた。
床に座り込んで壁に持たれた状態で耀司が眠っている。
心臓が止まるかと思った。
耀司が椎名の前で無防備な姿を晒すことはそうないことだ。
普段は絶対に触れない、茶色い自毛の頭を触る。
とっても柔らかくて、気持ちよくて、手放し難くて。
吸い寄せられるように、唇を寄せた。
ひどい人だ。
出会う前から、椎名が欲しいものはなんでも持っていて。
なのに、嬉しそうな顔ひとつしないような冷たい人。
いっそ椎名のことを見下した態度で接してくれたなら、可哀想な子でいられたのに。
この人は、親に見向きもされない幼馴染を捨てられないような。
とってもとっても優しくて。
ひとりぼっちの椎名を、一人ぼっちにしないたった一人の人。
・・・そんなふうに、心の中ではずっと思っていた。
だってそうでしょう?
羽がない天使は、きっとどこにも消えて行ってしまわないのだと思っていたのに。
ぽたりぽたりと、涙が溢れる。
どうしてだろう、どうして椎名ではダメなのだろう。
どうして椎名の傍から離れていってしまうのだろう。
涙が、涙が止まらない。
「椎名?」
綺麗な二重の目がうっすら開いて、椎名を見つめる。
「どうした?どこか痛いのか?」
冷静沈着で、あまり表情をださない耀司が、焦っている声音で話しかけてくる。
珍しい日だ、こんなにたくさんいつもと違う耀司を見るのはそうそうない。
もしかしたら、いつもの無表情と違う顔をしているのかもしれない。
ああ、でもダメ、涙が止まらない。
惜しいなあ、顔を見たいのに、涙が止まらないよ。
「おい、本当にどうしたんだ、言わないとわからない」
かけられる声に、椎名は懸命に首を振った。
違うの。
そうじゃないの。
「椎名、しい?」
こんな風に昔の呼び名を呼んでくれるのも珍しいなあ。
嬉しいのに、やっぱり涙は止まらない。
天使の男の子は、椎名にとって劣等感の塊だった。
同時に、椎名の憧れでもあった。
綺麗で賢くて人々の注目を集めて、けれど臆することなく凛としている耀司のことが、ずっとずっと大好きだった。
だから、どんなに頑張って、頑張って頑張っても、母に見向きもされなくて惨めでも、
大好きな天使が構ってくれるから頑張り続けることができた。
でも、それももうおしまい。
天使は自分の居場所を見つけてしまったから、いつまでも縛り続けてはいられない。
ごめんねを、何度重ねてもやめられなかったわがままを、終わらせる時が来たのだろう。
「ごめんね、耀司くん、もう」
優しい天使を、歪な均衡を手放す時が来たのだろう。
「もう、大丈夫だよ」
もう大丈夫、一人でだって生きていけるの。
だから、さよなら、
大好きな天使様。