秋の深淵
「ね……あそこ、ほら、誰も、いない、から……ね?」
彼女は渋っている彼の手をやや強引に引き寄せた。
人気のない街路。
初秋の夜。
「……しょうがない奴」
彼は苦笑交じりにそう言って、彼女の手の導かれるがままになった。
二人は夜の公園に忍び入った。
公園は深い木立に囲まれていて、穏やかな静寂が心地いいな、と彼女は端無くも思った。彼も思った。それを彼のさりげないしぐさ、態度で読み取った彼女は、あぁ、通じ合ってるなぁ、と心が温かくなるのを感じた。以心伝心。やっぱり、赤い糸は存在する。
「すっかり遅くなっちゃった」
「おまえが延々と号泣するからだろうが」
備え付けられた簡素なベンチに座った。凍える体を寄せ合うように肩をもたせかけ、複雑に指と指とを絡める。
「あれは泣くシーンだったよ」
「新米刑事がやくざの事務所に突入するシーンだろ」
「あのタイミングでお涙ちょうだいはないよね」
「それを言うなら、お笑いちょうだいだろ。ま、あの明らかなパロディをぶっこんだ映画監督のセンスには脱帽するけどな」
「全米が泣いたってやつだよねぇ、泣いた泣いた」
「映画がアホすぎて思わず、観客の涙腺が緩んだだけだと思う」
初デートは映画館だった。
昼過ぎに巷で有名な映画を見て、わんわんと泣き立てる彼女を落ち着けるのにかなりの時間を費やして、のろのろとご飯を食べて、今に至る。
「今にして思えば、ポップコーンのカロリーの高さは異常だと思うの」
彼女は不安そうに己が腹をつまんだ。険しい表情になっている。
「やっぱりお菓子は控えたほうがいいかな。春君、ほっそりとした人がタイプだから」
「それはまぁ、ほっそりとしたことに越したことはないけど……」
「春君、体重何キロ?」
「五十六」
「五十六?」
「僕は連合艦隊司令長官の器じゃないよ」
「やっぱり痩せてるよね、春君は。羨ましいなぁ、羨ましいなぁ」
「そう言うおまえも結構痩せてるじゃないか。僕はこれくらいのほうがタイプだよ」
「それって私くらいの体型の子が好きってこと? それとも、私自体が好きってこと? わりと後者希望」
「もちろん、後者だよ。秋葉のこと、大好きだから」
彼は彼女の頭を自分の胸に押し付けた。
彼女はうるうるとなっている。
「……私も、春君のこと、好き好きだから。すっごく大好きだから」
「結婚する?」
彼は冗談交じりに言った。
「……うん」
彼女の顔は前髪に隠れて見えなかったけど、頷いているのだけは分かった。すだれのような髪の隙間から、かーっと高潮した頬が艶かしく映って見て、彼もまた、顔を赤くした。
黙って抱き合った。
寂々と更ける夜半。立ち込める夜の香。
彼は高鳴りを続ける彼女の心音を火照った全身で感じていた。とくんとくんとかわいらしく脈動する彼女の命。めくるめくような血の還流が肌を通して伝わってくる。
彼女はしがみつくように彼の胸をかき抱いた。
「家に帰りたくない」
「わがまま言うなよ」
「このままここにいたい」
「親が怪しむ」
「怪しまれてもいい」
「一緒にいられなくなってもいいのかい」
その言葉をきいて、彼女は脳天を貫かれたように呻吟の表情を浮かべた。目に涙を貯めて、ぐずぐすと彼の胸に頭を押し付ける。
「……やだ」
「僕も嫌だ」
「また演技しなくちゃいけないの?」
「仕方ないだろ。そうでもしなきゃ、僕たちの関係が露呈する」
「抱き合うのは?」
「ダメ」
「チューは?」
「ダメ」
「なら、なんだったらいいの?」
「普通の妹としてふるまえばいいんだ。僕たちは恋人以前に、兄妹って言う関係なんだからさ」
「……分かった」
彼女はのっそりと立ち上がった。
彼も立ち上がる。
と。
「あっ」
彼女は立ち上がった彼の腕を掴み、激しく彼の唇を吸った。蛇のように両腕を絡ませ、烈々とした愛撫を加え、彼の肉体に刺激を与えぬく。彼はふわふわとした感覚に囚われてしまい、進行する舌の動きに翻弄されるばかりだった。
瘧のように震える体。彼女の肢体は悩ましげな熱に支配され、ただ専一に彼の肉を、彼の骨を、彼の血を、貪りつくそうとしていた。
肉の一片まで。
骨の一個まで。
血の一滴まで。
ほとばしる。
あふれでる。
吹き荒れる。
熱情。
狂おしい熱情。
彼女は思う。思考する。
なんで、なんで私は……。
兄は困惑した表情で、彼女を見ている。怯えたような、震えているような、表情だ。
でも、それがいい。
彼女は愉悦を感じていた。蹂躙したいと思う。大切なものを破壊したいと思う。
そして、体の隅から隅まで、この人の全てを、私のものに、したい。
あぁ……。
私って気持ち悪い……。
彼女は公園の草原に己が兄を押し倒した。無防備な彼を組み敷き、その体を覆う服を脱がそうとする。それはまさしく、獣じみた本能のなせるわざだった。
「春君、春君、春君っ」
彼女はひたすら彼の名前を連呼しながら、その全身を食らった。恋々と募る劣情を彼にぶつけた。普段、表現することの適わない欲望を、この気に乗じて彼女は、血続きの彼に受け止めさせた。
人は生まれたときから何かに縛られている。
人種、国家、民族、言語、家族、感情、理性……。
二人の場合、それは紛れもない、血脈。血だ。
血で二人は縛られている。
何を持って正常とするか、何を持って異常とするか。
何を持って異常とするか、何を持って正常とするか。
その基準はきっと、血が決めてくれるだろう。
この物語の終わりもきっと、血が決めてくれるだろう。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
「うぅ……うぅ……うぅ……」
血は混ざり合い、絡み合い、その度合いを濃くしていく。
綺麗な夜空。
その下で二人は、あえかな深淵にまどろんでいった。
しいて言うなら、気の迷いです。