ある逃亡者
逃げてはいけないと言われました。
逃げることは駄目なことだと断言されました。
それが家族だったり、教師だったり、クラスメイトだったりしたら、私は無能めと吐き捨てることができたのでしょう。
しかしそれは十年来の友人からの言葉でした。
私は無能めと吐き捨てることができませんでした。
そう吐き捨てる勇気がありませんでした。
代わりに、私は心の中で彼女を軽蔑したのです。
ああなんて最低なことをしたのでしょう。
けれども私はそうせずには居られませんでした。
最低なこととしっかり理解している行為をさせるだけの歪みが、私の中に確かに存在していたのです。
私はすぐに自分を恥じました。
抱いた軽蔑を表にあらわせない自分の不甲斐無さを恥じました。
私はただの臆病者なのです。
けれど頭が狂っているのではないかというほどの自信家でもあるのです。
自分の理論が世界一正しいと信じこんでいるのです。
そうでなければ、どうして十年来の友人を蔑んだりできるでしょう。
逃げてはいけないなどというまるで定型文のような理論を易々と語れる彼女は、私の理論に絶対的に反するもの以外の何でもありませんでした。
それゆえ私は彼女を軽んじました。
もちろん、その軽蔑を直接口にできない自分は棚上げにして。
しかし世の中には逃げなければ折れてしまう現実がたくさんあるのです。
残念ながら彼女はそのことを知らなかったのです。
それは彼女がとても素晴らしい人生を歩んできた証拠でもあります。
つまり彼女は苦悩とか苦痛とか、そういったものを感じる必要がなかったのでしょう。
私はそれを羨んだりしたことはありませんでした。
羨んでは負けだとでも思っていたのだと思います。
浅はかでしょう、私という人間は。
つまらないでしょう、私という人格は。
そのことを分かっていてなお、信じられないほどの自信家で、臆病者であり続ける私は救いようのない馬鹿なのです。
逃げられるなら私だって逃げたいです。
しかし逃げ出すことは叶いません。
だって私が逃げ出したいのは他ならぬ私自身からなのですから。
「ああ、下らなかった」
私は今、入り組んだ樹林の前に立っている。
そこは異様に薄暗く、数歩先へ歩けばもう何見えない。
毎年ここで何十人という人が行方不明になっている。
きっとここは死場所なのだ。
人以外の誰かが人の為に用意してくれた場所。
学校から帰ってきて、丁度ポケットに入っている金額が此処までの片道切符分だった。
それは偶然だった。
しかし私を思い立たせるには十分な偶然だった。
目の前に広がる暗闇は私の瞳に映り、映った闇は私の心に無言で溶け入る。
陳腐な表現かもいれないけど、闇が手招きしているようだ。
もしかしたらこの中に消えていった私のような人間が私を呼んでいるのかもしれない。
私は一つ呼吸をして、もう一度呟いた。
「ああ、下らなかった」
そうか、此処に在ったんだね。
私の逃げ道。
もうこの続きを話すことはできません。
けれど、まともなあなたになら、私がどうなったかきっと分かることと思います。
分からなくてもまともであることに変わりはありませんが。
それではまたいつの日か。
訪れることのない日を待って。
あなたは私と違うことを祈ります。
自分から逃げたい人の話でした。
あまり良い逃げ方とは言えませんね。