11.馬車の中で
「どこの馬車だ!」
薄い木板を挟んだすぐ向こうで鋭い声が聞こえて、リヒーナは反射的にびくりと体を硬直させた。
幸い、動きは小さく、音を立てたりはしなかったけれど、冷や汗が吹き出す。
「マジェーム公爵夫人ですよ。サマデュトル修道院に寄付として小麦と芋を届けに行きます」
御者の青年はリヒーナたちのことを承知しているはずだけれど、応対は至って自然で少しも疾しさを感じさせない。
これなら、とリヒーナが安堵した直後「中を検めるぞ」と再び男の声がしたかと思うと、ぎし、と馬車が軋んで傾く。
「あ、あんまり負荷かけないでくださいよ。この馬車古いんで、いつ壊れてもおかしくないんですよ。出発した矢先に壊したなんてことになったら、俺困りますよー」
青年の言葉を無視して、男が荷台に積まれた木箱や小麦の袋を開けている音が聞こえる。
呼吸の音すら聞こえてしまいそうな距離に、リヒーナは呼吸を止め、音が鳴らないようにと髪飾りからはずして手の内に握りこんでいる鈴をそっと胸元へと引き寄せる。
「どうだ?」
「問題ない」
衛兵たちの会話が聞こえる。
再びぎしぎしと音がしたかと思うと、傾いた荷台がもとに戻った。
男が荷台の上から下りたようだ。
「じゃ、お疲れ様です」
御者の青年が馬車を進め始める。
よかった。
と、リヒーナが止めていた息を吐き出した。
その瞬間。
体から力が抜けたからか、ぎゅるるるる、と大きなお腹の音が響いた。
「っっっっっ!!」
慌ててお腹を押さえるけれど、既に鳴ってしまったものをなかったことにはできない。
聞こえてないよね?
リヒーナの願いむなしく、「待て!」と馬車を制止する声がして足音が近づいてくる。
動き出したばかりの馬車が再度動きを止める。
どうしようどうしようどうしよう。
血の気が引く。
その時、ふいに伸びてきた手に突然口をふさがれ、背中から抱き寄せられた。
三人の並び順は、真ん中に一番背の高いペール、ペールを挟んで両脇にリヒーナとルッチェという並びだから、この手の主はペールしかいない。
びっくりして短く、ふんっ、と鼻息をもらしてしまう。
「大丈夫だ。落ち着け。大丈夫だ。だからなにがあっても声を出すなよ」
耳元でささやかれるペールの声。
とても小さな声だったけれど、その落ち着いた声と背中から伝わる温かさがリヒーナの心を落ち着ける。
こくりと小さく頷く。
衛兵の足音が、馬車の傍で止まった。
「おい、今の音はなんだ」
「いやぁ。実はここのところ稼ぎが少なくて、満足に食えてないんですよ。恥ずかしいことで」
「おまえか?」
「他に誰がいるっていうんです?」
直後、ダンッ! という激しい音がして、馬車が大きく揺れた。
ひぃぃっ!!
飛び出しかけた悲鳴は大きな手で封じ込まれて外まで漏れることはない。
今の衝撃は、衛兵が持っている槍の石突きで馬車を突いたのだろう。
「な、なにするんですか。そんなことしたら本当に壊れちゃいますよ」
慌てる青年の声。
「すぐに済む。これで終わりだ」
ひゅんとなにかが風を切る音が外で聞こえた。
恐らく、槍を回す音。
いやっ!
リヒーナを抱くペールの手に力が入るのがわかる。
ザシュッという鋭い音。
鼻先を掠める風に、リヒーナは目を閉じる。
「どうだ?」
「手ごたえはないな」
シュッと引き抜かれる穂先。
荷台の横板に空いた穴から、外の光が差し込む。
「なんだ、はずれか」
荷台の真横からひと息に刺し込まれた穂先は、幸いにも寸でのところでリヒーナには触れなかった。
はずれか、といっているということは、穂先には血がついていないようだ。
つまり、誰も怪我をしていないはず。
「あーあーあー。穴あけちゃって。ほんと困りますよ。勘弁してくださいよ」
「ええい、うるさい。とっとと行け!」
「行きますよ。行きますとも」
面白くなさそうにいう警吏だか衛兵だかに返事をすると、青年がそそくさと馬車を動かし始める。
引き留める声はない。
少し走ったところで、突然、思い出したかのように身体が震えはじめたけれど、ペールの温かさに包まれているうちにいつしかおさまっていた。




