1.迷子
夜空に浮かぶ、ちょっと頼りないけどすごくきれいな細い月を見上げながら、耳をすませる。
吹き抜ける風が草を揺らす音、近くの小川のせせらぎの音、夜行性の動物が枝を移動する音。
それらが静かに耳まで届く。
どれも身近な音だけど、今この時の音の重なりは、今ここにしかない。
ゆっくりと目を閉じて、わたしを包む音に身を委ねる。
物心ついた頃から旅を続ける暮らしをしているわたしには、ひとつのところに長く留まった記憶がほとんどない。
長い長い旅の中で、何度も立ち寄る街もあれば、一度通りかかっただけの村もある。
そんな風だから、またこの場所を訪れることがあるのか、もう二度と訪れることはないのか、それはわからない。
だからこそ、自分が訪れた場所の音くらいは覚えていたい。
――そう思うんだ。
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「えーと……あれ? こっちじゃなかったっけ……?」
昨日着いたばかりの街の細い裏路地で足を止めて、リヒーナはぐるりとあたりを見渡した。
んー。こっちじゃない……のかなぁ。
もう一度ぐるりと視線を一周させる。
んんー? ……だめだぁ。
リヒーナはがっくりと首を折る。
その拍子に、髪飾りについている鈴がリンと鳴り、長い黒髪が背中から胸の前へと落ちた。
石造りの建物に囲まれた細い路地には目印になるようなものがない上に、どこも同じような作りで見分けがつかない。
けれどここに立ち尽くしていても、どうにもならないのは間違いない。
気を取り直して顔を上げる。
頭上では、窓から窓へ渡されたロープに干された洗濯物が微かな風に吹かれて揺れていた。
それもまた、どこでも見られる光景だ。
「戻ったほうがいいかなぁ。でも、もう少しで広い通りに出られそうな気もするしー。んんんー」
大通りの喧噪からは、知らないあいだにすっかり離れてしまっていて、今いる辺りはすごく静かだ。
耳をすませば前方から大通りを行き来する馬の蹄や人々の話し声が微かに聞こえるような気がするけれど、建物に反響しているだけかもしれない。
まずいなぁ、とリヒーナはため息を零す。
『少し散歩してくるだけのはずじゃなかったのかよ!? いったいどこまで行って来たんだ、おまえは!』
宿に帰ったら、きっと心配性のルッチェのお小言が待っているに違いない。
一緒に旅をしているルッチェは、リヒーナより三つ年上の十九歳で、リヒーナのことを生まれた時から知っている。血のつながりはないけど、兄妹のように育ってきた。
リヒーナの両親が流行り病で死んでしまってからは、兄というよりはまるで母親みたいに口やかましくなってしまったけど。
とにかく、急いで帰らないと。
どちらにしようかな、と前後を交互に見やってから、結局、運任せに前進を選んで駆け出そうとしたその時、前方から近づいてくる足音に気づいた。
「やった! 誰か来る!
」
その靴音のせわしなさから急いでいるらしいことがわかるけれど、どうすれば目的の場所にたどり着けるかくらいは教えてくれるだろう。
くねくねと曲がりくねっている路地は見通しが悪くて、少し先の様子がわからない。
リヒーナはこちらに向かってくる相手にぶつからないようにと、路地の隅に寄った。
足音はもうそこまできている。
タイミングを見計らって、あの! と声をかけようと口を開いたリヒーナだったけれど、現れた相手を見て、思わず固まった。
背の高い金髪の青年だ。
碧眼は晴れ渡った空のように青く澄んでいるけれど、どこか焦点が定まっていないように見える。
白い肌にすっと鼻筋の通った整った顔立ちをしている。
けれど、リヒーナが声をかけそびれてしまったのはその美貌に見惚れていたからじゃない。
青年が手で押さえている額からは、赤い血がしたたっていた。




