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金引尾根

 一口に登山と言っても、色々とある。命綱が必要なロッククライミングやアイスクライミング、特別な道具が必要な沢登りやバックカントリー。でも、一般的に登山といえば山頂を目指すハイキングになる。ハイキングはどこかほのぼのとしたイメージがあるが、季節によっては途端に難易度が上がった。今回のように厳冬期の登山では、氷点下という気温が大きな障壁になるし、アイゼンといった専用の道具も必要になる。しかし、雪山における登山の難しさとは、その雪かもしれな。なぜなら、山道が雪に埋もれてしまうから。


 登山をしたことがある方なら分かると思うが、普通は多くの方が踏み固めた山道が存在する。登山客が多い山なら、道標が用意されているのでほぼ迷うことはない。ところが、雪は全てを覆い隠してしまう。進むべき道が分からなくなるのだ。このような環境下での必須アイテムが、スマホとモバイルバッテリーになる。スマホに登山専用のアプリを入れておけば、GPSによって位置情報を確認することが出来た。初心者の僕が雪山に挑戦できるのは、この文明の利器のお陰といっても良い。そんなスマホだから、バッテリー切れは命綱を失うことを意味する。予備としてモバイルバッテリーも用意しておかなければならない。とはいっても、金引尾根には先行者のトレースが残されていた。GPSに頼らなくても歩くことが出来る。


 金引尾根の斜面は、急峻過ぎて直登するのが難しい。斜面を横切りながら少しづつ高度を上げていく。この斜面を横切る移動をトラバースという。尾根の斜面には真っすぐに伸びた木が林立しており、その木を縫うようにしてジグザグにトレースが続いていた。森林限界を超えた2000m以上での登山においてはトラバースは慎重に行わなければならない。木が生えておらずただの斜面だから。滑ってしまえばどこまでも転げ落ちていく。金引尾根の始まりは1000m付近なので、そうした危険はない。


 白い雪の斜面に、密集するようにして木が上へ上へと伸びていた。真っすぐに背伸びをしている。白と黒。面と線。そのコントラストがとても美しい。顔を上げると、密集した葉の隙間から、真っ青な空が見えている。天気予報通りだ。寒いには違いないが、透き通った青い空の広がりは、どこか春めいた陽気を感じさせてくれる。歩いていて気分が良かった。


 ところが、のんびりとしたトラバースが終わり、尾根の直登が始まる。斜度が上がり、アイゼンの爪が無ければ滑ってしまいそうだ。急すぎる斜面では、雪が積もっても直ぐに風で飛ばされてしまいアイスバーンになっている。所々が岩場になっている個所もあった。体を前傾させて、ストックで身体を支える。足はハの字に広げて、ゆっくりとゆっくりと歩みを進めた。急いではいけない。一歩一歩確実に足を置く。それでも息が切れる。吐く息が白かった。


 登山を開始してから1時間30分が経過する。高度は1200m付近を超えた。周辺の木の様子が変わる。僕は専門家ではないので間違っているかもしれないが、先ほどまでは杉のような針葉樹林帯を登ってきた。葉は上空にあり視界に現れるのは真っすぐな幹ばかり。ところが、視界に木の葉っぱに雪が付着した樹氷が現れる。木が白く装飾されていた。白いのは葉や枝だけではない。木の皮そのものが白い。白樺という木なのかなと思った。ところが、調べてみるとダケカンバという高山で自生する落葉樹らしい。他にも、ブナやカエデといった木が自生しているようだが、僕には見分けがつかない。


 金引尾根の登攀には時間が掛かった。14時20分に行動を開始して、今は16時30分。2時間が経過していた。坂を見上げると、一人の男の人が降りてくる。ずっと一人だったので嬉しくなる。挨拶をした。


「こんにちは」


「よう、こんにちは。今晩は狼平かな?」


「ええ、狼平で一泊するつもりです」


「俺は、早く帰ってビールが飲みたい」


「良いですね。僕も、雪の中で日本酒を飲むつもりです。ところで、何時ごろに出発されたんですか?」


「俺か? ちょっと遅くて7時ごろ」


「へー、7時出発なら早いですね。脚が強い」


「へっへっ、そうかい。八経ヶ岳から弥山へと周回するつもりだったけど時間が無くなっちまったからな……。八経ヶ岳は素晴らしい天気だったよ。真っ青な空。雲海も立ち込めていた。明日も良い天気だよ、あんた」


「嬉しい……、とても楽しみ」


「じゃあな、気を付けて行けよ」


「ええ、ありがとうございます」


 気っ風が良い、カラッとした性格の男性だった。それに8時間も行動してきたというのにとても元気だ。ステップを踏むようにして、軽快に雪の斜面を下りていく。年のころは還暦を回っていると思われるが、僕よりも断然体力があった。僕も頑張らねばと、少し元気になる。


 日が傾いてきた。あと小一時間で日が沈む。白い雪の斜面に黒い木の影が伸びていた。太陽の光もオレンジ色に変わっている。すると、前方にまた人が現れた。今度は二人組の男性。年のころは40代前半くらい。ところが、先ほどの男性と違って足取りが重い。


「こんにちは」


 挨拶をしてみたが、疲れているのか少し反応が鈍い。


「……こんにちは。これからですか?」


 登ってきた僕を見て驚いた顔をしている。


「ええ、今晩は狼平で一泊するつもりです」


「狼平……、まだ2時間は掛かりますよ」


「そうですね。日が沈んでも歩くつもりなので、僕は構わないんです」


「……そうなんですね。僕たちは八経ヶ岳に向かったんですが、時間が無くなってしまって。それで引き返してきたんです」


「そうなんですか……。気を付けてください」


「ええ、ありがとうございます」


 彼らと別れた。僕は雪山のナイトハイクは経験済みだし、今回もナイトハイクは織り込み済み。当然のことながら、ヘッドライトを用意していた。対して、彼らがそうした装備を持っているのか少し心配になる。なぜなら、相方の男性の一人はアイゼンではなく、プラスチック製の簡易ワカンだったから。ネットで調べたことがあるので、その存在は知っている。安さに惹かれて、僕も購入を検討したことがあったからだ。ただ、これまでに幾らかの雪山を経験してきたからこそ分かることがある。本格的な雪山登山において、あれは不向きだ。平地で雪が積もったくらいなら使えるが、坂を登攀するための爪がそもそもない。あのペースだと、日が暮れるまでに登山口に辿り着けないかもしれない。大丈夫だろうか……。少し後ろ髪が引かれながらも、僕は登り続けた。

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