第6承 第6和【八岐大蛇 参腫 毒の首 バニー 前闘】
風が止まった。
音が消えた。
世界がまるで、呼吸を忘れたかのようだった。
濃紫の霧が漂い、地面はじゅるりと音を立てて“腐って”いる。
緑でも茶色でもなく、黒く泡立つ液体が、沼一帯の大地を飲み込んでいた。
その中心に、おかまではない女性の
バニーが、ひとり立っていた。
彼女の足首まで沈む“毒の沼”は、触れたもの全てを溶かす。
しかしバニーの顔には恐怖の色はなかった。
ただ――
長い年月、老いた叔母と二人きりで暮らした、
その静かで強い眼差しだけが空気を貫いていた。
沼の中央が、静かに……それでいて気味悪く隆起した。
どろり。
ぶくり。
沼の泡がひとつ、またひとつと弾ける度に、
腐敗した獣の骨、錆びた鎧、朽ちた街の残骸が浮かび上がる。
その中から――
巨大な“蛇の首”がねじり上がった。
皮膚は半透明の紫色。
中で脈動する黒い血管が、不規則に脈打ち、毒の光を放つ。
“毒の首”
八岐大蛇の第三の理を司る存在。
その声は、耳ではなく脳髄に直接流れ込んでくる。
「……孤独な娘よ……
長き歳月を、老いぼれの女と生きた娘よ……
なぜ戦う……何を守る……?」
バニーの瞳が微かに揺れた。
毒蛇はそれを見逃さない。
「――あの女はお前のせいで早く老い、
疲れ果て、病に倒れた。
お前は“毒”を運ぶ者だったのだ。」
空気が凍り付くような静寂。
バニーの唇が震えた。
「……黙れ。」
「黙れ?」
毒蛇は笑うでもなく、淡々と続ける。
「お前のそばにいる者は皆……少しずつ衰えていく。
お前の“毒”のせいでな。」
その言葉は、
誰よりも優しくしてくれた叔母の姿を、心に突き刺した。
バニーの脳裏に、
小さな家の匂いが蘇る。
薪がはぜる音。
夜なべの縫い物をしながら話す叔母の声。
風邪を引いた時に額に置かれた、あの優しい手。
『バニー、あんたはね……
誰より綺麗で、誰より強い子じゃ』
『毒みたいだって言われたっていい。
毒はね、薬にもなるんよ。
あんたは人を守る子じゃ』
その時の暖かさが、
胸の奥で、静かに灯った。
バニーは沼の底から顔を上げる。
「わたしは……叔母さんを“毒した”なんて思ったことは一度もない。
あの人は……わたしを護ってくれた。
ただ、それだけ……!」
毒蛇はゆっくりと首を傾ける。
「ならば証明してみろ。
この毒海を渡れるのならばな。」
バニーが一歩踏み出す。
――ジュッ。
足が溶けたわけではない。
だが、皮膚の下を毒が這う感覚が走る。
“血液に毒が混じる”
それを身体が理解する。
二歩目。
三歩目。
毒海の気配が、彼女の肺へと入り込んでくる。
肺胞の隅々まで、黒い霧がじっとりとまとわりつく。
視界が揺れ、匂いも味も曖昧になる。
記憶が溶かされる感覚。
この世界は、ただの毒ではない。
“魂そのものを侵す毒”。
毒蛇の声が重く響く。
「なぜ抗う……?
お前はここで生まれた“毒そのもの”。
ここで朽ち果てる方が、世界にとって優しい。」
バニーは膝をつきかけた。
だが――
その瞬間。
「……うるさい……!」
バニーの胸を、誰かの手が押したような感覚が走る。
叔母の声が、耳元で囁いた気がした。
『バニー……しっかりしんさい……
毒はね……
“選ぶ”者の手に渡れば……
命を救う……』
その瞬間、
バニーの体内で青紫の光が弾けた。
毒蛇が眉をひそめる。
「……なに……?」
バニーが立ち上がる。
足元から沸き上がる毒霧が、彼女の身体を黒い布のようにまとっていく。
それは“毒に耐えた者だけが得る祝福”。
毒への同調。
バニーの声は震えていない。
「叔母さんの言葉が……わたしを生かした。
あの人の優しさは毒なんかじゃなかった。
もし毒だと言うなら……」
瞳が鋭く光る。
「その毒は、わたしの“力”だ。」
毒蛇は舌を鳴らした。
「綺麗事だ。
では、これでも言えるか?」
毒の沼がうねり、
人の形を作る。
現れたのは――
白髪をまとめた老いた女性。
バニーの“叔母”の幻影。
バニーの呼吸が止まった。
気配も声も、叔母そのもの。
沼が作り出した幻影であることは明白。それでも心が揺さぶられる。
叔母の幻が、手を差し伸べる。
『バニー……帰ろう……
こんなとこで死んじゃだめじゃ……
うちの子……』
涙が、ひと粒だけ落ちた。
バニーの唇が震える。
「……叔母さん……」
毒蛇が嘲笑する。
「さぁ、抱かれて果てろ――
お前の望む最後は、それだ。」
叔母の幻影が、
ゆっくりと腕を広げて近づいてくる。
バニーは後ずさりしない。
涙を流したまま、拳を握った。
そして――
叔母の胸へ、拳を打ち込んだ。
どろり、と幻影が崩れ落ちる。
バニーは震える声で叫んだ。
「これは叔母さんじゃない!
あの人は、わたしを“前へ進ませる”人!!
引き止める人じゃない!!」
毒蛇の瞳が大きく揺れた。
「……人の子が……
毒の幻影を破る……?
まさか……“毒を愛された”者……?」
バニーの全身が、淡い青紫の輝きをまとう。
毒に侵されながらも、毒を己の内に組み込んだ、
“毒と共生する身体”。
毒蛇は舌を巻く。
「……厄介だ。
その身はもう毒の理に干渉しておる……
お前だけは……早めに折らねばならぬ。」
バニーは構える。
足元の毒が、
彼女に道を開くように波を割った。
沼が――彼女を“拒まなくなった”。
バニーが毒海を歩き、毒蛇の目前へ進む。
毒蛇がその巨大な首を低く構える。
バニーの瞳には、恐怖も迷いもなかった。
叔母の声が背を押していた。
『バニー……あんたは、毒でも、薬でも……
人を救える子じゃ。
胸張って進みんさい』
バニーが呟く。
「叔母さん……見ててね。」
毒蛇が高く咆哮した瞬間――
毒海全体が爆ぜた。
瘴毒の世界と、
乙女の心を持つバニーとの闘いが、
ついに幕を開ける。




