第5承 第14和【鎮魂】
黄泉の闇は静寂ではなかった。
遠くで、千年の嘆きが風のように流れ、魂の衣を揺らしていた。
實光は自ら人柱となり、黄泉路へと落ちていったはずだった。
しかし彼は完全には“消えて”いなかった。
陰陽師が最後に見せる光、それは 魂魄が世界を護るために分離し、別位相へと移る現象。
彼の肉体は滅んだ。
だが、精神――“意志”は黄泉の最深部に漂い続けていた。
黄泉の王は言う。
「汝は道を極めし者。なれば魂は虚無に還らず。
ここで永劫の傍観者となり、この世を見定めよ」
實光は問う。
「私は…本当に、あの世界を守れたのか」
黄泉の王は静かに答えた。
「守れたかどうかを決めるのは、残された者たちだ」
その瞬間、黃泉の闇に裂け目が生じ、實光の視界に光の筋が差し込む。
京都。
まだ息づく街。
生き残った仲間たちの姿が“影絵”のように見えていた。
異形の鵺は倒れ、アトランティスは結界に呑まれて消えた。
空を覆っていた黒雲が裂け、冬の陽光が地上に戻る。
だが、實光の姿だけがどこにもなかった。
老いた母は、實光の気配だけが残る祠の前で祈り続ける。
「あの子は、死んでなんかおらへん。
また帰ってくる。うちにはわかる」
母だけが“魂の声”を微かに感じていた。
黄泉に落ちた者の声は、家族の情によってだけ届く。
街は救われた。
だが人々は知らない。
彼らの背後で一人の男が、世界と引き換えに自らを犠牲にしたことを。
黄泉の最底部で、實光の魂は光の糸となって揺れている。
結界は閉じた。
だが、アトランティスの波動は完全には止まっていない。
黄泉の王が告げる。
「まだ終わりではない。
汝はここから“見届ける者”となり、次の担い手を導くのだ」
實光の魂は微かに震える。
彼の“意志”は、まだ世界に残っていた。冬の京都。
凍てつく風が山の裾を撫で、夜空には小さな星がひらひらと瞬いていた。
母は、ひとり祠の前で膝を折っていた。
實光が最後に結界を張り、姿を消した場所だ。
彼が使っていた数珠は粉々になって散り、呪符は灰となって舞い散っていた。
だが、母には――微かに、胸の奥に“温度”が残っている気がした。
「實光……あんたは、どこにおるんやろねぇ……
うちは、まだ……待ってるで」
そのときだった。
祠の灯籠が、風もないのにふっと揺らめいた。
母は顔を上げる。
冬の闇に、静かに光が滲む。
それは人の形をしているようで、影のようでもあった。
母は直感で理解した。
――實光や。うちの子や。
震える声で、母はそっと手を伸ばす。
「實光……あんた、無事なんか……?」
光は言葉を持たない。
だが、母の手に触れた瞬間、暖かい春風のような感覚が、指先から心臓まで流れ込んだ。
それは、實光が子どものころ、転んで泣いたときに母の手を握り返してきた、あの柔らかい温もりだった。
涙が静かに落ちる。
「そっか……
あんた、生きとるんやないんやね。
せやけど……ちゃんと、ここにおるんやね」
光はゆっくり揺れた。
肯定。
そして、母を心配する気配。
母は微笑んだ。
悲しみではなく、誇りに満ちた微笑みだった。
「あんたは、立派やった。
よう頑張ったなぁ。
みんな守ったんやろ。
うちは……あんたの母で、幸せや」
光がふわりと膨らみ、母を包み込む。
春の陽だまりのような包容で。
黄泉の深奥から、實光の魂が震える。
「……母さん……
オレはまだ終われない。
でも、心配しないで。
オレは……ここにいる」
母の耳のすぐ横で、確かに声が聞こえたように感じた。
幻聴ではない。
血の絆が魂と魂を繋いだ、たった一度の邂逅。
母はそっと祠に手を合わせた。
「實光。
行っておいで。
うちはここで待ってる。
いつまでも。
帰ってくる道があるなら……あんたは必ず帰ってくる子や」
光が細く、まぶしい筋になって空へ昇る。
黄泉へ戻る道だ。
母の涙は止まっていた。
彼女の表情は、ただ穏やかだった。
「ほな……またな、實光」
冬の風が吹き、祠の鈴がかすかに鳴る。
その音は、母にしか聞こえない “返事” だった。




