第1承 第3和 【兆しの朝】
島根の朝は、避難指示の余韻を残したまま静かに始まった。
山あいの町は人影がまばらで、風に揺れる稲穂の音だけが響く。
だが、地面の奥深くでは、まだ何かが蠢いていた。
海里は避難所からこっそり抜け出し、出雲大社の方角へ向かっていた。
胸の奥の違和感は、昨日よりも強く、手の甲の薄い光はよりはっきりと脈打つ。
「……来て、って言われてる……?」
呟く声に、風は答えない。ただ、稲穂のざわめきが微かに応えるだけだった。
富嶽零式の解析結果を受け、桐生朔と糸は島根へ向かっていた。
特殊装置を背負ったまま、高速列車を降りる二人の瞳は鋭く光る。
「昨日の光柱……まだ余韻が残っている」
糸の声が低く響く。
桐生は頷き、地下の異変を捉えるために機器を取り出した。
島根の地下――封印の深部には、八岐大蛇の影がわずかにうねっていた。
巨大な体は土と岩に覆われ、尾が八方向に分かれ、静かに蠢く。
しかし、光の中で輪郭が浮かび上がる様は、神話の絵巻そのものだった。
海里は遠くからそれを見て、息を呑む。
「……本物……?」
体が硬直するが、手の甲の光がぴくりと脈打ち、彼女を前に押し出した。
桐生は装置を操作しながら、糸に告げる。
「神域波長と同調する個体が複数確認されている……。海里、君もその一人だ」
糸は海里を見据え、微笑むように頷いた。
「呼ばれた者は、皆、導かれる。迷う必要はない」
その時、地下の亀裂がさらに広がり、冷たい風と共に黒い霧が立ち上る。
「……来る!」
桐生の声に、海里は反射的に手の甲をかざす。
光が亀裂から放たれ、八岐大蛇の視線に触れる。
その瞬間、闇の中で目が光った。
深く、知恵を宿す赤い瞳が海里を見据えた。
空気が振動する。地面が微かに波打つ。
避難した町の人々にはただの地鳴りにしか聞こえないが、海里には確かに“呼び声”が届いた。
「……私、やらなきゃ……」
胸の奥が熱くなる。手の甲の光が強くなり、彼女を包むように広がった。
桐生は装置の画面を凝視しながら告げる。
「神承者は、封印に触れた瞬間に力を得る。光の具現化もその一つだ」
糸は海里の側に歩み寄り、手を軽く重ねる。
「怖くない。私たちがついている」
地下から、八岐大蛇の唸り声が響く。
その音は地鳴りを超え、耳に、そして心にまで迫る。
「……神承者よ……全てを受け入れろ……」
闇の奥、封印の中心から低く、しかし確かな声が響いた。
海里は深く息を吸い、目を閉じた。
手の甲の光は赤く染まり、胸の奥のざわめきが静まっていく。
「……わかった……やる……」
その瞬間、地下の亀裂から光が噴き出し、八岐大蛇の全身を照らした。
闇と光が交錯し、世界の時間が一瞬止まったように感じられる。
海里、桐生、糸――三人の意志が一つになったその光は、封印を守る力と、解き放つ力の境界線を揺るがした。
夜空に残る光の余韻は、遠く東京でも微かに見え、総理官邸のモニターに映し出される。
鷹宮澪は黙って画面を見つめ、唇をかすかに噛んだ。
「……始まった……」
世界の運命は、静かに、しかし確実に動き始めた。




