王太子と公爵令嬢と三人の馬鹿
◆
この世には生まれながらにして背負わされる荷物というものがある。それが重いか軽いかは人それぞれだが背負わない自由が与えられていない場合、当人にとっては重荷でしかない。
ヴィルヘルム王国の王立アカデミー。その中庭にあるガゼボで、王太子アレクセイ・エルド・ヴィルヘルムはごく親しい者たちの前でだけ見せる気の抜けた顔でため息をついた。
陽光を溶かし込んだような金髪、湖面を思わせる深い青の瞳。成績優秀、スポーツ万能。絵に描いたような王子様である彼はしかしその内面に、王太子という肩書きとは裏腹の、少しばかり俗な青年を飼っていた。
「はあ……」
その深いため息を聞きつけたのは彼の幼馴染であり、取り巻きのリーダー格である伯爵家の子息テオドールだった。
「殿下、いかがなさいました? 何かお悩みでも?」
「……別に。ただ、少し思っただけだ。決められた相手と結婚し、決められた人生を歩む。それも王族の務めだとは分かっているがな」
アレクセイは空を見上げた。その目には諦めと、捨てきれない憧れが混じっていた。
「一度でいいから、燃えるような恋をして自分で選んだ相手と結ばれる……そんな普通の結婚ができたら、なんてな」
それは誰に聞かせるでもない、単なる愚痴だった。だが彼の忠実なる取り巻きたちはその言葉を聞き逃さなかった。伯爵家の長男テオドール、子爵家の次男バルナバ、男爵家の三男クリストフ。彼らは顔を見合わせ、無言で、しかし固く頷き合った。
(殿下は政略結婚をお望みではないのだ!)
(我々が殿下をこの不幸な婚約からお救せねば!)
彼らの忠誠心に火がついた瞬間である。
アレクセイの目下の悩み──というよりは憂鬱の種は、婚約者であるセシリア・エルズ・オルレアン公爵令嬢との関係にあった。彼女は完璧だった。恐ろしいほどに。艶やかな銀髪、理知的な菫色の瞳。立ち居振る舞いは王妃教育の賜物か、一分の隙もない。学問においてもアレクセイと首席を争う才媛であり、その上慈悲深く、誰に対しても公平だった。
非の打ち所がない。だからこそ息が詰まる。アレクセイにとって彼女は完璧な婚約者であり、それ以上でも以下でもなかった。
数日後。アレクセイがガゼボで読書をしていると、テオドールたちが血相を変えて駆け込んできた。
「殿下! 一大事でございます!」
噂をすればなんとやら。ガゼボに駆け込んできたのはテオドールだった。彼はアレクセイの幼馴染であり、取り巻きたちのリーダー格だ。髪をワックスで完璧に撫でつけている気障な男である。
「今度は何だ、テオ。そんなに慌てて」
アレクセイは気怠げに顔を上げた。テオドールの言う「一大事」が本当に一大事だった試しは余りない。
「セシリア様です! セシリア・エルズ・オルレアン様に関する、驚愕の事実が判明いたしました!」
テオドールは芝居がかった仕草で周囲を見回し、声を潜めた。
「驚愕の事実?」
「はい! たった今、ランチタイムのカフェテリアでの出来事です」
テオドールはゴクリと唾を飲み込み、そして覚悟を決めたように叫んだ。
「セシリア様が! 付け合わせのグラッセされたニンジンを! 三つも残されたのです!」
沈黙が流れた。アレクセイはしばらくの間、テオドールが何を言っているのか理解できなかった。
「……ニンジン?」
「左様でございます! このヴィルヘルム王国が誇る、豊穣な大地で育まれたニンジンを! あろうことか三つも!」
テオドールは悲痛な面持ちで天を仰いだ。彼の後ろからは他の取り巻きたちも続々と集まってきた。子爵家の次男であるバルナバと、男爵家の三男であるクリストフだ。彼らもまた、テオドールに負けず劣らずの表情を浮かべている。
「これは由々しき事態です、殿下」バルナバが眼鏡を押し上げながら言った。「食材を提供する領民への感謝の欠如! ひいては王国そのものへの冒涜とも取れます!」
「そうだそうだ!」クリストフが拳を握りしめる。「このような方が将来の王妃など、断じて認められません! 殿下、今こそご決断の時です! 婚約破棄を!」
アレクセイは深く深呼吸をした。そしてゆっくりと口を開く。
「……お前たち、馬鹿なのか?」
取り巻きたちの動きがピタリと止まった。
「いや、馬鹿なのは知っていたがここまでとは思わなかった。ニンジンを残した? それが何だ?」
「し、しかし殿下! これは象徴的な出来事なのです! 小さな綻びがやがて国家の存亡に関わる大問題へと発展するのです!」
テオドールが必死に食い下がる。彼らは本気で言っているのだ。それがアレクセイには恐ろしかった。
彼ら取り巻きたちはアレクセイに忠誠を誓っている。そして彼らはアレクセイが政略結婚に乗り気でないことを敏感に察知していた。だからこそ、アレクセイのために、婚約者セシリアの粗探しに躍起になっているのだ。だがその方向性が致命的に間違っていた。
「テオ、お前は昨日の夕食で、セロリを残していただろう」
「うぐっ! そ、それは……体調が優れなかっただけで……」
「バルナバ、お前はピーマンが苦手だったな」
「殿下、それは子供の頃の話で……」
「クリストフ、お前はキノコ全般が駄目だろう」
「情報が古いです! 今はエリンギだけは克服しました!」
アレクセイは冷ややかな目で彼らを見渡した。
「つまり、お前たちにも好き嫌いはある。それなのに、セシリアがニンジンを三つ残しただけで国家への冒涜だと? 常識的に考えてあり得ないだろう」
「我々とセシリア様を同列に語らないでください! 彼女は将来の王妃となられるお方!」
「そうだとしても限度があるだろう。それに、セシリアは普段から食事を残すようなことはしない。よほど体調が悪かったか、あるいは……」
アレクセイは少し考えた。彼は馬鹿ではない。状況を客観的に判断する能力は備わっている。
「あるいはそのニンジンが特別不味かったかだ」
「ま、まさか! 王立アカデミーのカフェテリアが不味いものなど出すはずがありません!」
「決めつけるな。何事も検証が必要だ」
アレクセイは立ち上がった。
「行くぞ、カフェテリアへ」
カフェテリアはランチタイムのピークを過ぎていた。アレクセイたちが厨房に入ると、シェフたちは王太子の突然の訪問に驚き、一斉に頭を下げた。
「シェフ、今日のランチの付け合わせのニンジンはまだ残っているか?」
「ははい。ございますが……何か問題でも?」
シェフは不安そうに答えた。アレクセイは取り巻きたちを指差した。
「彼らがそのニンジンを残した者がいたと騒いでいる。国家への冒涜だそうだ」
シェフは目を丸くした。
「ぼ、冒涜ですか!?」
「ああ。だから、俺が味見をしてやる。持ってきてくれ」
運ばれてきたニンジンは艶々と輝き、見た目は非常に美味しそうだった。アレクセイはフォークで一つ刺し、口に運んだ。
そして彼は顔をしかめた。
「……なるほど」
甘いは甘いのだが妙な苦味が後を引く。そして何やら薬品のような臭いが鼻についた。
「シェフ、これは?」
「そ、それが……本日納品されたニンジンがどうもいつもと風味が違いまして。スパイスや砂糖を多めに使って調整したのですが……」
「仕入れ先は?」
「北部のゴードン農園からです」
アレクセイは頷いた。
「分かった。この件は宰相に報告しておく。ゴードン農園の土壌に何か問題が発生している可能性がある。調査が必要だ」
シェフは安堵の表情を浮かべた。
「ありがとうございます、殿下」
カフェテリアを出たアレクセイは呆然としている取り巻きたちを振り返った。
「見たか? セシリアは正しかった。あのニンジンは不味かった。彼女は国家への冒涜どころか、王国の危機を未然に防いだ可能性すらある」
「そ、そんな……」
テオドールたちはがっくりと肩を落とした。自分たちの渾身の報告がまたしても空振りに終わっただけでなく、逆にセシリアの評価を上げてしまったのだから。
「お前たちの忠誠心は買う。だがそのエネルギーをもっと有益な方向に使え」
アレクセイはそう言ってガゼボへと戻っていった。彼の足取りは来た時よりも幾分か軽くなっていた。
(セシリアがニンジンを残すなんてよほどの理由があると思ったんだ)
彼は自分が無意識のうちにセシリアのことを信頼し始めていることに気づいた。彼女は真面目で、聡明で、そして味覚も確かだ。
(……悪くないな)
政略結婚であることに変わりはない。だが相手がセシリアならば、そう悪いものでもないのかもしれない。アレクセイの心に、そんな思いが芽生え始めていた。
しかし、彼の憂鬱が完全に晴れたわけではなかった。政略結婚への抵抗感はまだ彼の心の奥底で燻り続けていたのである。
◆
取り巻きたちの「セシリア様ネガティブキャンペーン」はニンジン事件の後も留まるところを知らなかった。彼らはまるで、獲物を見つけた猟犬のように、セシリアの一挙手一投足を監視し、些細な出来事を針小棒大に報告してきた。
ある日の放課後。アレクセイがサロンで書類に目を通していると、またしてもテオドールたちが駆け込んできた。今度はバルナバが先頭を切っていた。
「殿下! 恐るべき事実が発覚しました!」
バルナバは眼鏡の奥の瞳を爛々と輝かせ、羊皮紙をアレクセイの机に叩きつけた。
「今度は何だ?」アレクセイはため息を押し殺しながら尋ねた。
「これをご覧ください! セシリア様の行動記録です! 午後の紅茶の時間。セシリア様は中庭で一人、ティーカップを傾けておられました」
「それがどうした?」
「問題はその後です! 彼女はあろうことか、一匹の野良猫を膝に乗せ、撫でていたのです!」
テオドールが身を乗り出した。
「猫です、殿下! 猫といえば、古来より魔女の使い魔とされている動物! これはセシリア様が黒魔術に傾倒している動かぬ証拠です!」
クリストフも続いた。
「しかもその猫、真っ黒だったんです! 黒猫ですよ! 言い逃れはできません! 彼女は魔女です! 異端審問にかけるべきです!」
アレクセイはこめかみを押さえた。頭痛が再発した。
「……お前たち、いつの時代を生きているんだ?」
「しかし殿下!」
「いいか、よく聞け。まず第一に、この王国において魔女狩りなどという野蛮な行為は二百年前に禁止されている。第二に、猫を撫でていたからといってそれが黒魔術とどう結びつく? 短絡的すぎるだろう」
「ですが黒猫ですよ!」
「黒かろうが白かろうが猫は猫だ。それに、セシリアは動物が好きだ。以前、王宮の厩舎で怪我をした子馬の世話を熱心にしているのを見たことがある」
「馬も悪魔の化身とされることが!」
「もう何でもありだな、お前たちは」
アレクセイは呆れ果てた。
「だいたい、もし仮にセシリアが魔女だったとしてそれが何の問題がある? 彼女がその力を使って誰かを不幸にしたか? 国家に損害を与えたか?」
「今はなくともいずれはその邪悪な力を殿下に向けるかもしれません!」
「妄想も大概にしろ。セシリアに限ってそんなことはあり得ない」
アレクセイはきっぱりと言い切った。その言葉に彼自身も驚いていた。いつの間にか彼はセシリアのことを深く理解し、信頼するようになっていたのだ。その信頼は彼らの馬鹿げた報告によって逆説的に強固なものとなっていた。
「殿下はセシリア様に篭絡されているのです! 目を覚ましてください!」
「目を覚ますべきなのはお前たちの方だ。そんなくだらないことに時間を費やすなら、来週の歴史の試験勉強でもしていたらどうだ? 特にテオドール、お前は前回の試験で赤点ギリギリだっただろう」
「うっ……それは国家の未来を憂うあまり、勉学に集中できなかっただけで……」
取り巻きたちは口を尖らせ、すごすごとサロンを後にした。
アレクセイは窓の外に目をやった。中庭ではセシリアがまだ猫を撫でているのが見えた。その表情は穏やかで、慈愛に満ちていた。普段の完璧な令嬢としての彼女とは違う、年相応の少女の顔だった。
(魔女、ねえ……)
アレクセイは苦笑した。もし彼女が魔女だとしたら、それはきっと、人々に幸福をもたらす善良な魔女に違いない。
数日後、また新たな報告がもたらされた。今度はクリストフが血相を変えて駆け込んできた。
「殿下! 大変です! セシリア様が!」
「またか。今度は何をした?」
「ため息をつかれたのです! それも深く、深く! まるでこの世の終わりのような!」
アレクセイは首を傾げた。
「ため息?」
「はい! 図書館で、一人窓の外を見ながら、憂いを帯びた表情で! あれは間違いなく、現実逃避の表れです!」
テオドールが深刻な顔で続いた。
「これは間違いありません。セシリア様は殿下との婚約に絶望しておられるのです! 政略結婚とはいえ、これほどの屈辱はありません! 殿下の名誉に関わります!」
バルナバも同調した。
「女性のため息は言葉以上の意味を持ちます。彼女はこの婚約を心から嫌がっているのです。殿下、慈悲深いお心で、彼女を解放して差し上げるべきです!」
アレクセイは腕を組んだ。
「……なるほど。ため息か」
確かに、もしセシリアが本当にこの婚約を嫌がっているのなら、それはそれで問題だ。アレクセイ自身も政略結婚には抵抗があったが相手にそこまで嫌がられているとなると、話は別だ。男としてのプライドもある。
「分かった。その件は俺が直接セシリアに確認する」
「で、殿下が直々に!?」
「ああ。これは俺たちの問題だ」
アレクセイはそう言って図書館へと向かった。
図書館は静寂に包まれていた。セシリアは窓際の席で分厚い本を読んでいた。その横顔は真剣そのもので、憂いなど感じられなかった。
アレクセイは静かに彼女の隣に座った。セシリアは驚いたように顔を上げ、そして花が綻ぶように微笑んだ。
「アレクセイ殿下。ごきげんよう」
「ああ。邪魔をしてすまない」
「いいえ。ちょうど休憩しようと思っていたところです」
セシリアは本を閉じた。それは古代史に関する専門書だった。
二人はしばらくの間、その本の内容について語り合った。セシリアの知識は深く、的確だった。彼女はアレクセイの疑問に対して常に明快な答えと、新たな視点を与えてくれた。アレクセイは彼女との知的な会話が心地よいと感じた。
会話が一段落したところで、アレクセイは本題を切り出した。
「セシリア。単刀直入に聞く。君は俺との婚約に不満があるか? 先ほど、図書館で深いため息をついていたと聞いたが。いや、まあそれくらいでと思うかもしれないがあの三人が気持ちを確認しろとうるさくてな……」
俺は馬鹿なんじゃないか、とそんな事を思いつつもアレクセイはセシリアに尋ねる。
セシリアはきょとんとした表情を浮かべた。
「ため息……?」
そして何かを思い出したように、くすりと笑った。
「ああ、あれのことですか」
「何がおかしい?」
「申し訳ありません。あれは婚約に対する不満などではありません」
「では何だ?」
セシリアは少し恥ずかしそうに頬を染めた。
「……実は先ほど読んでいた本の中に、非常に難解な古代語の記述がありまして。何度読み返しても適切な現代語訳が思い浮かばず、己の不甲斐なさに思わずため息が出てしまったのです」
アレクセイは拍子抜けした。
「……それだけか?」
「はい。それだけです」
セシリアは悪戯っぽく微笑んだ。
「もし私が殿下との婚約に不満があるとしたら、ため息などでは済ませませんわ。直接、殿下と父に抗議いたします。そしてこの婚約を白紙に戻すために、あらゆる手段を尽くします」
その言葉には確かな意志の強さが感じられた。アレクセイは彼女のそういうところが好きだと思った。見かけによらず、彼女は誰よりも強い心を持っている。
「そうか。ならいい」
アレクセイは安堵の息をついた。そして自然と笑みがこぼれた。
「心配して損をした」
「ご心配をおかけして申し訳ありませんでした。ですが殿下が私のことを気にかけてくださったと知って少し嬉しいですわ」
セシリアはそう言ってはにかんだ。その笑顔はアレクセイの心を温かくした。
サロンに戻ったアレクセイは待ち構えていた取り巻きたちに告げた。
「セシリアのため息は婚約への不満などではなかった。単に、本の記述が難解だっただけだ」
「そ、そんな馬鹿な!」
「我々の情報網が間違っているはずがありません! あれは絶対に絶望のため息でした!」
「いや、間違っていた。お前たちは完全に的外れだ」
アレクセイは彼らを一喝した。
この一件を経てアレクセイの中でのセシリアの存在はさらに大きなものとなっていた。彼女は聡明で、真面目で、意志が強く、そして時折見せる笑顔が可愛らしい。
(これだけちゃんとしてくれているんだ。政略結婚であったとしてもまあいいか)
アレクセイの心は次第に固まりつつあった。確かな信頼と尊敬に基づいた関係の方が幻想の恋よりもよほど価値があるのではないか。
だがそれでもなお、彼の心の片隅にはまだ見ぬ「何か」への渇望が残っていた。若さゆえの青臭いロマンチシズムが。そしてその隙間を突くように新たな嵐が訪れようとしていたのである。
◆
アレクセイの取り巻きたちは客観的に見て無能だった。それは間違いない。彼らの報告はいつもピントがずれていたし、行動は空回りばかりしていた。学園内でも彼らは王太子の腰巾着と陰口を叩かれ、嘲笑の対象となっていた。
ではなぜアレクセイは彼らを側に置き続けているのか。聡明な彼がなぜ無能な取り巻きたちを切り捨てないのか。
その理由は彼らの特殊な才能にあった。
テオドールはその軽薄そうな外見とは裏腹に、驚異的な記憶力の持ち主だった。特に、貴族社会の家系図や人間関係、過去のスキャンダルに関する知識は膨大だ。
バルナバは冷静沈着な分析能力と、情報収集能力に長けていた。彼の情報網は学園内だけでなく、王宮や社交界、さらには裏社会にも広がっており、あらゆる情報を集めてくることができた。
そしてクリストフ。彼は一見すると粗野で単純な性格に見えるが実は非常に鋭い観察眼と、言語的な才能の持ち主だった。特に、他人の話し方の癖や、わずかな訛りから、その人物の出身地や階層を見抜く能力に長けていた。
それでもなおアレクセイの取り巻きたちは無能に見える。それはなぜか。彼らの能力が極端に偏っているからだ。彼らは人の感情の機微、恋愛の駆け引き、日常の常識といった曖昧なものを理解するのが極端に苦手だったのだ。
だが客観的なデータ、検証可能な事実、そして国家の安全保障に関わる事柄において彼らは王国最高の頭脳集団と化す。
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その日、学園では近隣諸国との交流を目的としたパーティーが開かれていた。国内外から多くの来賓が招かれ、華やかな雰囲気に包まれていた。アレクセイも王太子としてセシリアを伴い、来賓たちとの挨拶に追われていた。
そんな中、会場の片隅でクリストフが眉をひそめていた。彼の視線の先には一人の恰幅の良い商人がいる。その商人は最近東方との貿易で財を成した者で、名をリチャードと名乗り、学園に多額の寄付を申し出ている人物だった。
クリストフはテオドールとバルナバを呼び寄せた。
「おい、あの商人を見ろ」
「ああ、リチャードだな。羽振りが良いのは結構だがどうにも胡散臭い」
テオドールが即座に答えた。
「彼の経歴には不自然な点が多い。ここ数年で突然現れたようなものだ」
「何か気になることでもあるのか?」
バルナバが尋ねた。
「ああ。奴の話し方だ。何か変だ」
クリストフは耳を澄ませた。商人は流暢な共通語を話していたが時折、奇妙な訛りが混じっていた。特定の母音を発音する際にわずかに舌を巻くような癖がある。
「訛り? どこのだ?」
「……スクルドだ。それもかなり北の地域」
クリストフは断言した。
スクルド王国。ヴィルヘルム王国の北方に位置する隣国であり、長年にわたり緊張関係にある国だ。近年、その軍事力を急速に拡大させており、ヴィルヘルム王国にとって最大の脅威となっていた。
「スクルドだと? まさか」
テオドールが目を見開いた。
「間違いない。あれはスクルドの最北端、氷雪地帯の鉱山労働者たちが使う独特の訛りだ。以前、スクルドからの亡命者と話したことがある。その時の話し方とそっくりだ」
クリストフの表情は真剣だった。
「調べてみよう。幸いこの場には私の“情報源”が何人かいる」
そう言ってバルナバは静かにその場を離れ、情報収集に向かった。テオドールは商人の周囲にいる貴族たちの顔ぶれを確認し、その関係性を洗い出し始めた。
しばらくしてバルナバが戻ってきた。その表情は険しかった。
「リチャードと名乗る商人。彼の経歴は全て偽造されたものだった。彼が取引しているとされる東方の商会は存在しない。そして彼の資金源は不明だ」
テオドールも続いた。
「彼と親しくしている貴族たちは皆、軍事関連の機密情報にアクセスできる立場にある者ばかりだ。特に、北方の防衛計画に関わっている者が多い」
三人は顔を見合わせた。疑惑が確信へと変わった。
「奴はスクルドのスパイだ。それもかなり大物だ」
三人はすぐにアレクセイのもとへ向かった。
アレクセイは彼らの報告を真剣な表情で聞いていた。普段の彼らとは違う、切迫した様子から、事の重大さを察知したのだ。
「スクルドのスパイ……確かなのか?」
「はい。クリストフの耳が北方の訛りをしかと聞き取りました」
アレクセイがクリストフを見ると、クリストフは重々しく頷く。
「分かった。信じよう」
アレクセイは迅速に行動した。彼はパーティーの主催者である学園長に密かに事情を説明し、リチャードの身柄を拘束するよう命じた。同時に、王宮の宰相に緊急の連絡を取り、彼と接触していた貴族たちを監視下に置いた。
数日後、リチャードと名乗る男は国家反逆罪の容疑で逮捕された。彼の屋敷からはヴィルヘルム王国の軍事機密に関する大量の書類と、スクルド王国本国との通信記録が発見された。彼はスクルド王国の情報機関の幹部であり、ヴィルヘルム王国の防衛計画を盗み出すために潜入していたのだ。
この一件はヴィルヘルム王国に大きな衝撃を与えた。そして同時に、アレクセイの迅速かつ的確な対応は彼の王太子としての評価をさらに高めることとなった。
そしてその陰の功労者があの無能な取り巻きたちであったことを知る者はごく僅かだった。
パーティーの後、アレクセイは三人をサロンに呼んだ。
「よくやった、お前たち」
アレクセイは心から彼らを称賛した。
「お前たちの力なくしてこの危機を防ぐことはできなかった。感謝する」
取り巻きたちは誇らしげに胸を張った。
「当然のことをしたまでです、殿下」
「我々は常に、殿下の忠実なる僕ですから」
「これからも殿下の耳と目となり、この国を守るために尽力します」
アレクセイは満足げに頷いた。
「期待しているぞ」
そして付け加える。
「だがセシリアに関するくだらない報告はもうやめろ。あれは時間の無駄だ」
「し、しかし殿下!」
「まだ何かあるのか?」
「セシリア様が最近、やたらと筋肉トレーニングに励んでいるという情報が!」
「それは彼女が護身術を習っているからだ。王族として当然の嗜みだ」
「ですがその鍛錬の時間が尋常ではありません! もしや、殿下を力でねじ伏せ、国を乗っ取ろうと企んでいるのでは!」
「……お前たち、本当に懲りないな」
アレクセイはため息をついた。
これなのだ、と思う。有能と無能の振れ幅が大きすぎるのだ。アレクセイも三人の立身出世のために彼らの有能っぷりを周囲へ伝えてはいるのだが、それがどうにも信用されないのは三人の普段の振舞いが大きく影響していた。
そのせいで、父である国王から傍に置く者を考えろとまで言われているのだ。勿論アレクセイにはそんなつもりは欠片もないが。アレクセイはアレクセイなりの基準で傍に置く者を見定めており、三馬鹿──いや、三人がそのお眼鏡に適っている以上、側近をすげ替えるつもりは少しもなかった。
◆
アレクセイの心はセシリアとの婚約を受け入れる方向へと傾きつつあった。スパイ事件の際もセシリアは冷静沈着に対応し、アレクセイを的確にサポートしてくれた。政略結婚とはいえ、彼女とならば穏やかで実りある未来を築けるだろう。そう信じ始めていた矢先のことだった。
彼の前に一陣の風が吹き込んできた。それは甘く、刺激的で、そして危険な香りを孕んだ風だった。
彼女の名はリリー・ベルガモット。男爵家の令嬢である。
リリーは王立アカデミーに編入してきたばかりだった。彼女の家系は貴族社会では下層に位置していたがm父親が新たな鉱山の採掘権を得たことで急速に財を成していた。
リリーはセシリアとは対照的な魅力の持ち主だった。燃えるような赤毛、いたずらっぽい緑色の瞳。貴族令嬢らしからぬ、奔放でコケティッシュな雰囲気。彼女はアカデミーの厳格な校則を嘲笑うかのように、制服を着崩し、流行のアクセサリーを身につけていた。
彼女の登場はアカデミーに大きな波紋を広げた。そしてリリーはアレクセイに狙いを定めた。
最初のアプローチは偶然を装ったものだった。アレクセイが中庭を歩いていると、リリーが突然、彼の前に飛び出してきたのだ。
「きゃっ!」
彼女はバランスを崩し、アレクセイの胸に飛び込んだ。甘い香水の香りが彼の鼻腔をくすぐった。
「すまない。大丈夫か?」
アレクセイは彼女の体を支えた。リリーは上目遣いで彼を見上げ、とろけるような笑顔を見せた。
「まあ、アレクセイ殿下! 申し訳ありません。わたくし、ドジなものですから」
「いや、こちらこそ。怪我はないか?」
「はい。殿下に受け止めていただけて光栄ですわ」
リリーは彼の胸に手を当てたまま、うっとりとした表情を浮かべた。その距離感の近さに、アレクセイは戸惑った。セシリアでさえ、こんな風に気軽に触れてくることはない。
「殿下って噂通りの素敵な方なのですね。筋肉もすごいですわ」
リリーは彼の胸板を指でなぞった。
「あ、あの……」
アレクセイは思わず赤面した。
「あら、ごめんなさい。わたくし、つい馴れ馴れしくしてしまって。でも殿下はそんなこと気にしない、心の広い方ですよね?」
リリーは彼の顔を覗き込んだ。その瞳には抗いがたい魅力が宿っていた。
「……ああ。もちろんだ」
アレクセイは柄にもなく緊張していた。セシリアと接する時には感じたことのない、高揚感と興奮。これが俗に言う「恋のときめき」というやつなのだろうか。アレクセイは俗な男だった。こんなにも分かりやすい好意を向けられて悪い気がするはずがなかった。彼の鼻の下は少し伸びていた。
その日から、リリーのアプローチはさらに積極的になった。彼女はアレクセイの行く先々に現れ、親しげに話しかけてきた。
「殿下、今日のランチ、ご一緒してもよろしいですか? 美味しいサンドイッチを作ってきたんです」
「殿下、この魔術理論の問題が分からないのです。教えていただけますか?」
彼女の態度は貴族社会の常識からすれば、あまりにもカジュアルすぎた。だがそれがアレクセイには新鮮に見える。
さらにいえば、リリーはアレクセイを王太子としてではなく、一人の男性として扱った。そのことが彼にとっては心地よかったのだ。
「殿下って意外とカタブツじゃないんですね」
ある日の放課後、二人は温室で話をしていた。リリーは彼の隣に座り、彼の髪を指で弄んでいた。
「そう見えるか?」
「ええ。もっとお堅い方かと思っていました。でも本当はとても気さくで、面白い方なのですね。それに、少しだけ……意地悪なところも」
リリーは彼の耳元で囁いた。
「わたくし、殿下のそういうところ、大好きですわ」
アレクセイの心臓が跳ね上がった。これでいてうぶな所もあるのだ。
(これが運命の恋なのかもしれない)
アレクセイはそんな甘い幻想に酔いしれていた。政略結婚なんてクソ食らえだ。俺は自分の意志で、愛する人を選ぶ。そんな青臭い考えが彼の心を支配し始めていた。
とはいえ当然、この事態を取り巻きたちが見逃すはずがなかった。
「殿下! 正気にお戻りください!」
テオドールが悲痛な叫び声を上げた。
「あの女は危険です! 殿下をたぶらかそうとしている、計算高い女狐です!」
バルナバも続いた。
「リリー・ベルガモット。彼女の身辺を調査しました。黒い噂が絶えません。男爵家は多額の借金を抱えており、その返済のために、彼女を殿下に近づけた可能性があります」
クリストフも警告した。
「あの女、嘘の匂いがプンプンしますぜ。言葉遣いも時々妙に下品になりますし」
だがアレクセイは彼らの言葉に耳を貸さなかった。
「お前たちは黙っていろ。これは俺の問題だ」
彼はリリーに夢中だった。だから取り巻きらがひそかに目配せしあった事にも気付かない。
◆
一方、セシリアはこの状況を静かに見守っていた。彼女はアレクセイとリリーの関係に気づいていたがそれを責めるようなことは一切しなかった。彼女はいつもと変わらず、アレクセイに対して礼儀正しく、穏やかに接していた。
その態度がかえってアレクセイを苛立たせる。
「君は何も感じないのか?」
ある日、アレクセイはセシリアに問い詰めた。
「私が他の女性と親しくしていることに対して何も思わないのか? 嫉妬の一つもしないのか?」
セシリアは静かに彼を見つめた。
「殿下がどのような方と交友関係を持たれようと、それは殿下のご自由です。私が口を挟むことではございません」
「だが君は俺の婚約者だ!」
「はい。ですが殿下のお心を縛ることはできません。私は殿下が選ばれた道を尊重いたします」
セシリアは淡々と答えた。その瞳の奥には深い悲しみの色が隠されていたがリリーに夢中になっているアレクセイはそれに気づくことができなかった。
「君は……俺のことを愛していないのか?」
セシリアは少しの間、沈黙した。そして静かに答えた。
「私は殿下を心から尊敬しております。そして将来の伴侶として殿下をお支えすることを誓っております。それが私の務めであり、私の誇りです」
その答えはアレクセイが求めていたものではなかった。彼は失望し、セシリアから心が離れていくのを感じた。
だがそんな彼の熱病のような恋も次第に冷めていくことになる。リリーのメッキが少しずつ剥がれ落ち始めていたのだ。
◆
リリーとの日々は刺激的で楽しかった。だが時が経つにつれてアレクセイは彼女に対してある種の違和感を覚え始めていた。
それは知性の欠如、そして品性の欠如だった。
リリーは社交的な会話や恋愛の駆け引きには長けていたが少しでも知的な話題になると、途端に話が通じなくなるのだ。
ある日、アレクセイは最近読んだ政治哲学書についてリリーに話をした。それは君主の在り方と、民衆の幸福について論じたものだった。
「この著者は君主は民衆のために存在するべきだと説いている。権力は義務を伴うものだ。実に興味深いと思わないか?」
アレクセイが熱心に語ると、リリーは退屈そうにあくびを噛み殺した。
「まあ、難しいことはよく分かりませんわ。それよりも今度の舞踏会で着るドレスのことなのですが。ピンクとブルー、どちらが殿下のお好みかしら?」
彼女は話題を強引に変えた。アレクセイは少しがっかりした。セシリアならば、この話題について的確な意見を述べ、議論を深めてくれただろうに。彼女との会話は常に新たな発見と刺激に満ちていた。
またある時、アレクセイは隣国スクルド王国との緊張関係についてリリーに意見を求めたことがあった。
「もし戦争になった場合、我が国はどのような対応を取るべきだと思う? 特に、食料の供給については懸念がある」
リリーはきょとんとした表情を浮かべた。
「戦争? そんな物騒なこと、考えたくもありませんわ。大丈夫ですわよ、殿下がいらっしゃるんですもの。それに、食料がなくなったら、ケーキを食べればいいじゃないですか」
彼女は無邪気に笑った。その答えはあまりにも浅薄で、現実味を帯びていなかった。それはどこかの国の王妃が言ったとされる愚かな言葉の引用だったがリリーはそれを本気で言っているようだった。
「……君は本気でそう思っているのか?」
アレクセイは冷たい声で尋ねた。
「え? だってケーキは美味しいですもの。みんな大好きですわ」
リリーは首を傾げた。彼女にはアレクセイがなぜ怒っているのか理解できなかった。
アレクセイは言葉を失った。彼女には国家の存亡に関わる問題について語るだけの知識も覚悟もないのだ。それどころか、他人の苦しみに共感する能力すら欠けているのかもしれない。
将来の王妃となる女性がこれほどまでに無知で教養がないというのは致命的ではないか。アレクセイはそんな不安を抱き始めた。
さらに、リリーのカジュアルすぎる態度も問題を引き起こすようになった。
ある日、学園に他国の外交官が視察に訪れた。アレクセイは王太子として彼らを出迎えることになった。その場に、リリーが勝手に現れたのだ。
「殿下! 誰ですの、このおじ様たちは?」
リリーは外交官たちに向かって馴れ馴れしく話しかけた。その態度はあまりにも無礼で、場違いだった。外交官たちは彼女の突然の登場に驚き、不快感を露わにした。
アレクセイは慌てて彼女を制止した。
「リリー、控えなさい。こちらは他国の使節団の方々だ。失礼だろう」
「あら、どうしてですの? わたくしも殿下の友人としてご挨拶させていただきたいだけですのに。ねえ、おじ様?」
リリーは外交官の一人にウインクをした。その下品な仕草に、アレクセイは目の前が真っ暗になった。
「リリー! 部屋に戻りなさい! これは命令だ!」
アレクセイは怒鳴りつけた。リリーは驚いたように目を見開き、そして不満そうに口を尖らせた。
「……分かりましたわ。殿下は意地悪ですわ」
彼女はそう言って足早にその場を去っていった。
外交官たちは冷ややかな目でアレクセイを見ていた。アレクセイは彼らに丁重に謝罪し、その場を取り繕ったが内心では冷や汗が止まらなかった。
この一件で、アレクセイはリリーに対する評価を完全に改めた。彼女は王族としての立場や責任を全く理解していない。
アレクセイは痛感した。王妃には美貌だけでなく、知性と教養、そして節度ある態度が求められる。リリーには美貌以外のどれもが欠けていた。
一方、セシリアは常に完璧だった。彼女はアレクセイとの距離が離れていても決して王妃教育を怠ることはなかった。彼女はアレクセイがリリーに夢中になっている間も陰で彼を支え続けていた。アレクセイが処理しきれなかった書類の整理や、公務の準備などを、密かに手伝っていたのだ。
アレクセイはセシリアとの会話を思い出した。彼女との知的な会話は常に心地よく、刺激的だった。
(俺はなんて馬鹿なことをしていたんだ)
アレクセイは後悔した。自分は一時的な感情に流され、本当に大切なものを見失っていたのだ。
決定的な出来事が起こったのはその数日後だった。
アレクセイが学園のサロンで取り巻きの三馬鹿と話をしていると、リリーが泣きながら駆け込んできた。
「殿下! 酷いですわ! セシリア様がわたくしを虐めるのです!」
「セシリアが? 君を?」
アレクセイは驚いた。セシリアがそんなことをするとは信じられなかった。
「はい! わたくしが殿下と親しくしているのが気に入らないと言ってわたくしのドレスを汚したり、教科書を隠したりするのです! それに、階段から突き落とされそうになりました!」
リリーはしゃくりあげながら訴えた。その目には大粒の涙が浮かんでいた。
アレクセイは半信半疑だったがリリーのあまりにも悲痛な様子に、心が揺らいだ。
「分かった。セシリアに話を聞いてみよう」
アレクセイはセシリアをサロンに呼んだ。セシリアはいつもと変わらぬ落ち着いた様子で現れた。
「お呼びでしょうか、殿下」
「セシリア。君に聞きたいことがある。リリーに対して何か嫌がらせをしたか?」
セシリアは驚いたように目を見開いた。
「嫌がらせ? 私がですか?」
「そうだ。彼女のドレスを汚したり、教科書を隠したり、階段から突き落とそうとしたそうだな」
セシリアは静かに首を横に振った。
「事実無根です。私はそのようなことは一切しておりません」
「嘘ですわ! セシリア様はいつもわたくしを睨みつけて冷たく当たるのです! この人でなし!」
リリーが叫んだ。
「落ち着きなさい、リリー」アレクセイは彼女をなだめた。「セシリア、何か証拠はあるのか?」
「証拠と言われましても……何もしていないことを証明するのは悪魔の証明ですわ」
セシリアは困惑した表情を浮かべた。
「ほらご覧なさい! 証拠がないということはやましいことがあるからですわ!」
リリーは勝ち誇ったように言った。
アレクセイは迷った。悪魔の証明──実際にそうなのだ。何もしていないことを証明するのは難しい。その時、サロンのドアがノックされた。入ってきたのはテオドールたちだった。
「殿下、失礼します。騒がしいようですが、何かありましたか?」
アレクセイが事情を説明すると、テオドールたちはリリーを冷ややかな目で見た。
いつものお間抜けな雰囲気が欠片もない鋭いナイフのような目つきにリリーはたじろぎ、一歩後退る。
「リリー嬢。貴女の仰ることは本当ですか?」
バルナバが尋ねた。
「本当ですわ! セシリア様がわたくしを虐めるのです!」
「では、その証拠を見せていただけますか?」
「証拠は……ありませんわ。でも、わたくしの心が傷ついたのです!」
リリーは涙ながらに訴えた。
その時、バルナバが静かに口を開いた。
「殿下。リリー・ベルガモット嬢については殿下にご接近されて以来、念のため素行調査を行っておりました。その報告をいたします」
「なっ……!」
リリーは狼狽えた。
「……うむ、話せ」
「まず、ドレスが汚れたのは貴女が自分で転んだから。中庭で泥だらけになっているのを複数の生徒が目撃しています」
テオドールが言った。
「教科書がなくなったのは、貴女が教室に置き忘れたからです。今朝、図書館に届けられていました」
バルナバが続けた。
「階段の件も貴女が自分で足を踏み外しただけだと、近くにいた生徒が証言しています。いずれもセシリア様は関与しておりません」
クリストフが締めくくった。
リリーは必死に言い逃れようとしたがもはや誰の目にも彼女が嘘をついていることは明らかだった。
アレクセイは冷たい目で彼女を見下ろした。
「リリー。君には失望した」
「で、殿下……」
「君は自分の目的のために平気で嘘をつき、他人を陥れようとする人間だったのだな」
アレクセイは彼女の本性をようやく理解した。彼女はただの我がままで無知な令嬢ではなかった。狡猾で、計算高く、そして残酷な人間だったのだ。
「出て行け。二度と俺の前に姿を見せるな」
アレクセイはきっぱりと告げた。
「そんな……嫌ですわ! 殿下、わたくしを信じてください! わたくしは殿下を愛しているのです!」
リリーは彼に縋りつこうとしたがクリストフが素早く間に割り込み、リリーの手首に触れたかと思いきや、次の瞬間にはリリーの手首を後ろ手に拘束し、その場に取り押さえてしまった。見事な体術である。
ちなみにバルナバにせよテオドールにせよ、クリストフと同じような芸当ができる。
「殿下をたぶらかす魔女め。その首、この場でへし折ってやろうか」
クリストフの声には絶対零度の冷たさがあった。殺ると言ったら殺るという凄みがある。普段の間抜けな様子とは段違いの迫力に、リリーは声一つあげることができない。
「やめよ、クリストフ。こんな事で君の手を汚すな。彼女は学園の衛兵に引き渡す」
「は……」
アレクセイの言葉にクリストフは僅かに力を緩める。
ややあって学園の衛兵たちが駆けつけ、リリーをサロンから連れ出した。
リリーが去った後、サロンには静寂が戻った。アレクセイは深くため息をつく。
「すまなかった、セシリア。君を疑ったりして」
アレクセイはセシリアに頭を下げた。
「いいえ。疑いが晴れて良かったですわ」
セシリアは穏やかに微笑んだ。その笑顔には以前と変わらぬ温かさがあった。
「君は……なぜ、もっと早く反論しなかったのだ? 君なら、リリーの嘘を見抜くことなど容易かったはずだ」
セシリアは少し困ったように微笑んだ。
「私は殿下を信じておりましたから。殿下なら必ず真実を見抜いてくださると。それにお三方もおりましたし」
その言葉にアレクセイは胸を打たれた。彼女は自分が他の女性に心を奪われている間もずっと自分を信じ、待っていてくれたのだ。
アレクセイはセシリアの前に膝をつき、彼女の手を取った。
「セシリア。俺たちは政略結婚によって結ばれる。俺はそれが嫌だった。真実の愛で結ばれた結婚がしたいなどと、そんな青臭い事を考えていた。だが今は違う。君のおかげで俺は王族としてどうあるべきかというものを、何となく分かったような気がする。どうか俺の二心を許してくれ。そして、俺に君を心から愛する許しをくれないだろうか」
それは政略結婚として決められたものではなく、アレクセイ自身の心からの言葉だった。
セシリアは驚いたように目を見開き、そして花が綻ぶように微笑んだ。
「はい。喜んで」
彼女の瞳には喜びの涙が光っていた。
アレクセイは彼女の手の甲に口づけをした。もはや心に迷いはない。
(政略結婚でいい。いや、政略結婚だからこそ、こんな素晴らしい女性と出会えたのだ)
アレクセイは自分の運命を受け入れた。
◆
ちなみにリリー・ベルガモットは王立アカデミーを退学処分となった。セシリアへの嫌がらせが原因ではない。取り巻きらのその後の調査によって、彼女の父親の鉱山採掘権も不正な手段で得たものであることが発覚したのだ。
他にも細々とした不正に数多く手を染めていた。結果、ベルガモット家は没落し、社交界から姿を消した。
一方、アレクセイとセシリアの関係は以前にも増して強固なものとなった。
アレクセイの心は穏やかだった。彼は自分が求めていたものは遠い場所にあるのではなく、すぐ隣にあったのだと気づいた。運命の恋など所詮は一時の幻想に過ぎない。それよりも確かな愛情と信頼に基づいた関係こそが真の幸福なのだと。
そんなある日、アレクセイがサロンでセシリアと共にお茶を楽しんでいると、またしてもテオドールたちが駆け込んできた。
「殿下! 一大事でございます!」
テオドールが叫んだ。
「今度は何だ?」
アレクセイは苦笑しながら尋ねた。セシリアもどこか興味深そうに三人を眺めている。
彼らの大仰すぎる一大事にはもう慣れっこになっていた二人であった。
「スクルド王国へ差し向けている当家の諜報員より、スクルド王国が大規模な軍事行動を企図しているとの情報が届きました! 得た情報については既に王国の諜報部へ提供しておりますが、殿下に際しましては早急に王宮へ帰惨なされますように!」
アレクセイとセシリアは思わず顔を見合わせた。これは──
「一大事ではないか!」
勢いよく立ち上がるアレクセイを気づかわし気に見るセシリア。
「セシリア、すまないがそういうことだ。失礼するよ」
「はい、殿下。どうかお気を付けください……」
セシリアはそういって、テオドールらを見て続ける。
「お三方も、どうか殿下を宜しくお願いいたします」
「「「は! お任せください!」」」
請け負う三人の姿は妙に頼もしく映る。
(学園ではこの方達を三馬鹿と罵る声もありましたが……とんでもありませんね)
そんな事を思うセシリアであった。
(了)