ウマの国
彼女は湖畔で羽を伸ばし、静かに水浴びをしていた。
夕暮れの静寂に包まれた湖面にて陽光が差し込む水面には仄かな茜色が映し出され、まるで幻想的な光景が広がっていた。
まるで鏡のように映る清水で水浴びをしている彼女の姿はまるで舞踊のようであり、優雅な動作と美しい羽が融合し、一層美しい情景を作り出していた。
水面から伸びた身体は水浴びをしているにも関わらず、艶かしくも魅力的な雰囲気を漂わせている。
彼女の表情にはどこか憂いを帯びており、その美しさと相まって見る者を魅了する。
しかし、そんな美しい光景の中に異物が存在する。
それは彼女の羽に絡みつくように張り付いた火傷の跡だった。
その傷は紅玉のような輝きを放ち、陽光に照らされたそれはまるで宝石のように美しくも妖しげな光を放っていた。
春一番の微風が未だ身体を冷やす、そんな午後の出来事だった。
「……誰かいるの?」
彼女はその幻想的な光景を見ていた自分を見つけ、話しかけてきた。
自分は「覗くつもりは無かった」と弁明し、姿を現す。
頭部だけ縞馬しまうまの姿をした自分。
ただの人間からすれば異形であるが、この地方では至って普通の種族だ。
彼女の近くには毛むくじゃらの猛獣が身体を伏せて眠っていた。
どうやら彼女たちは旅の疲れを癒すためにここを訪れた旅人のようである。
「旅の者かい? こんな寒い日に水浴びなんて物好きだね」
「そうだ、こんな寒い日に水浴びをしている物好きなんだ」
彼女は自分の毒舌にオウム返しで憎まれ口を叩いた。
本当は素直に挨拶を言いたかったのだが、自分の境遇もあってかそれが出来なかった。
そんな自分を気遣ってか、彼女は羽根を仕舞いつつ話しかける。
「この近くの街の人間かしら?案内してくれる?」
そう言って微笑む彼女の表情は何処か嬉しそうであった。
彼女の名はカロス=ルスキニア。
水に落ちれば利巧を失う、しがない一羽の鳥である。
※
「ウマの街へようこそ、旅人さん」
「馬だらけね」
カロスは猛獣の上に乗って移動しながら、月並みな感想をシマウマに述べた。
周りの馬面達はカロスたちが見えた瞬間、ひそひそ話を始める。
鳥である彼女は、この地方では珍しい存在のようだ。
「ここは良い街だ」
シマウマはそう答えた。
「あら、どうして?」
「それは……この街は『治安』が良いからだよ」
「治安?」
「そう、この街は『治安』が良いんだ。だから安心して生活が出来る」
「へぇ……でも、どうして『治安』が良いのかしら?」
「それは……この街の領主様がとても良い人だからだよ」
シマウマはそう言うと、自分の主人を自慢するかのように話を続けた。
「この街の領主様はね、とても優しい方なんだ。移民を積極的に受け入れて、そして何よりも強いお方だ。その強さは誰もが知っている」
彼はそう言うと、カロスに街の領主について語り始めた。
さほど興味の無いカロスは欠伸を噛み殺しながらシマウマに問い掛ける。
「移民ね……、通りでウマの街なのにそれ以外の動物も多いと思っていたわ」
街の住人はシマウマの他に茶色や白い馬、斑模様など様々だ。
そして馬に紛れて、山羊や鹿、牛の姿をした者もいた。
「そうだね、ここの領主様はね移民の受け入れを積極的にしているんだ。
自分も先日引っ越してきたばかりでね、ここでの生活を楽しみにしていたんだ」
シマウマは誇らしげにそう話すと、徐に言葉を続ける。
「君たちもきっとこの街を気に入ると思うよ」
「……宿はここかしら?」
カロスは目の前の宿舎を指差し、素っ気ない態度でドアを開け、入っていく。
シマウマはめげずにカロスに大きく挨拶する。
「今度会ったらぜひご馳走させてください!ではまた!」
シマウマは明るく手を振りながら、人混みの中へと消えていった。
※
「久方ぶりの人の手の通った晩餐であるな」
「どうだろうな、カーン。まさか牧草が出るだなんて事はありえないでしょうが」
毛むくじゃらの猛獣ことカーンは巨躯であるが故に複数の椅子を尻に敷き、他のテーブルに運ばれている食事を見て舌なめずりしている。
カロスはその様子を見ながら呆れ顔で言った。
「まあ……そうね。メニューを見る限り、少なくとも私の口に合うものは出るはずよ」
「……期待せずに待つとするか」
二人は雑談を交わしながら、運ばれてくる料理に舌鼓を打った。
出された料理はどれもこれも肉料理だった。
「ここは牧畜が盛んな土地らしいのよ。だから肉料理が多いみたい」
カロスはそう言いながら、焼きたてのステーキを頬張った。
カーンは野菜と肉を同時に口に運ぶと咀嚼した。
「美味であるな……。それにしても肉ばかりとは驚いたものよ」
カロスは笑みを浮かべながら答える。
「そうね、確かにここまで肉料理ばかりって珍しいかも知れないわね。
でも……美味しいから良いじゃない?」
カーンはそんな彼女の言葉に同意する。
「確かにな」
他のテーブルをちらりと覗くと、馬たちが上手にフォークとナイフを使って口の中に肉を放り込んでいた。
その光景を見ながら、カロスはふと思う。
「客が馬ばかりね」
街中には馬以外もいたはずだが、このレストランには馬しかいない。
料理を運んでいるのは茶色い羊だった。
「単純にここがウマが多いコミュニティなのだろう、人々はいつでも同じ見た目や考えのコミュニティを求めるものだ」
「そういうものかしら」
カロスは渋みの強い赤ワインで肉を流し込みながら、そう呟いた。
「しかし……ここは良い街であるな」
「何が?治安が良いとかそういう意味かしら?」
カロスはグラスを口に運びながらカーンの言葉に問い掛けた。
カーンは食べ終えた食器を置き、静かに答える。
「この街の人々の表情を見てみよ。皆笑顔に満ちているであろう」
カロスは言われた通りに周囲を見渡す。
確かに皆笑顔だった。
まるで何かに取り憑かれたように、ニコニコと馬面たちは同じような笑みを浮かべている。
「うん……そうね」
カロスはそう答えると、再び食事を始めた。
※
食事を終えた2人は眠る前に街中を散策することにした。
街の様子は夜でも活気に溢れていた。
しかしカーンは何かを感じ取っていたようだった。
「この街には……何か奇妙な雰囲気があるな」
「そうかしら?私には全く感じないけれど」
「気のせいかも知れぬな」
「眠いのならもう宿に戻ってもいいわよ」
2人はそんな会話をしながら歩いていた。
そんな中、カーンが前方の人影に目を凝らす。
「あれを見よ」
「え?」
カロスはカーンの言葉に反応し、カーンの視線の先を追う。
そこには2頭の馬がいた。
1頭の馬はもう1頭の馬に対して何かを話しかけている。
話しかけられた方は黙って話を聞いている。
カロスはカーンの言いたい事が解った。
「あの縞馬、見覚えがあるな……」
カロスは目を凝らしながら2頭の馬の会話に聞き耳を立てる。
「良い仕事の話がありますよ、一度聞いてみませんか?」
「自分はもう仕事を決めているのですが……なら、少しだけ」
2頭の馬が話している内容に聞き耳を立てているカロスとカーン。
「彼らは何を話しているのかしら」
「さてな、しかし何やら怪しげな雰囲気が漂っている」
「何でしょう」
「解らん」
「……」
2人はしばらく黙って馬たちを見つめていたが、やがてカロスが口を開いた。
「行きましょうか」
これ以上聞き耳を立てていても仕方ない。
私達は馬たちから踵を返すと、夜のマーケット街へと歩いていった。
※
――次の朝。
二人が宿から出ると、人だかりが出来ていた。
何があったのかと近寄ると、縞馬が首から下を地面に埋められ死亡していた。
首から下にはべったりと鮮血が放射状に飛び散っている。
カロスはその様子を見て愕然とした。
隣のカーンは冷静な様子でカロスに語る。
「やはり何か裏があったか」
カロスは縞馬の前で立ち尽くし、街の住人達は騒ぎ立てる。
「こんなに『治安』が良い街で珍しい」
「同じウマなのに残念だ」
「これは山羊の仕業に違いない、ウマがこんなことするなんてありえない」
警官が来て死体を処理すると、人々は何事も無かったかのように去っていく。
カロスは死体が運ばれるのを見届けた後、隣のカーンに尋ねた。
「これは何が起きたのかしら」
「恐らくは昨日の出来事が原因だろうな」
カロスはカーンの答えに眉をひそめた。
「ここは治安が良い街って彼は言っていたのに」
ショックが隠しきれないカロスを庇うように、カーンは答える。
「人々は何時でも見たいものしか見ようとしないものだ。
彼は人の噂を妄信するあまり、本当の言葉に耳を傾けなかったのかもしれないな」
馬たちは何時もと変わりない様子で市場で働いている。
指示を出すのは白い馬で、力仕事をするのは黒い牛だった。
「……行こう、我々がどうにかできる問題ではない」
「……」
カロスはカーンの背中に乗り、ウマの街を後にする。
すると、新聞の取材と思わしき集団がこちらに近寄って来た。
「こんにちは、旅人さん!この街は世界一治安が良いと評判なのですが、滞在してみてどうでしたか!?
良かったらエピソードを聞かせてください!」
張り付いた笑顔の馬面がカロスたちを取り囲む。
カロスは少し考えた後、こう答えた。
「素晴らしい街でした。肉料理がとても美味しかったです」