翡翠と牙
古来より翼をもち、空を飛ぶもの。
それを人は”鳥”と呼んだ。
『―――、』
凍えた風に痛みを覚えながら、彼女は飛翔する。
頭上には重い雲。
月は見えない。星々もまた厚い雲に覆われていた。
冬の終わり。
長く続いた冬の終わり、三月最初の夜。
例年よりも随分と遅れ、厳しい寒さとともに彼女はこの地へとやってきた。
―――否、それは正確ではない。正しく言うのなら”追い出された”というべきだろう。
かの地における彼女の役割はとうに終わっていた。役割を果たせないモノを、かの地の守り手が許すはずもない。
『――、』
彼女は視線を下ろす。
翡翠色の瞳が覗く。街の明かりは遠く、地上に灯る光は星のようだ。
ここは地上から遥か離れた空の上。
人の身では立ち入る事のできない聖域だ。
『――――』
ふと、声が聞こえた気がした。
視線を空から地に戻す。
しかしそこには誰もいない。ただ暗い闇があるだけだ。
……いや、違う。よく見るとそこには、
――塔。遥か上空を飛ぶ彼女からは米粒よりも小さい。
まるで豆粒のように小さな塔が見えた。
この街に塔があった覚えは無い。彼女は目を細め、その塔をじっと見つめる。
『――、』
ずきりと頭が痛む。
眼下から吹く強い風に痛みが増す。
『あ……』
それが合図であったかのように彼女の体は風に攫われる。
翼が風をはらむ。
一度の羽ばたきで、彼女は天空から遠ざかる。
『あ、――」
彼女はその塔へと、墜落する。
珈琲に溶ける砂糖のように彼女の純白の羽根は酷く、溶解する。
油断、失望、不安、恐れ。
様々なものが彼女の心を黒く染める。
『あ、あぁああああああ……!』
羽を散らしながら、彼女は夜の帳へと堕ちる。
悲鳴ととも落ちていく彼女の表情は恐怖に歪み、涙の粒をこぼしていた。
彼女の名はカロス=ルスキニア。
地に落ちれば勇を失う、しがない一羽の鳥である。
※
朝日の昇る時間と共に、彼女の瞼が開く。
危うく地面に激突し、九死に一生を得た体験をした彼女だったが、どうやら怪我無く身体は無事のようだった。
彼女が寝ていた場所には聖域が施されていた。
幾何学模様と術式が施された魔法陣が石畳に描かれたおり、それが彼女の着地の衝撃を緩めたのだろう。
一体誰がこんな高度な術式を……? 疑問は浮かぶばかりだが、まずは状況を整理することにした。
『……、』
彼女は瞼をこすりながら周囲を見渡す。
どうやらここは塔の中らしい。古くはあるが、しっかりした石造りだ。
彼女はその場から起立し、広場の真ん中まで歩く。
『あ……』
そこには小さな水飲み場があった。
朝日が昇り、水面はきらきらと輝きを放っている。
そして、彼女は本来あるべきものが無い事に気づく。
「……私の羽」
彼女の美しい白翼は失われ、大きく開いた背中には、火傷跡を思わせる痛々しい傷だけが残っていた。
カロスは状況から察するにこの塔に落ちた際、この塔に住む何者かの”仕業”により、その羽を失った、と考えた。
『……』
しかし、彼女はそれほど気に留める様子はない。
羽はまた時をかければ生やす事が出来る。ならば別に問題はない、そう考えたのだろう。
ふと彼女は地面に目を向ける。そこには一切れの羽根が落ちていた。
『……?』
それを拾い上げる彼女。
それはカロスにとって見慣れたもの、自分の翼から抜け落ちたものだ。
だが色は見慣れた純白ではなく、まるで炭のように黒くくすんでいる。
……いや、違う。
『黒い』。それは、己の一部ではない。傷による鮮血はあれど自身の翼はこんな色ではない。
『これは……一体誰の羽根?』
彼女は拾い上げたそれをまじまじと見つめる。
件の羽根は、まるで”獣の牙によって喰い毟られたような”形をしている。
この塔に住む何者かがカロスではない他の鳥人の翼をもぎ取り、この塔に捨てたのだろうか?
『――』
彼女はふと水飲み場に目を向ける。
規則的な石畳で構成された現場をよく見てみると、黒く滴り落ちる液体が地下へ降りる階段へと続いていた。
『……』
カロスはゆっくりとその階段を降りる。
その先にある扉を開き、部屋の中へと足を踏み入れた。
……そこには血だまりと、”炭化した獣の亡骸”があった。
『……これは』
カロスは獣に近づく。彼女はそれを知っている。
この獣は鳥人、即ち同族である。長年放置された亡骸が塔の地下に遺棄されていたのだ。
その悲惨な光景にカロスは嫌悪感を覚える。
「……また、馳走が来ようたか」
低く唸るような声が空間に響く。
カロスは警戒し、その声の主の方向に自身の爪を向ける。
鳥人の爪。長旅の休息のため、長時間不安定な枝葉に集うことの出来る強靭な握力を持つ、鳥人にとって最適な武器の一つである。
カロスは本能的に危機を感じ取り、野蛮な武器を取って相手に殺意を向ける。
それは朝露と果実くらいしか食べてこなかった彼女にとって、初めての経験だった。
「誰ですか?」
再び空間から唸り声が聞こえ、カロスの身体はより強張った。
しばらくして亡骸の山から、
「午餉に独り言を呟く趣味は無い」
自身の三倍はある体躯の獣が姿を現した。
「……!?」
その獣はカロスのよく知る姿、山犬に酷似していた。
だが、目つきは野生のものと比べるとより残忍で、牙はより鋭く、爪はまるで刀のようだった。
カロスの本能が告げる。こいつは危険だと。
『……貴方は何者ですか?』
その言葉に獣は少し目を見開き、彼女を凝視する。
そして目を細めながらこう返した。
「……臆せぬのか?」
カロスの瞳は真っすぐ大獣に向いている。
その姿を見た大獣は少し、困惑した様子だった。
「……まあいい、気まぐれに教えてやろう。
私はかつてこの地で”牙の王”と呼ばれていたものだ」
――牙の王。カロスは聞き覚えがあった。
かつてこの地の野山を支配し、時に神とすら崇められていた。
その伝承は一度走れば千里を超え、その牙は一噛みで大木をなぎ倒すとまで言われていた。
だが、そんな王が何故こんな塔の地下で……?
「……気まぐれは終わりだ、”ひな鳥”」
牙の王は唸る。その殺意はカロスに向けられる。
「我が贄として光栄に思うが良い」
――刹那、鋭い牙がカロスを襲う。彼女は咄嗟に腕でそれを受け止めようとする。
しかし、牙はいともたやすく腕を切り裂き、鮮血を散らす。
「……っ!」
とっさにカロスは致命傷を避けるため、体躯を捻り、牙を振りほどいた。
痛みに耐えながらカロスは後退し距離をとる。
だが彼女の腕はだらりと地面を指し、既に使い物にならなくなってしまった。
「ほう、まだ動けるか」
「その数々の骸、同胞をいくつ喰い殺した?」
牙の王は亡骸の山を一瞥する。
その視線の意味を理解し、カロスは怒張する。
「これ以上の狼藉は許さない」
「……お前たちが他の生物を喰い殺してないとでもいうのか?」
カロスは沈黙で返す。
「ふん、まあいい。どちらにせよ私の贄だ」
「……私は貴方の糧にはなりません」
「それはどうかな」
牙の王は再びカロスに飛び掛かる。その強靭な牙が彼女の身体を引き裂こうとする。
……が、その牙はカロスの肌を裂く事はなく、弾かれた。
「なに?」
「……王は貴方だけではありません」
カロスの翡翠色の瞳が輝き、周りに守護の魔法が展開されている。
彼女の、いや、”彼女たち”の美しい翼から抜け落ちた”白い羽根”が彼女の身を護ったのだ。
「……羽根の王」
「そう、私は羽根の王、真名をカロス=ルスキニア」
「ひな鳥ごときが!」
――羽根の王。
突如季節風に乗って現れ、世界各地に数々の豊作や繁栄をもたらすとされている。
その姿は未だ伝承にのみ語り継がれ、正体は未だ謎に包まれているという。
牙の王は幾度もカロスを襲う。その度に彼女は強靭な防壁で防御する。
「恐らく私に貴方を処す権利はない」
カロスはふと、手の中に握っていた羽根を見つめる。
それはかつての”ひな鳥”たちが持っていた白い羽根だった。
それを握りしめ、彼女は深呼吸した。
「だが、これは彼女たちの無念の為」
カロスは再び目をつむった。
彼女の周りに展開された魔法陣が強く輝く。
その輝きはやがて部屋全体を覆いつくし、そして……。
「――!」
牙の王とカロスの間に巨大な旋風が巻き起こり、
「ぐおおおお!!!」
牙の王はそれに弾かれ、部屋の奥に吹き飛ばされた。
※
「……貴方、真名は?」
白く輝く羽根で拘束された牙の王は弱弱しく答える。
「貴様も獲物の前で独り言を言う”たち”か?」
「質問に答えよ、牙の王」
牙の王はついに焼きが回ったと罰悪い様子で話し始める。
「……真名はカーン=デーヴァ。
一度狙った獲物は決して離さないとされる神の弓の意味だそうだ」
「……カーン。君はこの塔に閉じ込められているのだね?」
カーンは力なくにやりと口元を歪ませ、その答えを肯定した。
「我は本来、深森に身を窶すしか能のないしがない獣。
我々の種族はただ生きるために獲物を狩り、野山を駆け巡る。それが全てだった。
しかし何時ぞやか人々から畏れられるようになり、いつしか牙の王と呼ばれるようになった」
正直崇拝されることに悪い気はしなかった。
だが、畏れは時が経てば、敵視へと移り変わる。
人々は邪魔になった我を塔に封印したのだ。
「……そして塔には強力な魔術式が当てられ、我はその番人となった」
「この塔そのものが獲物をおびき寄せる為の罠、というわけか。
……人というのは何時もろくでもないことを考えるね」
贄を定期的に供給するための、おぞましいシステムだ。
そんな血なまぐさい術式を書いたのはどんな性悪なのだろうか。
カロスの憎しみは既にカーンからそのシステムを作り出した魔術師へと移っていた。
「牙の王、君を解放するには?」
「この塔の術式を描いた魔術師を探す事だ。さすれば呪縛は解かれ、我の本来の姿へと戻れるだろう。
だがその魔術師とやらは世界中どこにいるかも分からないし、すでにどこかで息絶えているかもしれぬな」
「……」
カロスはカーンに近づき手をかざす。
「……くくく、なるほど。手っ取り早い。獲物を狩った勝者として、我のこの命、奪うが良い。
……我の覚悟は既にできている」
カロスはカーンの牙にゆっくりと触る。
――そして。
「私たちは互いに得た骨や鉱石の装飾品を贈る文化があってな」
「?」
カロスはそっと手をかざすと、魔法陣がカロスの掌に展開される。
その輝きはやがてカーンの身体を優しく包み込み……。
「……これは、一体どういうことだ?」
カーンの身体にまとわりつく傷が消え去り、見る見るうちに体力が回復したのだ。
「私の……厳密に言えば私の一族に伝わる魔法だ。万物の生命力を回復し、闘争心を抑える。
そして……」
牙の王に生えていた大型の牙が二本とも抜け落ちた。
「相手の爪や牙……殺意のある武器を解除する。
……こうして私達は相手の牙や爪を得て、装飾品として得ていた。
相手をなるべく傷つけずにと心がけた先人の技術の賜物だ……」
牙の王はその告白に驚愕の表情を浮かべる。
「何故そのようなことをする?」
「その牙ではもう相手を襲う事は出来ない。
生きたいのならこのまま贄を狩る食生活を辞めるか、出来なければ餓死するまで同胞に祈るがいい」
カロスは大きな牙を拾いながら答える。
「これは同胞を喰らった君の罪滅ぼしだ」
カーンはその言葉に少しきょとんとした様子だったが、やがて大声で笑い出した。
「ふははは!貴様なかなか面白いな! 気に入ったぞ!
だが、貴様はどこからこの塔を脱出するつもりだ?
……もしや我と同じ運命を辿り、餓死する気か?」
牙の王は塔から見える朝日を見つめる。
その太陽はやがて地平線に沈み、夜が訪れるだろう。
「まさか。私はここから解放する。
……この”牙”と”羽根”がこの間違った”原罪”を破壊する」
カロスはカーンの牙と自身の髪の毛、散らばった枝葉を組み合わせて、頭飾りのようなものを作り出した。
そして、その頭飾りをカロスは自身の頭部に重ねた。
「なんだ? 祭事の真似事か?」
「真似事ではない。”祭事”そのものだ」
カロスはカーンに向き直り、そして……。
「この塔の番人よ、私はお前をここから解放する」
「――!」
その宣言と共にカロスの背中から翼が生え、輝きだした。
それはやがて塔全体を覆うように広がっていった。
「なんだ?何が起きている?」
「……”羽根の王”はその名の通り、白い羽根を自由自在に操ることが出来る。
そしてその白い羽根はあらゆるものを浄化し、清める力を持っている」
カロスは天に向かって大きく手を広げる。
彼女のその身体はみるみるうちに輝き、やがて塔の天井から差し込む光がカロスを包み込んだ。
「そして私はこの羽根の力と頭飾りで増幅した魔力を用いて、”この塔”の術式を消滅させる」
『――!』
白い光に包まれたカーンは目をつむる。
……しばらくして再び目を開くと、彼の目の前には青々とした草原が広がっていた。
「外……だ」
自身の出身とも重なる外の情景を久方ぶりに見たカーンの瞳は、ひどく潤むこととなり、
カロスはその様子を満足そうに見つめていた。
※
――夕刻。
「これからどうするつもりだ」
カーンはカロスに話しかける。
「元々旅の途中だったのでな、ここよりはるか先の東方の地へ向かう予定だ」
「ほう……、しかし羽根を失ったお前にそれが出来るのか?」
カロスの羽根は魔力を失い、また元の火傷したような跡の背中に戻ってしまっていた。
牙により傷ついた腕の傷も痛々しく包帯が巻かれており、万全とはいえない。
「魔力が戻れば、傷ついた身体は戻る。……だがあれほどの魔力を消費したんだ。
当分は自身の健脚に頼らねばならないね」
カーンはカロスのその話を聞くと、目の前に伏せて、合図する。
「……乗れと言っているのか?」
「貴様のお陰で我はもう獲物を狩れぬ。なら、一緒に旅路を共にし、見聞するのも悪くない。
……そう思っただけだ」
カロスはカーンの背中に飛び乗り、その身を預ける。
「では、暫しの間よろしく頼む」
「ふん……振り落とされるなよ」
そうして、彼らの旅は始まった。
羽根を失った王、そして牙を失った王。
彼らがどのように旅をし、そしてどのような結末を迎えたのか。
その記録は当人達ですら知る由もない……。