第1章1節 生命体襲来
校舎の屋上にチョークで線を引く。コンクリートの地面に白い線が映えた。
手に付いた粉を払い、傍に置いていた雑誌と見比べる。誌面に載った幾何学模様を再現するべく、さらに線を描き足した。
「これで良しっと」
時計の文字盤のような幾何学模様を組み合わせた図形が完成する。
ミステリー雑誌によれば、この記号で宇宙人にメッセージを送れるらしい。俺は信じているわけではないが、偽物でしたと断言するには一度やってみる必要がある。
チョークをケースに仕舞って立ち上がった時、屋上の扉がガチャリと開いた。
「ヒロ、昼休み終わる十分前」
「もうそんな時間か。あっという間だったな」
屋上に顔を出したクラスメイトの久我睦月が、扉を縛る鎖を片手に立っている。
俺より少し高い身長に、制服に包まれた細身の体躯には何重にも包帯が巻かれている。透けるような色素の薄い髪に白い肌、それを包む包帯の白が日差しの中に眩しい。中学時代からの友人である睦月は、ちらりと屋上のコンクリートに残された幾何学模様を一瞥した。
「それ、残して行くのか?」
「ああ、雨で消えるまでこのままにしておこう」
この高校の屋上は当然、立入禁止で扉に鎖が施してあった。事故防止の観点から施されていた鎖を、素手で破壊したのが睦月だ。おかげで屋上に自由に出入りできているが、繊細そうな見た目からは想像もできない剛腕には毎度目を見張る。
「ナスカの地上絵みたいだ」
「真上から見てないから、どのくらい綺麗に描けたか分からないけどな」
屋上を出て、ドアノブにチェーンを掛けた。チェーンに取り付けられた南京錠は、掛け金が折れた状態でチェーンに絡みついている。
壊れた南京錠はすっかり役目を放棄しているが、教師も他の生徒も、屋上の扉を開けようとはしない。南京錠は機能していると、見かけた人が勝手に思い込んでいるようだった。おかげで俺達は人目を気にすることなく、自由に屋上に出入りできている。
階段を下りて屋上から五階の廊下に合流すれば、昼休みも終わりに近付いているとあって人通りが減っていた。
「全く授業受ける気分じゃない……。せめて好きな時に受けられるようにならないものかね」
「なぐる?」
「なぐらない」
開きっぱなしの教室のドアを通り抜けると、数人の視線がこちらに集中した。
全員ではないにしても、クラスの何人かはこちらに不躾な眼差しを向けてくる。
「戻って来たよ、あの人」
「あのシダ屋敷に出入りしてるんでしょ? 怖いよね……」
この町は程々に田舎で、誰がどこに出入りしているなんて個人的な情報も出回りやすい。親の職業や勤務先、経済事情も流通しているので、プライバシーはあってないようなものだ。
「シダ屋敷の爺さんって、まだ生きてんの?」
「さあ? 出て来るところを見た人はいないって話だし、廃墟に宇田川が住み着いてるとか」
「あり得るよね、秘密基地とか言って住み着いてそう」
くすくすと笑う同級生の声は、ばっちり耳に入ってきた。
宇田川隆宏というのが俺の名前である。
シダ屋敷と呼ばれる廃墟じみたボロ屋敷は、曰くつきのスポットとして町の一部で有名だ。屋敷を覗き見た誰かが、そこで老人が宇宙人と交信する姿を見かけたという。
シダ爺の家は望遠鏡や天体に関する書物で溢れているし、一見して宇宙に興味のある趣味人だと分かる。あの老人は典型的な夜型人間なので、夜に見かけた恐怖も相まって、そんな噂が流れたのだろう。
ニッケルを含む隕石を英語でシダライトと呼ぶことが語源だとか、シダ植物が生い茂っているからだとか、あの屋敷がシダ屋敷と呼ばれるようになったきっかけは諸説ある。
一つ確かなのは、俺が小学生になる頃には、もうシダ屋敷と呼ばれていたということだ。
静かに宇宙の研究をしていたい爺さんからすれば、傍迷惑な話だろう。
「ヒロ――なぐる?」
「なぐらない。実際行ってんだから別に良いさ」
許可が下りないと分かれば、睦月は大人しく引き下がる。
俺も自分の席に着いて、チョークケースをカバンに入れた。
敵が多いのは昔からだ。そこに別の噂が加わったくらいで何も変わらない。
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学校からの帰り道にファストフード店もカラオケもない田舎道、一人で歩道の白線の上を歩く。コンビニくらいはあるが、時間を潰すほどの広さもないちっぽけな店舗だ。
春先の温い空気を受け、俺は両脇に河川敷の広がる道路を一人歩く。
睦月の家は逆方向のため、学校の帰りはいつも一人だ。
「ん……?」
道路を歩いていた俺の前に、ズルズルと何かが這って来る。
人が飛び出して来たのかと思ったが、逆光になったシルエットは不安定に歪んでいた。ゴポゴポと揺らめく人影は腕が異様に長く、手があるはずの部分に鍵爪が付いている。
異常性に気付いたのは、その異形まで約二メートルという位置に接近してからだった。
逆光だったのと、そんなものが現れるはずがないという先入観。
「何、だ……?」
全員が甲虫のように真っ黒で、太陽の光を反射して照っている。
人間で言えば顔に相当する場所に、目鼻は存在しなかった。鋭い牙に縁取られた大きな口があるだけ。
その口が俺の方に向いた直後、大きな口から透明な液体が溢れた。唾液、だろうか。
タチの悪いレプリカのようなそれは、名状しがたい叫び声を上げる。
「グルオォォォ――!」
金属同士を擦り合わせるような甲高い音。
耳を塞ぐ間もないままに、異形はこちらに突進して来た。
「ッ嘘だろ……」
下校時刻だというのに、通学路には俺以外に誰もいない。
真の恐怖を前にして脚がすくむ。宇宙人襲来のシミュレーションを何度していようと、本当の危機とは無縁に育ったせいで身体が追い付かない。
背を向けて全力疾走したって、すぐに追いつかれる。それが分かってしまうほどに速い。
大口から伸びた真っ赤な舌が、俺の頭部に向かって伸びて来る。
人間の舌のように唾液をまとった舌に、ぞわりと鳥肌が立った。ゴム製のレプリカのようなそれが、生き物らしさを覗かせる瞬間に震撼する。
食われる、と直感した。
逃げる余裕さえなく、呆気なく食われる最期が想像できてしまった。
強く目をつぶって、頭からバリバリと食われる瞬間を待つ。
覚悟を決めた俺の耳に届いたのは、ゴッという鈍い音だった。
いつまで経っても、想像していた痛みはやって来ない。痛みを感じる間もなく、恐怖で失神したまま死んだのだろうか。
だとしたら、格好悪い最期だったなと思ったりして――
「いつまで蹲ってるの、キミ」
明るく澄んだ声が耳朶を打ち、五感が消えていないことを悟る。
恐る恐る目蓋を開けた視界に飛び込んで来たのは、純銀を熔かしたような銀髪を背中に伸ばす天使の姿だった。
「とうとう死んだのか、俺……」
「死んでないと思うけど、こんな真っ昼間から酔っ払い?」
銀髪の天使が顔を歪める。
あの宝玉に似たマリンブルーの瞳が、みっともない俺の姿をはっきりと映し出していた。
「これだから辺境の惑星は……。なんでわたしが直々に来ないといけないの、こんな惑星」
心臓が止まるかと思うレベルで、可愛い女の子だった。
星屑が舞い散るように輝くプラチナの髪、澄み切った青い瞳。
現実離れした美しさと色合いに、日本語が通じているのが不思議な心地だった。
極めつけは一風変わった服装。メタリックなシルバーのクロップドジャケットに、ピンクのインナーが覗く。膝上丈のスカートはネオンピンクのラインで縁取られ、動きやすそうなブーツもゴツいデザインだった。この田舎ではお目にかかることのない奇抜な服装である。
精巧なお人形のような天使の後ろには、自分が先程までいた通学路の景色が広がっていた。死んだにしては鮮明に、春先の温い空気を肌で感じ取れる。
「さっきの怪物は」
「そこに転がってるよ」
細い指先の先で、先程の怪物が解体された状態で倒れていた。
頭部と胴体が真っ二つに割かれ、断面から黒い粘液がタールのように溢れている。日光に当たった液体は、泡を立てて蒸発した。
「何なんだ、この化け物」
「キミを襲うために誰かが送り込んだ人工生命体だね」
さっきまでの獰猛さはどこへやら、消えゆく黒い化け物。それが何であれ、人工生命体という呼び方にあまり良い気はしなかった。
「それは少し、悲しいな」
「こんな化け物が世に送り出されたことが?」
「そうじゃ、ない。人工生命体って言い方」
「正式名称はガングリオだけど、人工生命体とか化け物って言った方が分かりやすいでしょう」
銀髪の少女は冷ややかに、こちらを見下ろしていた。
ずっと低い視点からしか彼女を見ていなかったと気付き、地面に手を突いて立ち上がる。
「えっと、助けてくれた……ってことで良いんだよな? 助かった、ありがとう」
俺のお礼に対しても、彼女は素気なく返す。
「辺境地のちっぽけな生命体一つでも、今のキミが死んだらマズいからね」
「やけに大きい規模で話すんだな。生命体って……」
人でもなく生命体という呼ばれ方は、いかがなものか。
正面から見て気付いたが、銀色の髪からは淡く発光する触覚が伸びていた。針金のような棒の先に綺麗なスーパーボールをくっつけたようなデザイン。そういう形のカチューシャなんだろう、よく出来た作り物だ。
「でも、この辺りじゃ見かけない子だな。どこから来たんだ?」
銀髪の女の子がいるとなれば、一瞬で情報は広まるはずだ。
田舎町に現れた銀髪碧眼の美少女という情報を、与太話に飢えた住民は放っておかない。そんな物珍しい状況、拡散されるに決まっている。
町の外から来たんだろうなとアタリを付けている俺の前で、彼女はすっと胸に手を当てた。
「わたしの名前はソリス・プラメル、惑星プラメルから人探しに来た」
日本人にしては異質な名乗りと惑星という単語。
なるほど、そう来たか。
「この町に来たのは最近だな?」
「ついさっき降り立ったばっかりだよ」
「そうかそうか、最初に出会ったのが俺で良かったな」
閉鎖的な集落の宿命というべきか、この町は余所者に厳しい。
そして、余所者の次に宇宙に関係するものを忌避する。
「俺の名前は宇田川隆宏、親切な村人Aだ。村人としてアドバイスさせてもらうと、そういう設定は頭の中に留めておいた方が身の為なのだぞ」
「村じゃないから村人って言わないし、設定じゃないし! 人探しに来たのも本当!」
まくし立てる少女の動きに合わせて、頭部の触覚モドキが前後に揺れた。
「この辺りに青い宝玉が落ちて来なかった? さっきの人工生命体がキミを狙ったのは、その匂いを嗅ぎつけたからだと思うんだけど」
「青い宝玉……って」
カバンから掌サイズの青い玉を取り出す。いつか持ち主が名乗り出るまで持っていようと思い、持ち歩いていたものだ。
拾ったのが七年前で、それからずっと肌身離さず持っていた。
「やっぱり! それを目当てに人工生命体が地球に解き放たれたんだよ」
「落ちて来たのはもう七年も前だぞ。捜索隊を向かわせるには年月掛け過ぎじゃないか?」
「こっちとそっちでは時間の流れが違うんだから、仕方ないじゃない」
さも当然のように言われても、彼女の頭の中でどんな設定が構築されているのか知る由もない。何のSF小説を参考にしているのか、整合性の取れた設定ではある。
「悪くない設定だな。オカルト雑誌に投書でもしてみたらどうだ?」
「おめでたい頭してるんだね。これが設定で済んだら、どれほど良かったことか」
やれやれと銀髪の少女は頭を振る。それに合わせてスーパーボールに似た触覚がぽよんと揺れた。
「外でする話でもないから本拠地に来てもらっていい? キミが拾ったその宝玉について、説明しないといけない」
「時間はあるが……。この町で穏便に過ごしたければ、俺とは関わらない方が良いぞ」
「俺に触れると火傷するぜ、みたいなアレ? どこの惑星でも、そういうのはイタいよ?」
土地の事情を知らないからこそ出る言葉である。
知らずに地雷を踏んで、過ごしにくくなってからでは遅い。けれど、知らなければ知らないに越したことはないとも思う。他所から来た人に、この町の世間体を説くのは下世話だ。
「見ず知らずの人について行くのは、ちょっと……誘拐とか怖いし……」
「そこの化け物について、知りたいとは思わないの? わたしにも説明義務があるんだよ」
アブダクションとやらは分からないけど、と少女は頬を膨らませる。
化け物は断面からタール状の粘液を垂らし、全身が液体と化して消滅し始めていた。生命活動を停止したら、地面に溶け込んで消えるようだ。人工生命体と呼ばれたそれは完全に消え去り、後には骨も残らない。