夢のくにから、君へ
※本作には、死や喪失を含む繊細なテーマが描かれています。人によって受け取り方は違うと思いますが……まぁ、ご自分で自衛してくださいまし。
15歳以上推奨。
それでも、私は生きて行く。
轟々と、炎が彼を包み込む音が、耳に染み付いていた。
随分と小さくなった彼は、とても軽くて、まるで現実味がなかった。
骨壷を抱いた腕は、今までで一番しっかりしていた。
彼を呆然と見下ろす。何度も何度も瞬きをした。
涙は、一滴も出なかった。けれど、目を瞑ると、何処かから聞こえてくる慟哭が私の耳を劈いた。
まるで、鼓膜が破れたみたいに耳の奥でずっと高い音が聞こえ続けている。私の耳は、もう誰の声も拾ってくれなかった。
目に映るものは全て、薄い膜がかかったようにぼやけていた。
まるで世界が私からフェードアウトしていくようだった。
私の目には、もう誰も映らなかった。
恐怖を抱くべきなのだろうが、私は興味も何も持つことが出来なかった。
____壊れるなら、壊れてしまえ
私は、彼を奪ったこの世界は酷く息苦しい。
誰かが名前を呼んでいる気がした。でも、それが私の名前かどうかも、分からなかった。
その刹那、私の耳は完全に聞こえなくなった。
耳鳴りも、何も聞こえないはずなのに、耳の奥でずっと何かが燃えていた。
目を瞑ればあの炎が、はっきりと、鮮明に。こちらをぽっかり空いた穴から睨み付けていた。
触れるものすべてが、灰色に見えた。色彩はもう、私の目には映らなかった。
それなのに、彼の瞳の色は鮮明に色付いていた。
骨壷に触れる度に、輝いていて、パチパチと、まるで花火みたい弾けて、すぐに消えていった。
彼がいた世界は、もう燃え尽きてしまった。
ゆっくりと、目を閉じた。
このまま、私も炎に包まれて、灰になりたかった。
▷▷▷▷
気がついた時には、私は彼の部屋の中心部に立っていた。周りには、彼との思い出が詰まった物と、私の知らない、誰かとの時間が壊れ、散乱していた。
それを見ても、何の感情も湧かなかった。
未練は、ない。そう言い聞かせるしかなかった。
でなければ、私は前に進めない。後ろも見れない。
なのに、この部屋に真っ直ぐに足が向かったことは、はっきりと覚えている。
きっと、「私は彼が帰ってくるのではないか。」と、心のどこかで願っていた。
彼がまだ、この雪の中みたいに寒い部屋で、待っている気がした。
彼の部屋は、まるで地面の中のように窮屈に感じられた。
___息苦しい
心底、そう思った。
途端に呼吸ができなくなった。鯉みたいに、口をパクパクと動かして、酸素を取り込もうとした。
段々と、体から力が抜けて、膝を付いた。
大きな心臓の鼓動音が頭に響いている。
穴という穴から、ドライアイスみたいに冷たい変な汗が吹き出して、そのまま頬を伝って下に落ちた。
動けなかった。骨壺を抱いたまま、私はその場に座り込んだ。
一体何時までそうしていただろうか。カーテンの隙間から太陽の光が差し込んでいることに気が付いた。
私は、まだ体に残っていた力を抜いて、その場に倒れ込む。
灯りもつけず、カーテンも開けず、時計の針が止まったこの部屋の空気が冷えていくのをただ感じながら、私は静かに失明した。
世界が止まったようだった。
手を伸ばして、辛うじて、近くに落ちていた彼の服をぐしゃぐしゃに握り締めた。
私は、その服に顔を埋めた。
バニラ系の匂いだった。
(あ、まだこの香水使ってたんだ。)
その匂いが、私のなかの最後の何かを緩やかに溶かしていく。
(愛してる)
その言葉を、口の中で噛んで呑み込んだ。
▷▷▷▷
辺りが徐々に暗く、静かになっていく。
静寂に包まれた部屋では、耳に染み付いた耳鳴りが、私の心を殺していく。
ゆっくりと、二酸化炭素を吐く。
不意に、真っ暗な世界に光る何かが見えた。
私は体を起こし、縋るように手を伸ばす。
その指先が触れたのは、四角くて、冷たい何かだった。
指先を使い、こちら側に手繰り寄せる。
四角いそれは、真っ黒な写真だった。
何も見えなかった。
それでも私は、ソレに縋るように胸に抱いた。
___それでようやく、私は酸素を吸った。
▷▷▷▷
ずっとずっと、ソレを真っ暗な世界で見詰めていた。
徐々に辺りが明るくなっていく。また、朝が来たらしい。
柔らかな朝日が彼の部屋を優しく包むように差し込む。
ソレが、まるで祝福されているかのように、一直線で照らされた。
____写真は、まるでノイズが走っているかのようで、まるで見えなかった。
ぐちゃぐちゃだった。顔も、体も、背景も。全てが混ざっていて気持ちが悪かった。
辛うじて、輪郭がぼんやりではあるが、目で追えた。誰かの顔写真だろうと結論付けた。
(そういえば…彼、写真嫌いだったな)
彼の写真は両手で数えられるほどしかない。
……まぁ、全部私が破り捨ててしまったと思うが。
それでも、この写真を、まだ捨てていない。
それこそが、愛だと誰かが言ったとしても。
私には、もう聞こえない。
ここは、私と彼だけの世界。
それでいい。それだけでいい。
ぐぅ、と呑気なお腹の音が静寂な部屋に小さく響いた。
そう言えば、ずっと何も食べていなかった。
食べなければ、人は死んでしまう。
____まぁ、どうでもいいや。
もう一度、写真をちゃんと胸に抱く。
目を閉じた。
(もう二度と、酸素のない世界で私を生かさないで)
祈りは、まだ届かないが。
▷▷▷▷
頭がふわふわ、夢見心地。
地に足が付かなくて、宙ぶらりん。
ぐらぐらと揺れる、体。
変な液体が、彼の体を伝って滴った。
地面に小さな水溜まり。
濁った瞳は、まるで死んだ魚の目!
▷▷▷▷
大きく息を吸って噎せた拍子に飛び起きた。
心臓が激しく脈打っている。
胸を痛すぎるほどに抑え付けてゆっくりと、横になる。
ぐらり、と視界が傾ぐ。
体を動かすのが、まるで他人のそれみたいで不気味に思えた。
「……ああ、私、まだ生きてるんだ」
そう呟いたはずなのに、声は耳に届かなかった。
今でも覚えている。
ぬるい液体が、頬を伝って彼の頬に落ちる。
覚えている。
彼の肌はもう冷たく、石のようだった。
その目はもう私を映さず、まるで……まるで、死んだ魚の目みたいだった。
____だけど、
あまりにも現実離れしていて、綺麗だった。
また、目を閉じた。
(このまま、これと一緒に……)
祈りは、届いた。
▷▷▷▶
しん、とした部屋に、冷たい空気が張り詰めていた。
私は、体を動かすことが出来なかった。
まるで、人形にでもなった気分だ。
カチ、カチ、カチ。
止まっていた時計が、幻のように時間を刻む音を鳴らしている気がした。
目を瞑る。時計の音が、頭の中で乱反射している。
その時だった。
___カチャ。
小さく、けれどこの空間にはあまりに大きく響く音。
世界から、一瞬で音が消えた。
変な汗が背中に流れた。
玄関の鍵が回る。錆びた金属が擦れる音が、遠くで聞こえた。
次いで、ギィ……と、軋むような扉の音。
風が、光がそっと入り込んだ。
まるで、世界がひとつ息を吸い込んだかのように、部屋の空気が微かに揺れた。
私は、確かめるように大きく息を吸った。
肺が、軋む。
思い出したように胸が痛んだ。まるで今、初めて呼吸というものをしたかのように。
息の音が、異様に大きく聞こえる。
部屋の静けさに、自分の鼓動が打ち付けられているようだった。
(まさか…そんなはず、ない)
自傷気味な笑みが、引き攣った顔から落ちた。指先が冷たい。けれど、心臓の奥だけが、嫌に熱い。
こんな音、何度も夢で聞いた。
あの人が帰ってくる音。
もういないと知っているくせに、耳が勝手に幻を聞いたのか。
夢でも見ているのではないか。
それとも。
(本当に、帰ってきたのかもしれない)
そんなわけがない。
そんなわけがあってたまるか!!
私の世界はあの時確かに終わったというのに!!
なのに、胸の奥がじわじわと焼けるように疼いた。
その熱は、私を酷く蝕む。
私に夢を見せてくる。
私は、ゆっくりと目を開けた。
▷▷▶▶
その音を、彼女は聞いたはずなのに反応しなかった。
彼女は、ドアの隙間から差し込む光に、眩しげに目を細めていたからだ。
静かに、ゆっくりと。扉が動く。
確かに、誰かが帰ってきた。
彼女は、薄ら笑いを浮かべた。
▷▷▶▶
___「ただいま」
その言葉ひとつで、止まっていた世界が軋み始めた。
心臓が跳ねる。私は、息を吸うのも忘れていた。
彼が、目の前に立っていた。あの時のままだった。
「おやすみ」と声を掛けあった、あの夜と。
違うのは、着ている服だけ。
彼に似合わない、真っ白で、恐ろしいほど、無表情な___死装束のような着物。
ああ、やっぱり彼は、笑ってしまうほど冗談が下手くそだ。
でも、それもほんの些細なことなのだと思う。
玄関の扉が開く音と同時に、彼の部屋のドアが軋んだのだから。
そんなこと、普通はありえない。現実的じゃない。
廊下を歩く音もなかった。靴を脱ぐ音も。
まるで、家の構造そのものが書き換えられて、最初から玄関がこの部屋だったみたいに、彼は私を見下ろしていた。
まるで、彼のために世界が作り替えられたみたいだと思った。
だから、どうした?
どれだけ現実離れしていても、彼はこうして帰ってきてくれた。それだけが、それだけでいい。
私は彼に「おかえり」と手を伸ばした。
多分、私は今、世界で一番しあわせそうな顔をしているのだと思う。
彼の呆れ顔がそう教えてくれている。
私はその顔を目に焼きつける。もう二度と、掠れてしまわないように。
▷▶▶▶
美味しそうな、焼きたてのパンの匂いが、鼻をついた。
ぐぅ、と呑気なお腹の音が静かだが、暖かな部屋に響く。
もぞもぞと体を動かし、なんとか布団から履いでる。
大きな欠伸をひとつ零した。そのせいで、目がじんわりと濡れた。まだ眠い眼を擦りながら、ベットの上で彼の名を呼んだ。
彼の足音が、微かに一階の方から聞こえてきた。急いでいるのだろう、次第にバタバタと大きな足音を立てていた。
彼の悪い癖だ。私の知ってる癖。
私はこの幸せに頬を緩ませ、枕に顔を埋め、足をバタバタと動かした。
暫くしてから、ドンッ!と、扉が勢いよく押し開けられた。
閉め忘れたのかと思うほどの大きな音が静かな部屋に響き渡る。
足音も雑で、どうにも慌てている様子が伝わってきた。
若干肩を上下させている彼を見ていると、何だか可笑しくて声を上げて笑った。
彼は、「もう!」と言わんばかりに眉を下げ、「怒っていますよ」とアピールしてきた。
それも、何だか懐かしくて、涙が出るほど笑ってしまった。
呆れたような顔をしながら、腕を組む彼の姿が目に入り、少しずつ表情から笑顔が消えていく。
そして、こほん。と態とらしい咳払いをした。
「ごめんごめん。」
そう言いつつ、私は彼に両の手を伸ばした。
何故か、体が酷く重たくて動くことが出来なかったからだ。頭もすぐにボーッとしてしまう。上手く思考が回らないのだ。
ただでさえ、私は自分でも断言してしまうほど、鈍臭いというのに。
彼は、仕方ないなあとでも言うように小さく笑って、すぐ傍まで歩いてきた。
口だけを動かして、何かを言っていた。だが、私にはそれは聞こえなかった。私の耳では、それは拾えない。
だが、きっと冗談を言っているに違いがない。
彼の手が、私の額に触れる。
彼の顔の輪郭が、少しブレた。
いつもよりもずっとひんやりとしているのに、心地よくて。 私はその温度に、ふと涙が零れそうになる。
彼は暫く、優しい瞳で私を見詰めていたが、不意に口を上下に動かした。
囁かれたその言葉は、やはり私には聞こえなかった。
何か言おうとしたが、声が出ない。 手も、指先さえも動かない。指先にまるで全身の熱が集まっているみたいに熱かった。少しずつ、指先から熱が逃げていく。
ただ、私は目を細めて、彼を見つめた。
(嘘つき)
その言葉だけを、胸の奥で何度も、何度も繰り返す。
(もう、勝手に帰ったら駄目だからね。)
ゆっくりと、手を動かして、石みたいに冷たくて、硬くなっている彼を抱きしめた。
___私の温もりで、貴方を温めてあげたかった。
▷▷▷▷
日々は、目まぐるしく動いていく。私だけが、あの夜に取り残されている。
呆然と、彼の死を見詰めていたあの日。
濁った目が私の方に向いた時、私の時間は確かに止まった。
私は、彼が居なければ歳をとることもなければ、息をすることすら儘ならない。
彼が、私を生かし続けていた。
彼だけが、私の全てであり、日常であった。
▶▶▶▶
焦げたパンは、思っていたよりも、苦くはなかったとも思う。
冷めきったスープは、味がしなかった。
ちらり、と彼の方を見る。
彼は朝食に手は付けずに、嬉しそうに笑いながら、私を見ていた。
彼はやっぱり昔から変わっていた。
彼は温かいスープよりも冷えきったスープの方が好きだった。
彼の焼いたパンは、何時も焦げていて、日によっては、真っ黒になっていることも少なくなかった。
(懐かしいなぁ)
パンに視線を落とすと、パンは丸焦げになっていた。
思わず、パンを落としそうになった。
私は、彼に顔を向けて、にっこりと笑う。
「美味しいね」
声をかけた。彼はやはり、にこにこと笑うばかりであった。
▷▷▷▷
私は、彼と一緒に過ごした日々のすべてを、まだ鮮明に覚えていたかった。
朝、先に目覚めていた彼が淹れる珈琲の匂い。
帰り道、つないだ手の温度。
夜、どちらからともなく始まるどうでもいい話。
そういうどうでもいいことが、私にとっては全てだった。
彼の声が思い出せなくなってきた。
どんな声で、私を呼んでいた?
どんな顔で、私を見ていた?
どんな笑顔で、私を呼んでいた?
思い出せない、思い出せない。記憶がどんどん掠れて消えていく。恐ろしい、ああ。
(彼が世界から消えた日のことだけは、ずっと繰り返し夢に見るというのに、)
こんな、非現実的な場面を覚え続けていたくない。
せめて、せめて夢だけでいいから彼との普通の生活をさせてよ。
どうしても、そこだけが終わらないの。
どうしても、そこだけが、私を現実から引き剥がすの。
夢でしょう?夢なら、私の好きにさせてよ。
私は、あの夜に暮らし続けているの。
私は、あの夜に壊され続けているの。
それなのに、世界は私に構わずに朝を迎え続けている。
私だけをそこに取り残して。
……
きっと、彼は帰ってくる。帰ってくるに、違いがない。
だから、君のお気に入りのコップも、ちゃんと食卓に並べているよ。
最近、君が好きだった料理ばっかり食べている気がするなぁ。
君が好きだった音楽も、何度も聴いたよ。今なら、沢山語れるよ。
君が好きだった映画、続編やるんだって。また一緒に、一から見ようよ。
君が好んで着ていた服、よれよれだね。洗濯しておくね。
君の残り香が微かに残ったベットも、君の少し散らかった部屋も、前に片付けたら喧嘩になってしまったから、全部そのままにしているよ。
はやく、かえってきて。
▶▶▶▶
彼が好きだった映画を、ソファーに並んで二人で見る。
映画は、全部白黒の曖昧で、あまり面白くなかった。
私は、この映画の良さがあまり分からなかった。
多分、本当にどうでもよかったんだと思う。
だって、私にとっての見どころはずっと、隣に座っている彼だったから。
だから、映画の印象が薄くなって、思い出せないのは仕方の無いことである。
映し出される白黒のフィルムのなかで、唯一、色を持っていたのは彼の表情だった。
部屋の全てに色がないのに、彼だけが鮮明に、はっきりと色濃く色がついていて、眩しかった。
時折口元を緩めて、楽しそうに笑っている。
感情が動くたび、まるで子供のように素直に反応する。
目がキラキラと輝いて、パチパチと花火みたいに弾けていて、どうしようもないほどに綺麗だった。
私は、それをずっと目に焼きつけていたかった。
この顔が見たくて、私は彼に「映画、一緒に見ようよ」、そう言って、ずっと誘ってきた。
貴方の弾ける表情が、何よりも好きだったから。
映画の音なんて、何一つ覚えていない。映画の音は、あの時の私にとって、雑音に過ぎない。
ただ、彼の吐息と鼓動だけが、耳の奥で今でも鳴っている。
この瞬間を、閉じ込めたかった。
時間が流れてしまわないように。
この温もりが、風化してしまわないように。
でも、思い出というのは、時々とても残酷だ。
肝心なものから、最初に掠れていく。
彼の横顔だけは、何度も何度もなぞったから、まだ輪郭が残っている気がするのに、声も、仕草も、目の色さえも、少しずつ曖昧になっていく。
私はそっと、隣のソファに手を伸ばした。
____やっぱり、その手には触れることが出来なかった。
彼の零した言葉は、一門一句も聞き逃したくないというのに、私の耳は、彼の音を拾うことはなかった。
彼は確かに、なにかを言っていた。
唇が、静かに形を作っていた。私の知らない言葉じゃない。何度も、聞いたはずの。なんて言っていたっけ。思い出せない。わからない。
思い出せないから、それは音として届かなかった。
(何を言ったの)
そう願っても、もう一度の再生は叶わない。
彼は、ただ、微笑むだけだった。
私はその表情を、必死に目に焼きつける。
声が聞こえないなら、せめてこの顔だけは忘れたくなかった。
だけどきっと、いつか、全部薄れて消えていく。
色が抜けていく。線がぼやけていく。感情さえ、風のように飛んでいく。
____だから、私は手を伸ばし続ける。
触れられなくてもいい。ただ、忘れたくないから。
彼がそこにいてくれたこと。
私が、確かに愛していたこと。
そして、彼もまた、きっと、私を愛してくれていたこと。
耳がそれを忘れても、この手はきっと、覚えている。
この温もりが、確かに存在していたことを。
▷▷▷▷
真っ白な服に身を包んだ彼は、思った以上に似合っていなかった。
彼は、どちらかと言うと黒い服が似合う。
だからこそ、純白の死装束は、どうしようもないほど彼には似合っていなかった。
花に囲まれた姿は、笑ってしまうほど似合わなかったし、棺桶に詰められている姿は、窮屈そうに見えた。
彼のことだから、「寝心地が悪い」って真顔で抗議してくるに違いがない。
ほら、待っているから、早く抗議しに来てよ。
▶▶▶▶
最近、彼の顔が歪んで見えるようになった。
輪郭が上手く合わない、と言えば良いのだろうか。
ぼやけていて、まるで幻のようだった。
それがまるで、世界が、彼の存在を否定しているかのようだった。
世界が彼の存在を曖昧にしていくたび、私はそれを必死でなぞった。
覚えていたい。忘れてしまえば、きっと本当にいなくなってしまう気がして。
けれど、世界は。私が彼に触れることを許してはくれなかった。
彼に触れようとする度に、私の手は空を切る。
まるで、今目の前にいる彼が、幻とでも言っているようだった。
ある日、子供が突然現れた。
化生のように、忽然と生まれた。
顔がぐちゃぐちゃに歪んでいて輪郭すらも識別が不可能だった。
だけど、この子は私と彼の子だと本能的に理解した。
私は、このぐちゃぐちゃの子供の頬に手を当てる。
輪郭が掴めない。柔らかいのに、冷たい。暑いような気もするし、何も無いような気もする。
何かを言おうとしたが、言葉が喉の奥で泡になって消えた。
「……きみは、だれ」
何とかして声を絞り出した。掠れた声だった。
水を求めた声だった。
子供は何も答えなかった。ただ、そこにいた。
ただ、私の手に擦り寄っていた、と思う。
子供が、私を見た。
それだけで、私は全てを信じてしまった。
▷▷▷▷
「おかえり」「ただいま」
「おはよう」「おやすみ」
「あいしてるよ」「俺も。」
今思えば、彼は一度も私に「愛してる」と言ってくれたことがなかった。
好きだとも、言ってくれた覚えがなかった。
ねぇ、あなたにとって私は、なんだったの。
私は、彼の声を思い出そうとする。 名前を呼ばれた記憶がある気がする。ある気がするだけ。
私の名前、呼んでくれたことあったっけ。
いや、そもそも私、彼の名前呼んだことあった?
いつもなんて呼んでいた?
思い出せない。わからない。
記録にも、手紙にも、名前はなかった。私のものも、彼のものも。
……
「愛してる」なんて、きっとドラマの台詞でしか聞いたことがない。
じゃあ、何があったんだろう。
(私たちの間に、確かに存在していたはずの、あの時間は何なんだろう)
___きっと私は、彼の空白に、自分の形を押し付けていたんだ。
全身の水が抜けていく。
乾いた喉からは、到底人が出せるとは思えない声が聞こえた。
私は、彼を愛していた。きっと、愛されていたと信じたかった。
でも、それは私がそう思い込みたかっただけなのかもしれない。
__それでもいいと、思ってしまう私がいる。
名前も、声も、言葉も、触れられなくなった手も。
それでも、私の中には彼がいた。
それだけが、私を生かしてくれた。
彼の隣に添えられたカーネーションを撫でた。
やっぱり、君には花も白も似合わない。
似合わないものばかりに囲まれて、君は今も、静かに眠ってる。
私は、今日も君の声を思い出せないまま、名前を呼べずにいる。
それでも、君を愛してる。
たとえ、それが全部、私の脳が見せた嘘だったとしても。
結局私は、曖昧で不安定で、あったかもわからないこの関係に縋っているのだから。
ねぇ、ばかみたいでしょう?
ねぇ、本当に、ばかみたいだよね?
▶▶▶▶
子供が、私の手を引いた。
現実の感触じゃなかった。
けれど、それでも私の体は、その手を握り返した。
子供の手を見た。
やっぱり、認識ができなかった。
小さい気もするし、大人ぐらいの大きさなような気もする。
五歳ぐらいの手かと思えば、八十代ぐらいの、しわくちゃな手に見える。
「どこへ行くの?」
私は問う。子供は何も答えない。
ただ黙って私の手を痛いくらいに強く引く。
何がしたいんだろうか。とぼんやりと思って、されど抵抗せずに子供の好きなようにさせる。
子供は、彼の部屋の前まで私を連れてきた。
子供は私の手を引いたまま部屋の扉を開けた。
____突き刺すような光が、私を包んだ。
そして、目に飛び込んできた光景に絶句した。
「……公園…?」
公園だった。昔、彼とよく遊んだ公園。
ままごと、鬼ごっこ、隠れんぼ。
上げたらキリがないほど、たくさんたくさん遊んだ場所。
家が数軒建てれそうなほど大きな公園だと、子供の頃の私は信じて疑わなかった。
けれど今、目の前に広がっているそれは、あんなに広かったはずなのに、妙に狭く感じた。
ブランコの軋む音。砂場の端に埋もれたプラスチックのスコップ。枯れた草。
見慣れたはずの風景が、どこか違っていた。
まるで絵の具で塗り直されたような、薄ぼんやりとした違和感。
色とりどりの公園には不似合いな、白黒の領域がぽつぽつと混ざっていた。
そこには何があったのか、思い出せない。まるでノイズが走っているみたいに。
知っているようで、知らない場所。
けれど私は、はっきりとわかっている。
この公園には、確かに私と彼だけの笑い声が残っている。
私は、その声を探すように、視線を彷徨わせた。
▷▷▷▷
彼を焼いた日。
何となく、寄り道をして帰った。
彼がいない世界を歩くのに、どうしても彼がいた場所を通らずにいられなかった。
過去のどこかに、彼がまだ笑っているような気がしていた。
彼と一緒によく食べた駄菓子が売っていた、更地の場所。
あの橋の下で、彼とよく競争した水切り。彼が何故だか妙に上手くて、毎回私は負けて悔しい思いをしていた。
……そして、彼と私が初めて会った公園。
どうして出会ったかなんてもう覚えていないけど。
確かに、私は彼とここで出会って、一緒に遊んでいた。
女の子が良くするような、ままごとだって。
彼は、私よりも楽しそうに遊んでくれた。
ブランコ、滑り台。昔は巨大なものに見えて、とても恐ろしかった。
砂場は、どこまでも広がっていそうで行くのが怖くて、他の子が遊んでいる姿を遠くから眺めていた。
そんな時、よく彼は私の手を引いてくれた。
怖い怖いと泣く私をからかいながら、しっかり手を繋いで歩いてくれた。
ゆっくりと公園を見渡しながら、思い出をなぞっていく。
ある場所で、足を止めた。
「ブランコだ」
私はブランコの前に立つ。
思ったよりも小さくて、低くて、ただの鉄と板の塊だった。
多分、ここで彼と出会った場所。
ブランコを指先でなぞった。
ヒンヤリしていて、心地が良かった。
ふと、子供の声がして振り返った。
男の子と、女の子が仲良さげに遊んでいた。
まるで、私と彼の思い出をなぞるように。
そして、決まって彼は言うんだ。
「(大きくなったら、結婚しよう!)」
ガツン、と殴られたかのような強い衝撃。
心臓が、破裂してしまいそうなぐらい大きく鼓動する。
私は、堪らず逃げ出した。
息が切れて、上手く酸素が回らず頭がぐらぐらしても、足が引きちぎれそうなほど痛くても、走って、走って走って。
気がついたら、彼の部屋の中心に立っていた。
▶▶▶▷
太陽の、私だけを無視して、地面を刺すような光があまりにも眩しくて。
私は太陽を左手で隠した。
ふと、左手の薬指が光を反射した。
びっくりして、薬指を凝視する。
「ゆ…びわ、?」
指輪だった。彼が私に渡したただの鉄くず!!
ああ!!ああ!!!!なんということだ。
彼は、私を、ここでも選ばない!!
体の力が抜けて、その場にぺたりと崩れ落ちた。
乾いた笑いが絶えず、まるで水のように湧き上がってくる。
いつの間にか、公園はリビングになっていた。
私の手を引いてくれた子供は、もう居なかった。
彼が、足音もなく私の前に現れる。
私は、彼を睨みつけた。
彼は、そんな私が見えていないように、私が好きだった笑顔で私に笑いかける。
そして、今までで一番ぐちゃぐちゃに歪んだ顔をして、最早彼の面影すらない私との時間に成れ果てて。
「愛してる」
私を、見た。
ああ、なんて、愛しい人!!
愛してる、この世の誰よりも!!!
▷▷▷▷
目が覚めた。
私は彼の部屋の中心で横たわっていた。
時計の動く音が静寂に包まれた部屋に響いていた。
どれくらい眠っていたかなんてわからない。
頭がぼんやりしている。
ふと、胸に抱いていた写真を見た。
額縁に張ってあったガラスに蜘蛛の巣状のヒビが入っていた。
じっと見詰めて、ピントを合わす。
くしゃくしゃになった写真の中の私と目が合った。
優しい太陽の光が、まるで二人を祝福するかのように包み込んでいる写真。
幼い彼と、幼い私。
何も知らずに無邪気に笑う私と彼の、唯一残っている写真。
私の左手の薬指には、可愛らしい花が巻き付けられていた。
柔らかな、花。
私が欲しかった物。
ぐぅ、とお腹が呑気な音を立てた。
私は、骨壷と写真をその辺に置いて、ゆっくりと立ち上がる。
静かに台所に立ち、彼が好きだった朝食を作る。
微かに焦げたトースト、覚めたスープ。コーヒー。
……いいや、私は。
丁度いい焼き加減のトースト、温かいスープ。牛乳。
それを、一人きりではあまりにも広い食卓に並べて、手を合わせる。
久し振りに食べるトーストは、焼き加減が絶妙で美味しく感じた。
温かいスープは、私の冷えきった体を温めた。
食べ終わったお皿を洗って、乾燥機にかける。
そして、ふかふかなソファーにはしたないけど、大きく座って、テレビをつけた。
そのまま、私が好きだった映画を見る。
映画を見終われば、目を瞑ってその余韻に浸る。
ねぇ、私ちゃんと生きれるよ。
君の愛に、生かされ続けていたかった。
それを失ってから、私はずっと、呼吸ができなかった。
君のせいで、私の心臓は今も止まったままだけど。
それでも、私は。
君の愛に、何時までも溺れていたかった。