第39話 虚無へ堕つ、平行なる魂
世界を隔てる境界線――それは決して交わらぬはずの道。
だが、禁忌に触れしとき、結晶は真実を映し、魂は虚無へと堕ちる。
彼女が覗き見たのは、もう一人の「私」。
その瞬間から、抗えぬ運命の歯車は音を立てて回り出す……。
平行線世界のみさきの映像は、
「なんで……私ばっかりこんな目に……」
「私だけ……なんでこんなに苦しいの……」
といった言葉を繰り返す場面が多かった。
その思いは独り言として口にされることもあれば、日記に書き留められることもあり、そうして少しずつ発散していたようだった。
仕事で厳しい言葉をかけられ、涙をこぼしながら、彼女は呟く。
「……あの人の方が私より酷いのに、どうして何も言われないの……」
平行線世界のみさきは、そうした不公平さに強く傷つき、心をすり減らしていた。
けれど今の自分は違う。鈍感なせいか、むしろはっきり言われた方が助かることもあると考えていた。
――同じ状況でも、受け止め方はこれほどまでに違っていた。
辛いことがあると、彼女は部屋の隅にうずくまり、泣きながら思いつくままに紙へ走り書きをしていた。
だがこの日は、書く紙が尽きていたのだろう。代わりに手に取ったのは――設定ノォト。
そこに、彼女はただ一言だけを書き殴っていた。
『助けて』
その文字を見た瞬間、みさきは息を呑む。
(……私が祠で拾ったノォトの切れ端は、これだったんだ)
そんなことを考えていると、突如として父親とみさきが口論する場面が映し出された。
このときの父親はすでに高齢であり、力だけなら平行線世界のみさきの方が勝っていただろう。
――だが、長年浴びせられてきた暴力の記憶は、肉体よりも深く彼女を縛りつけていた。
「殺すぞぉ! こらぁ!」
荒々しい声と共に拳が振り上げられた瞬間、体は反射的に震え上がり、彼女の足も手も凍りついたように動かなくなる。
父親が実のところ口だけの小心者だと気づいたのは、いつの頃だっただろうか。
思えば、彼もまた何かに押し潰されていたのかもしれない。
やがて怒鳴り声は途切れ、最後にドアを叩きつける音だけを残して、姿を消した。
「あいつの借金のせいで、お母さんも私も苦しんでるのに……あいつのせいで……」
平行線世界のみさきは真顔のままそう呟き、震える手で包丁を握りしめていた。
その光景が映し出された瞬間、胸の奥から堰を切ったように叫びが溢れ出す。
(やめて! それだけは――絶対に!)
声にした覚えはなかった。
けれど、その強烈な拒絶の思いは抑えきれず、意識を突き破って結晶の向こうへと流れ込んでいった。
「……え?」
平行線世界のみさきが、ピタリと動きを止める。
驚いたように辺りを見回し、手にしていた包丁がカランと床に落ちた。
「だれ……? いま……声がした……」
震える声が、確かにこちらへ届いてきた。
俯瞰しているはずなのに、映像の中のみさきの瞳が――まるでこちらを探しているかのように揺れている。
そのとき、後ろで「あーあ」と、ため息混じりの声がした気がした。
振り返る間もなく、映像の彼女がゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。
みさきは驚くよりも先に、必死に思いをぶつけていた。
(あなたの苦しみはわかる)
声にはならずとも、その願いは結晶の内側へと響き渡っていく。
(あんな父親なんて、もう捨ててしまえばいい……!
あなたが背負う必要なんて、どこにもないんだから。
頼れる人に助けてもらって……お母さんと、そして自分自身を守って……!)
強く、強くそう願った、その瞬間――
バリィィン!
鋭い音とともに、結晶に亀裂が走る。
視界が崩れ落ちるように揺らぎ、その裂け目の向こうで――平行線世界のみさきの瞳と、確かに視線が重なった。
「……あなたは……私?」
ゴゴゴ……
その声を合図にしたかのように、鈍い音を立てながら結晶の亀裂が一気に広がっていく。
ひときわ大きな破砕音とともに、結界そのものが崩れ始めた。
(どうしよう! いつもの砕け方じゃない!)
「……落ち着け」
背後から低い声が響く。
「え……?」
振り返る間もなく、ふっと後ろから包み込まれるような感覚に囚われた。
急激に辺りが闇に沈み込んでいく。
足元が消え、底の見えない奈落へ落ちていくような感覚が全身を襲った。
そこで、みさきの意識は途切れた。
虚無は閉じ、闇は沈んだ。
だが、そのすべてを“俯瞰する存在”がいる。
神――世界の理を見下ろす眼差し。
次回、その声がついに語られる。
何を告げるのか。
救済か、それとも――さらなる絶望か。




