16-4 汝、神なり
空を隠して雲が流れる。地平が濃くなり、暗天に続いている。日暮れとも、夜明けともつかない四方を眺めれば、延々と続く草原だ。足場の草葉は戦ぐほど、雲は雨後の川にように流れている。気づけば、ザイナスはそんな場所にいた。
「足りないな」
足りないどころか、何もない。声に気づいて目線を落とすと、少女が笑っていた。カミラ、スヴァール、そして魔女――それらが彼女に混然としている。
「此処は?」
霧の世界、ではないようだ。見覚えがあるようで、はっきりとは思い出せない。
「おまえ中だ。これは、おまえの心像である」
はあ、とザイナスは緊張感のない相槌を打った。どうやら御使いの不意を突き、ザイナスは魔女に憑かれたらしい。だが、状況がよくわからない。
「賞牌は――」
「要らぬ、もう必要がない。ようやく因果に合点がいった」
勝手に納得されてもなあ、とザイナスは困惑する。あっけらかん、と険のない笑顔に肩を竦める。彼女には何やら人知の及ばぬ理解があったに違いない。
「理由を訊いても?」
「吾の座は此処にあった」
つとザイナスは手を挙げて魔女を制した。
魔女には傲慢の欠片もない。ましてや焦りや怒りもない。憑き物が落ちた――というよりも、憑かれているのはザイナスの方だ。「外」の様子がわからない。
「僕にも解るように」
むう、と魔女は口許を曲げた。考え込むように眉根を寄せる。
「魂なきもの《ノスフェラトゥ》よ」
呼ばれてザイナスは顔を顰める。魔女の流布した最悪の渾名だ。本は古式の屍鬼の呼び名も、今となっては国家と教会が追うザイナスの呼称だ。
「神敵、呪われしもの、不死者。古い言葉の戯言が、こうしておまえの的を射た。今の吾には因果の後先がない。こうして、此処に座を得た証左だ」
ますます以て、解らない。ただ、言葉の端がアベルの話に似てもいる。
御柱の言には鶏と卵の後先がない。因果は時の前後に生じる。一方通行の人の目は、起きた真意に気づかない。いや、地上に降りた御使いにさえ、因果が成るまでわからない。アベルが御柱に翻弄される所以だ。
ザイナスは唸った。不用意な追及は身の丈を越える虎の尾を踏みかねない。
「御柱さま」
「魔女と呼びやれ、くすぐったくてかなわん」
ザイナスの表情を眺め遣り、魔女はひどく楽しげに笑った。ザイナスは言葉を探して選ぼうとしたが、一拍で諦め質問を続けた。
「ええと、あなたが御柱になったとして、その、此処は僕の中なのでは?」
魔女はきょとんと口籠もり、唸るとも呆れるともつかない息を吐いた。
「信心を持たぬとはそういうことか」
ザイナスを軽く睨み付ける。
「確かに、そうだ。人が天上の在処を知るはずもない」
そう呟いて、指先でザイナスの胸を小突いた。
「ここだ」
見おろし、ザイナスは困惑する。
「賞牌では?」
「それは天使に競わせるための戯事だ。おかげで吾も因果に巻かれた」
魔女は口を尖らせて、ザイナスを見上げた。
「あれらの伏せた名は予兆。神代の終わりを告げる宿業だ」
不意に風が大きく鳴り、髪を煽られたザイナスは目に掛る前髪を掻き上げた。
「 約束の地――俗な名で全人観測儀を知っておるか」
問われて頷く。魔女に目を遣ると空を見上げていた。
「柱もまた人を知る半ばだ。もしも神意を問いたくば、おまえが探す他はない」
魔女が目を見開いた。
「因果が成ったな」
つられてザイナスも空を見上げた。
雲が風に流れ飛び、黒天の空が露わに覗く。星の下に敷き詰められたのは、巨大な歯車だ。形も大きさも異なるそれらは、膨大で精緻に噛み合っている。
ザイナスは呻いた。嵌められた。墓穴を掘った。いや、こうなることは決まっていた。魔女の言葉にまんまと因果を紡がれた。
地上に捨てられた信仰の断片、地霊術集めて造られたそれは、ザイナスの心像が描く全神観測儀に他ならない。
「さて、吾もあそこに還らねばならん」
魔女は空の歯車を見上げ、ザイナスに向かって微笑んだ。
ザイナスは口を開き掛け、脳裏を探って呟いた。
「あなたの名前を知らないんですが」
「ヴォラク」
「操流」
魔女が微笑み、繰り返した。
少女の身体が二つに割れて、歯車がひとつ回り出た。それは大きく膨らみながら空に向かって登って行く。五九種の地霊術が、ひとつ増えた。
ザイナスが目線を落とすと、身を閉じた少女が佇んでいる。
「ええと、カミラ?」
「はい。スヴァールの意思も、魔女の記憶も在りますけれど」
答えて頷く。歳相応の表情を見せるが、大人よりも落ち着きがある。ソフィーアの言う通り、彼女らは混然として分け難い。消えてしまった訳ではない。敢えて口調を変えたのは、主導権の交代を示す為なのだろう。
「さて、どうやって此処から出ようか」
幼気な少女に聞く事かと思いつつ呟いた。これが自身の心像の中だと言われても、その出入りはよくわからない。気づけば此処に立っていたのだから。
「こちらへ」
カミラが笑って手を取った。引かれて少し安堵する。だが、数歩も行かないうちに立ち止まった。カミラが振り返ってザイナスを見上げる。
「ええと」
ザイナスが目で問うと、カミラは俯いてはにかんだ。
「あちらで邪魔が入る前に、私を奪っていただけませんか?」