16-1 聖戦(前)
「まだ大丈夫、壊れてない」
ビルギットは頑なに言い張った。表示盤の大半は、真っ赤になって点滅している。軋む金音、蒸気の警笛も鳴り止まない。自身も床にひっくり返ったままだ。
「大司教猊下が搾り粕だわ」
支柱を抱えたクリスタが導管の奥を覗き込んで言った。
「信心が足りないんじゃない?」
隣の枠金にしがみついたティルダを突つく。
「あんた、代わりにやんなさいよ」
勿論、あたしは嫌だけど。当たり前のように言うクリスタをティルダが睨む。
「嫌だ。あいつの座った椅子になぞ触りたくもない」
寄り掛かる椅子を押し退けて、ラーズが窓に躙り寄った。土砂に曇ってよく見えない。皆の遣り取りを横目に流して、彼女は乗降口を蹴り開けた。
「何処だ、ここ」
霧に霞んでいるものの、辺りは地上と見紛う世界だ。大地があり、緑があり、風がある。遠くに湖さえ見えた。なのに、見上げた空には蓋がある。あまりに広い天蓋は、辺りを照らす白い光を湛えたまま、地平の縁と繋がっている。
「これが地の底だなんてさ、罰当たりにも程があるよね」
ラーズの脇から外を覗いてアベルが笑った。彼女を促し、天蓋を指さす。真上に薄灰色の小さな孔があった。あれが巨人機の落ちた跡だ。
よくも無事でいられたものだ。呆れ半分に感心して、ラーズは眼下を見おろした。直下に大きな土砂の山があり、巨大な鉄の四つ脚が半ばその中に埋もれている。麓には、四角く切り出された積み石が散乱していた。
「やれも鉄とは無粋なものを」
遠くで声が呼び掛ける。
「お陰で檻が潰れてしまった」
ラーズが声に目を向ける。土砂の縁に探り当て、身を乗り出して確かめた。歳の頃はリズベットと同じか。長い髪の少女が、ぽつん、と佇んでいる。まるで冷気を踏むように、足許に白い霞を纏っていた。カミラ・ヴォルゴードだ。
「おや、スヴァール」
乗降口から身を乗り出して、アベルが少女に目を眇めた。
「キミ、随分と若づくりじゃないか。何か妙なものでも憑いたのかい?」
呼び掛けるも、やはり神気は揺らがない。
「フリスト、こいつを動けるようにしろ」
取っ手を掴んで振り返り、ラーズがビルギットに声を投げる。
「魔女か」
ぎゅうぎゅうと二人を押し退けて、ティルダとクリスタが乗降口に割り込んだ。
「貴様、わが王を何処へ遣った」
「ザイナスくんを返せ」
口々に叫ぶ御使いに魔女は思わず眉を顰めた。巣から我先に身を乗り出し、餌を寄越せと囀る雛鳥のようだ。天使にしては落ち着きがない。
「それ、そこ。ぬしらの下よ。じき吾の下に――」
言葉も半ば、クリスタの耳を掠めて射られた矢が魔女の眉間に走った。
「――来るであろ」
一矢は間近で撥ねて逸れ、そのまま霧散した。魔女は言葉さえ呑まなかった。目を遣るも、矢を射たラーズは失せている。姦しいのは気を引くためか。
魔女が辺りを探ろうとすると、クリスタがティルダを突き飛ばした。やっつけて来いと嗾ける。悲鳴が甲板を滑って落ちた。乗降口が音を立てて閉じる。
騒ぎを尻目にビルギットは操縦室を駆け回っていた。霊力が枯れた。それ以前に、権能の利く気配がない。残った釜を掻き集め、機械仕掛けに頼る他ない。
幸い、巨人機の探信はまだ機能した。地形と熱源を探るよう調整したままの状態だ。ビルギットは直下に探りを入れる。盤を辿って呟いた。
「ザイナス、ザイナス」
隙間と身体の候補を見つけるも、複数の入った塊のようだ。王墓の地下に先行したリズベットたちだろうか。それなら、後回しでも構わないだろう。とはいえ今の状況では、彼を判じられるほどの精度もない。結局、手近な所からだ。
動く限りの駆動を重ねて、ビルギットは巨人機を揺り起こした。
「灰は、灰に」
ティルダは鉄の戦棍を構えて突進した。エイラの神器は白銀の鎧。得物は自ずと地上の出自で、聖堂秘蔵の神聖具でしかない。
羽虫を払う素振りも見せず、魔女はティルダを霧の壁で弾き返した。気づいて防ぐ。矢が撥ねた。いちいち死角を突く矢が鬱陶しい。射手は巧みに位置を変えている。しかも、霊力を抑えた技だ。消耗と配分を弁えているのが小賢しい。
余裕はあっても憑代は血肉だ。死なない程度には、身を守らねばならない。
ふと魔女は顎を逸らし、余蒸気を噴いて身動ぐ鉄の塊を鬱陶しげに見上げた。この地に神の導管は引けない。天使の力はじき尽きる。だが、機械は別だ。
四方の景色に馴染んだ霧が、不意に大波で押し寄せた。霧が凝乳に、凝乳が大理石の質感に変じ、魔女の背に立ち上がる。幾筋もの畝が形を成した。多頭の蛇だ。ひとつの頭が人を束ねたほどもあった。
顰めて、ティルダが距離を取る。魔女の頭上に幾つもの鎌首が遊弋している。
魔女の目線に応じるように、蛇が巨人機へと宙を走った。
「可愛くない」
手近のひと畝が喰らいつく寸前、蛇の顎が天を向いて揺れた。ほぼ金物の音を立て、白銀の盾が跳ね上がる。投じたクリスタが鼻を鳴らした。
「蛇は嫌い、亀にして」
乗じてティルダが魔女に迫った。大蛇の咢がそれを迎える。身体を捩じった横殴りの戦棍が、上顎を刎ね飛ばした。固形化した霧が白く散る。
蒸気を噴いた巨人の脚が、その背で振り子のように揺れ落ちた。瓦礫の山を削り飛ばすや、爆ぜた石塊が敵味方の境なく降り落ちて来る。
「フリスト、少しは考えろ」
白銀の盾と鎧に石を弾かせ、クリスタとティルダが声を上げた。巨人機の四つ脚は、蛇の頭を払いながら方々で土砂を跳ね上げている。
土砂は霰と降り注ぐ。だが、霧と蛇に護られた魔女には、小雨ほどにも感じない。ただ、内心の苛立ちは募っている。自身と同様、天使も血肉だ。潰すのは容易い。容易いが――この辛抱がいつまで持つか。
大蛇の軌跡がまた逸らされて、天蓋を向いてぐるりと伸びた。魔女が意識を飛ばした刹那、白銀が閃いた。目を射る矢の先を寸前で弾く。
追うも、射手はもういない。鬱陶しい――その舌打ちの途中、顎下を短剣が突き上げた。魔女は初めて自ら反った。危うく切っ先から身を躱す。悪戯な目をした少年が、鼻先に現われ、掻き消えた。一拍の隙も作れない。
「これは、残念」
呟く声の一方で、瓦礫の下に白銀が漏れた。刈り飛ばされた小山の先、宙を這い泳ぐ霧の大蛇が撥ね上がった。槍が、剣が、蛇を下から突き払う。
「生き埋めとはまた、雑なことだな」
オルガが辺りを見渡して、魔女を見つけて目を眇めた。
「まったく、此処も床が薄い。随分と安普請なのですね」
大聖堂を思い起こしたらしい。ついてもいない埃を払い、ペトロネラがこぼした。
下から這い出したエステルが、邪魔だとばかりに目の前の蛇の鼻面を殴り飛ばした。波打つ衝撃が蛇腹を遡り、魔女の背中で爆ぜ飛んだ。
「これでも碩学の知性派なんです。肉体労働は夜伽だけにさせてください」
土砂の隙間を維持していたのはソフィーアだ。白銀の冠を解いて息を吐いた。事象の支配は土砂にも及ぶが、範囲は決して広くはない。
「よ――?」
訊ねようとしたエステルを抱えて前を向かせ、リズベットが魔女を睨んだ。
「兄さんは何処」
面倒も極まったとばかりに、魔女は頬を歪めた。
「その下だ」
掘り起こされた五人は足下を、次いで背中を振り返る。一様に顎を上に反らせて、瓦礫の山に半ば埋もれた巨人機を見上げた。
「あら、大変」
ソフィーアが半目で呟いた。
「さっさと退けろフリスト、どうしてこれが此処にある」
オルガが巨人機に向かって叫び上げる。
「あっさり魔女に捕まった癖に、勝手なことを言うんじゃない」
鉄柱の裏からクリスタが顔を覗かせた。大仰に顔を顰めて嫌味を言う。
「そうだ、揃いも揃って役立たずめ」
被った土砂を掻き分け、ティルダもクリスタに参戦した。
「こいつ、何で味方面なのかしら」
きょとんと見返し、ペトロネラが呟く。ティルダはふん、と鼻息荒く胸を張った。
「私はおまえらの味方ではない、わが王の忠実な僕だ」
「兄さん――」
いったい何をどうしたの。リズベットが呻いて遠い目をした。
「とにかく、ザイナスを掘り出せ」
我に返ったオルガが声を上げる。
「シンモラ、あの鉄屑を――」
「だめ、無闇に暴れさせないで」
エステルを嗾ける声を遮って、ビルギットの割れた声が響いた。
「下手に動くとザイナスが潰れる。掘り出すまで魔女を抑えて」
アベルが瓦礫の影から口を挟んだ。
「まあね、魔女が苛々している間は、ザイナスも生きてるって事」
魔女が幾畝もの霧の大蛇を嗾けた。撃ち出されるような風切り音は、まるで連なる舌打ちのようだ。蛇の腹が瓦礫を撥ね上げ、一斉に襲い掛かった。
「フリストはザイナスを、皆は魔女を」
跳び避き打ち弾く皆に向かって、オルガが叫んだ。
攻撃が大時代的で古臭い。霧の檻ほどの周到さもない。だが、圧倒的な物理の力だ。こちらの霊力が尽きると見越してのことだろう。
「結びます」
それを察してスクルドが告げた。彼女とシグルーンに与えられた権能の連結だ。各々の消耗に差があるため、身に残る霊力の統括と配分が必要だった。
「無駄遣いしないで」
此処には御柱の目が届かない。神威の源泉は限られている。
「有難い、地上の鉄は柔すぎる」
ティルダは戦棍を投げ捨てた。ビルギットの槌を両手に顕し、蛇の横面を打ち払う。腹の半ばまで下顎が爆ぜ飛び、辺り構わず散乱した。
「無駄遣いすんなって言われたでしょうが」
クリスタがぼやいて破片を受け止める。暴雨の雨垂れに盾が震えた。
「魔女を潰す方が早そうですわね」
言って手近の蛇を払ったペトロネラだが、絶たれた腹から噴く霧が身体に這って纏わりついた。歯の生え並んだ咢に変じる。喰らいつこうとするものの、咢は顕現したソフィーアの冠に屈した。霧に還って吹き払われる。
「そのようだ」
飛び交う蛇の腹を縫い、迫ったオルガが魔女に槍を打った。眉間の軌道が頬の外に逸れ、躱した霧の盾が鞭に転じて柄に絡んだ。魔女の指先に棘が伸び、オルガの胸を貫き通す――寸前、ティルダの鎧が霧の棘を弾いた。
その足許に岩が散る。踏み割ったのはエステルの足だ。
魔女の腰背に拳が走った。霧がエステルの腕を捉える。それでも止まらず、砕き払った。堪らず魔女は前に跳び、エステルの全身を霧の壁に塗り込めた。
刹那、避けようのない矢襖が真正面から魔女を射る。隙間なく霧の壁に突き立つリズベットの羽根は、魔女の人型に抜けていた。
霧の一陣が御使いの足許を走り抜け、瓦礫の小山で魔女に転じた。
魂の選別場を行き来するスヴァールと霧を操る魔女の相性は別格だ。無尽蔵の魂の欠片を、魔物や得物、己が身体としている。
「鬱陶しい」
魔女はとうとう、口にした。魔女にも多少の思惑はあった。天使は導管に過ぎないが、その機能は久遠の研鑽を経て造られている。こうして地上に降りたからには、みすみす天に還すのは惜しい。手元に残して使いたかった。
――使いたかったが、仕方がない。
人と天使が混雑した人格のせいだ。ザイナスに惑わされたのも、血肉の生理に因る処が大きい。打って躾ける外にない。でなければ、神の娘のように最初から削ぐべきだった。否、あれでも情の隙間を突かれた。
鉄の脚が見覚えのある積み石を掘り上げた。自身の施した術の名残が窺い取れる。賞牌が移った気配はないが、あれはどうやら死の縁にいる。
――潮時だ。
魔女は小さく首を振り、霧を呼んだ。巨人の丈を越える大波を立ち上げる。音は後からやって来た。翳りに気づいた天使たちは、みな一様に立ち尽くした。
白い霧の大壁が、諸共地面を喰み滅ぼした。四方の波がぶつかって、天蓋に届く飛沫を立ち上げる。波端に覗いた巨人が傾ぐ。程なく折れて霧の波間に突伏した。捻れ千切れた鉄の脚が、土砂と一緒に押し流された。