15-1 神の娘
真白に煙る霧の中、ザイナスは暫し思案した。
果たして自分は生きているのか、それとも死んでしまったか。五感はどこも変わりがない。足を取られて擦り剥いた脛も、痛みはそのままだ。
とはいえ、ザイナスは死んだ事がない。比較しようにも、良くわからない。
辺りは一変して見えた。石室の中にいた筈が、壁も床も消え失せていた。辺り一面が白い霧だ。何もないのか、ただ広いのか。まるで見通しが利かない。
ただ足下は平板で、どうにも造作じみている。硬さも厚みも敷石ほどで、無いのは四方と上方だ。霧に埋まって見えないが、果てがないとも思えなかった。
思索は幾つか流れに任せて、ザイナスは歩き出した。方向は適当だ。手を伸ばしても、指先は見える。無闇に駆けねば躓く心配もない。
とにかく、端を確かめたかった。だが、暫くして途方に暮れた。
見当が想定外だ。比較するものがまるでないため、どこまで歩いた、どれほど歩いたかが測れない。真直ぐかどうかも、確かめようがなかった。
「まいったな」
立ち止まった瞬間だ。何の気配も前触れもなく白銀の一閃が胸を射た。あまりに正確、あまりに速く――だが、寸分の狂いのなさが仇になった。
霧の温みが気になったザイナスが、竦みも誰何も何もせず踵を返したからだ。何気の動作に、刹那の僅差で難を逃れた。つまるところは、偶然だ。
「おまえが賞牌か」
霧の向こうに声がした。振り返ったが姿がない。どうやら歩いて来るようだ。
どちらの御使いか。自問に答えはあった。魔女なら一度、会っている。確認の類は不要の筈だ。呆れるほどの歩数を要して、朧に人影が浮かび上がった。霧の向こうにこの距離で、あの遠射てを放つとは正確さにも程がある。
「それは名前じゃありません」
不遜な態度には慣れている。あっけらかんとザイナスは名乗った。
「ザイナスです。ザイナス・コレット」
薄灰色の瞳がザイナスを見つめ返した。
「仕方がない。よもや初手を外したら、話すのも一興と決めていた」
霧の中から溶け出したのは、輪郭も移ろう白い肌、銀の髪、ザイナスにも届く長身の少女だ。手には弓も槍もなく、漆黒の修道衣に具足だけを纏っている。
「シーグリッド・シベリウス――」
相手の名を受けてザイナスは嘆息した。
「身に受けたるは、シグルーンだ」
情動を欠いた頬を眺め、ザイナスは初めまして、と肩を竦めた。
◇
あの日、この霧に捕えられて以来、どれほど刻が過ぎたのだろう。
計る尺さえない中で、シーグリッドは思索を重ねた。こうして身体はあるものの、空腹もなく疲労もない。眠気もなければ老いもない。だが、痛みはあったし、傷も負う。恐らく望めば自死も叶う。それが許されているのなら。
この身は恐らく意識の義体だ。魂の写しに違いない。いわば醒めない夢の内。実存の身体はまだ生きている。恐らく、氷漬けにでもされているのだろう。
こうした術もなくは無い。内なるシグルーンが囁くに、内側からは出られぬ檻だ。此処は――魂の選別場に酷似している。
冥神の空隙、あるいはそれに似た何か。とはいえ、スヴァールにそれが成せるか。施術化するには秘が多い。権能はあっても権限がない。
恐らく、高位の者がいる。受肉を好機と使いの権能を奪い取った何者かだ。地上で考え得るならば、駆逐された古神の残滓に違いない。
ならば、目的は座の復権か。
御柱の戯れに乗じて賞牌を簒奪し、全人観測儀に手を伸ばす気か。あるいは群がる使徒を操り、己を再構築させるに違いない。
であれば、スヴァールの確保は順当だ。賞牌を待つには都合がよい。ただし、自ら動けない。確実な殺害、他の使いを抑える戦力が必要だ。
そこで、シグルーンを選択した。これもまた、理に叶う。受肉直後のシーグリッドを攫ったのは妙手だ。が――少々、相手が悪かった。人の脆弱さに付け入るには、神の娘は些か頑迷に過ぎただろう。
神の娘は黒神聖堂の修道士だ。御使いの地上代行者として、崇拝の守護と魔を祓うことに特化している。司教を裁く司教でもあるが、それは半端に零れた者だ。才を見染めて攫った女児が、峻厳な修練を経て選抜され、信仰と研鑽を生き残った一握りが神の娘となる。
故に、人として育てられた記憶はなく、現世に欲は何もない。シーグリッドは、その完成形と謳われた。御使いの器として彼女に優るものはいないだろう。
だからこそ、付け入る隙がない。
御使いは人格を変容させる。多くは肉の懊悩による歪みが原因だ。シーグリッドには、それが欠けている。御柱の使命、その機能として彼女はシグルーンを受け入れた。人と御使いの境界を残しながら、彼女は使徒として完全だった。
スヴァールを使って現身を切り離し、放置しているのも頷ける。例えシーグリッドを殺しても、シグルーンは別の血肉に降りるだけだ。
それとも、それを以てなお、何か別の企みがあるのだろうか。
◇
「なるほど魔女か、矮小で賢明な呼び名だ」
シーグリッドの理解は早かった。御使いの知識もさることながら、隠匿外典を知る彼女は、ある意味ソフィーアよりも地上の秘事に通じている。
「とはいえ、十年か」
昼夜の変化もない此処は、僅かの間さえも無限に等しい。独りの思索に飽きないザイナスならば兎も角、神の娘の意思は相当に強靭だった。
「よくも身体が朽ちないものだ」
ザイナスの知るところ、シーグリッドの失踪は十九の歳だ。齢不相応の落ち着きはさて置き、彼女の外見に十の経年はない。やはり、この霧に物理はなく、身体は生きたまま代謝を留められているように思える。
ならば、自分にもまだ身体があり、彼女のように生かされているのだろうか。
「いや、おまえは飢えて死ぬだろう」
シーグリッドはにべもなく言った。確かにザイナスは疲れもするし、空腹らしきものも感じている。彼女とは身体の保たれ方が違うのだ。不公平この上ない。
「魔女がおまえに手を出せないのは、スヴァールを依代にしているからだ。あれが自らおまえを殺せば、魂は手に入らない。だが自然死ならば、どうだろう」
それが争奪戦におけるスヴァールの負荷だ。とはいえ、兵糧攻めが自然死とは、解釈の都合に難がある。他に目論見があるのでは。些か審議が必要だ。
「無論、おまえの餓死を待つつもりはない」
語る口調を少しも変えず、シーグリッドは言い切った。
「魔女の企みは知れている」
シーグリッドは僅かに目を細めた。
「先の遠射てで確証を得た。祭壇でもなければ賞牌は刈れん。私がそれを得ようと足掻き、おまえを苦痛で死に至らしむのが目的だろう」
「だったら――」
言葉を端から遮って、シーグリッドはザイナスに、あるいは霧に宣言した。
「魔女の意に沿うつもりはない。だが、本質を違えはしない。私の使命は黒神の勝利、引いては天界の普遍に他ならない」
彼女の背に白銀の光輪が浮かんだ。シグルーンの祝福、神器の後光だ。
「賞牌を魔女に渡しはしない、死に至る前におまえの魂を砕き尽くす」




