14-3 屍の満ちる丘
これは御柱の意思である――ティルダは兵に檄を飛ばした。
率いる聖騎士、聖堂守護兵は一千騎余、峠の森を徒で越えた精鋭だ。まま、ひと息に攻め登り、大盾を掲げた幾波の隊列が王墓を目指して丘を進む。
その十倍の国軍兵士を、ティルダは全て捨て駒にした。比較にならない兵数といえど、シンモラとスクルドは軍勢の脅威だ。足留めには不可欠だった。
無論、丘に残った使いも抵抗するだろう。白金の矢は易々と盾を貫き、確実に兵を削る。だが、問題はヒルドだけだ。レイヴ、ゲイラは個の神器であり、対抗を贄と割り切ってしまえば、開けた丘陵では数の優位だ。
最終盤の守りとなれば、ヘルフの盾はティルダの鎧と同様に侮れない。だが、今の兵は実質的に無尽蔵だ。この人海を止められはしない。
砦を落とす戦ではない。それが何より肝心だった。相手は籠城の術がない。対してこちらは補給が不要だ。見目と事情が逆転している。
ティルダの率いる兵は体力が尽きない。それが彼女の権能だった。重装備での山越えも、防戦に不利な登坂も、今の彼女の権域であれば、力技で押し切れた。力が尽きれば後続が替わる。即死でなければ回復する。ティルダの盾は死にも痛みにも屈しない。例え絞り尽くしても、ザイナスひとりを刈れば勝ちだ。
とはいえ――あの目だ。知らず、身震いした。
ティルダを使いと知ってなお、畏怖を抱かぬあの目は何だ。教会深部に暮らした身には、神気に平伏する者しか知らない。やはり初見の見立ての通り、あれは霊格を欠いている。ならば、なおさら度し難かった。あれも只の脂と血の塊だ。刈られるだけの人の身に、何故に自分は苛まれるのか。
よもや、私を穢す気か。ぞわり、と悪寒が這い上がる。蟲が内腿を這う感覚――勿論、不可侵の身に憶えはない。ない筈なのだが、ティルダの脳裏に妄想の感覚が膨れ上がる。不浄に塗れたあの男に、好き放題に嬲られて――。
ティルダは堪らず蹲った。
すわ、何ごとと駆け寄る兵を追い払う。
頭の中まで犯そうとは、げに汚らわしき魂なきもの。ティルダは身震いを振るい捨て、膝当てについた土埃を拭い捨てた。勝手な逆恨みもお構いなしに、行軍の向こうにザイナスを睨んだ。
◇
何やら歪んだ妄念の余波に、ザイナスは思わず首を竦めた。
そうする間にも、矢や投擲の五月雨が王墓の石柱に音を立てる。奉都スヴァールの資産は兎も角、攻撃の成果は微々たるものだ。とはいえ、流れは留めようもない。眼下の軍勢は四方から、頂を目指して包囲を寄せる。
「きりがないな、中に退くか?」
柱の陰で振り返り、忌々しげにラーズが問う。
彼女以上の射手などないが、如何せんとも数が違う。戦の相性が悪かった。砂糖に集る黒蟻を、針で突いて追い落とすようなものだ。
「幻惑もほとんど効果がないね。エイラの奴、何を仕込んだのかな」
アベルも、ぼやいている。彼の見立てによれば、ティルダの権域は些か異様だ。彼女の兵士は疲弊を知らず、傷を負っても驚くべき早さで前線に戻る。どうやら後ろの神輿が絡繰らしいが、兵を盾にラーズの矢を阻んでいる。
「兄さん……この下に……」
羽根からリズベットの声がする。同じ言葉を繰り返している。ザイナスは微かに口許を顰めた。王墓の下とは伝信が安定せず、問うても答えが返って来ない。
ラーズの言う通り、間口の限られた石室の方が戦い方もあるだろう。リズベットたちとも合流すれば、大軍に負ける道理はない。とはいえ、人海に追われるまま王墓に籠るのは下策に過ぎる。何より、リズベットの誘いが気に掛かった。
「この下に……」
いよいよ、となれば包囲を割り、丘を駆け下った方が幾分ましだ。最悪の一手をそう決めると、ザイナスは妹の声で囁く白銀の羽根を地面に置いた。怪訝な目をするアベルを制して、口許に指を立てる。
「ひとつ試したい。駄目なら、逃げよう」
「何をする気だ」
矢掛けに振り向く暇もなく、背中でラーズが問い掛ける。アベルは羽根を目の前に翳して、ラーズのそれも取り上げた。ザイナスは伝信に魔女の介入を疑っている。二人はすぐにそれを察して、ザイナスを真似て羽根を捨てた。
「で、キミが大聖堂でやったやつかい?」
アベルが囁いた。良くわかったな、とザイナスが一瞥を投げる。ボクが気づかないとでも思ったの、とアベルは悪戯な目でザイナスを見返した。
「残念ながら、キミの地霊術はボクらにも良くわからないんだよね」
アベルの言葉にザイナスは肩を竦めた。
「奇遇だな、実は僕もそうなんだ。正直、何が起こるかわからない」
そも、起こる確信も強くはない。
「何でもいいぞ、好きにしろ。おまえの魂はオレが掴まえてやる」
ラーズが背中で声を掛ける。ザイナスは言葉に頷いた。そも、成功の後を憂う意味はない。そも、有り得るかどうかの問題なのだから。
ならばさて、どれがこの場に相応しいものか。愚にもつかない印章は五九種も空回りしている。思案しつつ、ザイナスは辺りを見渡した。
緑の畝の方々に白い大盾の群れがある。こちらの迎撃が単騎と知って、我先に登って来る。墓碑を眺める街の客も、それを相手の売り子や屋台も、倒けつ転びつ駆け散った後だ。つらつら並ぶ墓碑だけが道の端に残されている。
なるほど墓所なら、あれが良い。冒涜的な代物だが、今なら御使いも目を瞑るだろう。成否も規模も不明だが、それは後から考えよう。
義体
従僕
ザイナスは心象の歯車を噛み合わせた。
「屍共よ、我が意に沿うべし」
◇
ティルダに不安はなかった。ヒルド、ゲイラが迎撃しようと、ザイナスだけは脆弱だ。例え石室に籠城したところで、火を掛けて燻せばそれで終わりだ。
「あと少しだ、ひと息に落とせ」
前線を丘に押し上げる。神輿を呼び寄せ、現神の権域を拡げた。
ふと、王墓を仰いで踏み出した足に、節榑立った芝の根が絡みついた。
蹴り千切ろうとして蹈鞴を踏む。引き抜こうにも動かない。何故こうも強靭か。困惑するうち土埃が立った。みるみる辺りに立ち込めて、霧の如く視界を奪った。
天変か。辺りを仰ぐが頭上は蒼い。突風もなく、ただ土埃だけが吹き上がる。
眼下に土竜の畝が走った。足を引きつつ目を凝らすや、鉤に捻じれた木の根が伸びた。否、指だ。黒い土塊に塗れたそれは、肉の削げ落ちた指先だ。
声にならない悲鳴を上げた。屍がティルダの脚を掴んでいる。藻掻くように必死に退れば、骨身がずるずると引き抜けた。これは屍鬼――の筈がない。そんなものがティルダの神気に耐え得るものか。そも、屍鬼は死体ではない。筋肉も腱もない屍が動くなどと、物理的に在り得ない。
土埃の翳りが払われ、視界が抜けた。見渡せば、四方に起立していた大盾が、ほろほろと欠け落ちて行く。兵が皆、地面に伏して藻掻いていた。ティルダと同様、絡みつく屍を蹴り払おうと滑稽に踊っている。振り絞るような悲鳴に目を遣れば、斜面の至る所に無数の土饅頭が生え出していた。
蟲の卵が孵るように、土の殻を掻き毟り、埋葬布の羊膜を引き破り、けくけくと汚泥を吹き溢しながら、次から次へと屍が這い出して来る。
いったい、何が起きている。
守護兵の浄化も効果がない。ティルダの権能も及ばない。現神の神威に意味がないなら、嵐のような、泥流のような、これは物理の事象か。
在り得ない。だが、御柱の奇跡とは明らかに理が違う。
泥に塗れた無数の腕が、ティルダに絡みついた。聖騎士のそれなど飾りと捨てて、神器の鎧を身に纏う。使いの身体は不可侵だ。地上の不浄は触れ得ない。だが、汚い。臭い。感じる筈のない感触が無数の針のように身体を這う。
ティルダは悲鳴を噛み殺した。為すがままに引き倒され、膝を突く。辛うじて半身で堪えたのは、誇りや意地というよりも、土に塗れる嫌悪感が勝ったからだ。
「これだから、儘ならない」
声がする。
「どうにも、加減のしようがない」
ティルダに向かって近づいて来る。
「ねえ、ザイナス? これはボクの言えた義理じゃないが、キミだけはもう少し人としての感性を留めた方が良いと思うんだ」
後ろの声は呆れたように指摘する。
ふと立ち止まる。目先に踏み込んだ靴先に、ティルダは首を捩じ上げた。
「――魂なきもの」
ザイナスは彼女に底冷えのする一瞥を投げ捨て、土埃に煙る辺りを見渡した。
兵は残らず屍に組み敷かれ、土に塗れて蠢いている。死ねず、疲れず心ばかりが削り取られている。多くが狂気に逃げ込んで、ひたすら啜り泣いていた。
まいったな、とザイナスは頭を掻いた。半分ほどは、もうこちら側だ。どうやら、屍ばかりが増えた。彼らが無事に魂の選別場を越えられればよいが、とザイナスは思う。あいにく、そこには魔女も居るが。
ザイナスの後ろで辺りを見渡すラーズとアベルは、頬の血の気が失せていた。
「なるほど、どうやらこの魂刈りは、御柱の戯れでもなかったようだね」
皮肉を吐いてアベルが嘆息する。笑いは少し渇いていた。
「キミ、正真正銘の神敵だったんだ」
目の前に広がる有り様は、御柱の理にない奇跡だ。勿論、人の技術によるものでもない。ならば、部類も対処も不明だ。罪かどうかも判じられない。
立ち会う二人の御使いに、さらさらザイナスを裁く気はない。もとより資格を失った御使いが、ザイナスの魂を刈ることもできない。例えその身を殺せても、彼の魂はスヴァールに――魔女の手に落ちるだけだ。
「どうでも良い。他の奴らはいざ知らず、オレはザイナスと一緒に堕ちる」
施術の際に宣じた通り、ラーズはそう言い切った。
「格好が良い。せいぜい、群神に聞かれないことだね」
アベルが揶揄い、ラーズが睨む。
「おまえはどうだ、これも主上の戯事の内か?」
アベルは肩を竦めて見せた。
「知らないよ。ボクはとうに捨てられたから」
二人の会話を聞き流し、ザイナスは思案と落胆を勘案していた。施術は叶うとわかったものの、これでは使いようがない。現状を収めたらお蔵入りだ。
足許のティルダに目を落とした。
浄化
「土塊に還るべし」
ティルダに組みつく乾いた腕が、不意に力を失った。陽に乾いた泥人形のように砕け散る。雨垂れにも似た音を立て、無数の屍は一斉に土埃と化した。
すすり泣く声、咳き込む音が、いっそうの土埃に塗れた丘を埋める。ティルダの有する御使いの目には、多くの魂が呑まれるように地に吸い落ちて行った。
「ティルダ・フリーデン」
名を呼ばれ、ティルダは首輪を引き絞られたように喉を反らした。その目に射られて怖気が走る。震えが下腹部を蛇のように這い上がった。 魂なきものは便宜上の名だ。その筈だった。ならば、目の前の男は何者だ。
「賞牌を諦めてくれるだろうか?」
ティルダを見おろし、ザイナスは彼女に選択を迫る。
主上の使命を捨てよ、と言う。人が主を騙る気か。屈辱以外の何物でもない。脂に塗れた情欲の獣に、現神のエイラが蹂躙されよう筈もない。
耳の先まで紅潮し、ぶるぶると震えるティルダを見おろし、ザイナスは少なからず困惑した。何だろう。何か誤解をされてはいないか、そう思案する。
薄目のザイナスに睨まれて、ティルダはひい、と息を呑んだ。
犯される。例え使いであろうとも、地上にあるのは人の身だ。このまま自分も穢されて、堕とされ全てを奪われる。ティルダの脳裏の蹂躙は、際限もなく高まって行った。つど、身体は抑えようもなく震え――昂りはついに限界を超えた。
大丈夫かな。アベルとラーズを振り返り、ザイナスが視線で訊ねる。二人は眉根に縦皺を寄せて、揃って肩を竦めて見せた。
鞭打たれた後の絶え絶えの息で、ティルダはザイナスの脚に縋った。
「わが王に永遠の忠誠を」
紅潮した頬を寄せ、ティルダはザイナスの靴に唇を押し当てた。




