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神さまの嫌われもの  作者: marvin
5章 狼と狐のゲーム
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5-3 狩人(獲物)の窮追

 なるほど、良い獲物の匂いがする。群神(レギオン)のヒルドは森の奥に目を眇めて得心した。ただの人の身では難しいが、的を絞れば嗅ぎ分けられる。

 あれは確かに、御柱の求める賞牌(マユス)だ。

 ヒルドが山守りの娘ラーズ・ベルセリウスに受肉して、もう十年になる。人の身は十七だ。時間の尺は思いの外に長く、獲物を見るまでにこれほど経った。

 この暮らしも悪くはなかった。だが近頃は、どうにも人の身の感情や衝動を持て余し気味だ。溺れぬうちに終わらせねば、いつか歯止めが効かなくなる。

 当初、ゲイラの持ち込んだ賞牌(マユス)の知らせは半信半疑だった。

 ゲイラを見知ったのは、密猟者や盗賊を討伐した際の偶然だ。正面切っての来訪は初めてだった。先のシンモラとの諍いを聞きつけ、痛手に付け込む気かと警戒もしたが、よもや獲物の居場所を告げるとは思わなかった。

 ゲイラの振る舞いは、実に自由神(ケイオス)の使いらしく読み難い。資格のない身は不憫だが、確かにあれにしてみれば、他を頼るより仕方がないだろう。

「ヘルフとスルーズは彼を取り逃がしたぜ。せいぜい、キミも気をつけることだ」

 とはいえ、捻くれぶりは健在だ。皮肉のひとつも言いたいのだろうが、冗談にもほどがある。加護ひとつない人の身で、逃げ遂せるなど在り得ない。

 いずれ、ゲイラが何を企むにせよ、獲物が本物とわかった以上、この機を逃す訳にはいかない。まだ自分は御柱の使命を破棄する状況にない。

 ラーズは下生えを掻き分ける獲物を遠視した。

 追われる自覚があるのだろう。ときおり、辺りを窺っている。

「ザイナス、か」

 幾度かその名を口の中で転がした。ゲイラに聞いたが、意味のない言葉だ。

 獲物を見定め、ラーズは最初の一手を弓に番えた。まずは普通の鉄の鏃だ。

 右手に射って位置を悟らせる。

 獲物は想定した樹の裏に隠れた。周囲の樹々から胸の高さは測ってある。魂を固定する白銀の矢を番え、射た。この矢に遮蔽は何の意味もない。

 人の尺は長かった。たかが十年、これほど物語があるとも思わなかった。終わりは酷くあっさりしたものだ。幾つも魂を送ったが、この臨終が最後のひとつだ。

 ふと、ヒルドは眉を顰めた。手応えがない。魂を射れば肉は死に至る筈だ。下生えが揺らいでいる。獲物は不格好に地を這い、思わぬ方向に逃げていた。

 群神(レギオン)の使いがとんだ慢心だ。狩りに手間を惜しむとは。

 ラーズは舌打ちして実の矢を構え直した。急所は確実に捉えられる。だが、実の矢で殺してはならない。あれだけはスヴァールに送る訳にいかない。

 致命傷を避け、好位置に追い込み、確実に狙える場所で白銀の矢を射る。魂を地上に固着させれば、あとは遺体から賞牌(マユス)を回収するだけだ。

 ラーズは改めて矢を射った。

 獲物は面倒な動き方をする。射手を軸に追い込むも、身を隠す位置を選んで射線から遠去かる。射換えようとするたび、思わぬ方向に姿を消した。

 初手を見せたのは失敗だった。ラーズの行動を読んでいる。しかも、逃げ方に人の恥も躊躇いもない。転び、這い、緩急激しく駆け回る。まるで獣だ。

 どうやら、ゲイラの忠告は本当だったようだ。

 人の体力を鑑みるも、ザイナスが力尽きるのを待つには、この森は狭い。人里が近すぎた。またぞろ、シンモラの権域に踏み込みかねない。

「ガンド」

 ラーズは相伴う従者の白狼を呼び寄せた。これ以上、矢で追うのは愚策だ。

 ガンドは音もなく駆け寄り、ラーズを見上げた。先のシンモラとの戦いで最も勇敢に戦った狼だ。帰還以来の狩りのせいか、少し浮足立っている様子だった。

 ラーズはガンドに追い込み先の指示を与え、ザイナスの追撃を任せた。尾が消えるのを見届けて、樹々の合間にザイナスの動きを確かめる。その無防備な首筋に、一瞬の誘惑を振り切って、ラーズは鉄の鏃の実矢を逸らした。

 ラーズの遠視にザイナスの頬に散る血の雫が見える。

 美しい男だった。ほんの一拍、呼吸を忘れた。

 視線を引き剥がすように振り返り、ラーズは弓を負って森を駆けた。この先に一筋、森の中からは見通せない、真っ直ぐに抜けた樹々の境がある。幅は最大でも両手を拡げたほどだが、止めの矢を射るのは横切る一瞬で事足りる。

 無論、ガンドが仕留め損なえば、の話だ。

 観念すれば、多少の噛み痕で済むだろう。抵抗すれば四肢のいずれを失うかも知れない。もしも逃げ切れたのならば、白銀の矢が魂を縫い留める。

 森の中の微かな気配で、ガンドがザイナスの範囲に入ったと知れた。

 ほんの僅か、ガンドに任せず自ら狼のように追うのを夢想した。あれを組み敷き、怯えた目を間近に覗き見たい。それともザイナスは無意味に抗い、ラーズの首に牙を立てようとするだろうか。ラーズは我に返って身震いした。

 雌狼の方がよほど慎み深い。どうして、人の衝動はこうも度し難いのだろう。

 ガンドが逸れた。思わず足を止めそうになった。

 追ってはいるが、獲物が違う。いったい、何が起きたのか。ザイナスの仕業か、それとも単なる偶然か。だが、ザイナスは予定の通り追い込んでいる。

 ザイナスの走路は正面だ。

 白銀の矢を番えた。

 射線の只中に飛び出したザイナスの胸に、ヒルドは無心で矢を射込んだ。

 勢い余ったザイナスの身体は、もんどり打って樹々に転がり込む。一拍、そのまま弓を握り締め、ヒルドは大きく息を吐いた。

 後悔にも似た物惜しみを抱きながら、ラーズはザイナスに向かって歩き出した。だが、ようやくだ。貫いた賞牌(マユス)を手にすれば、ラーズの使命も終わる。後は人として生きるだけだ。思えば、今までの十年よりも、この一時が昂った。

 ふと、悪寒のような不安が湧き出し、ラーズは人じみた感傷を振り払った。

 ゲイラだ。どうして今まで思い至らなかったのか。あれがこの結末を見越していたなら、射抜いた賞牌(マユス)を奪うに違いない。ラーズは走った。風を裂く唸りを怪訝に思う間もなく、樹々の間に倒れ込んだザイナスに駆け寄る。

 茂みに半身を起こしたザイナスと目が合った。

 焦って警戒を怠った。何より御使いの力に慢心した。

 ザイナスが稚拙な分銅を放り投げる。拾い集めた蔦と錘が、周囲を巡って絡め取る。棒立ちになったのは束の間だ。引き千切るのは容易かった。

 逃げるザイナスを追うつもりが、ザイナスは駆け寄って来る。思いがけない動作の意を図る間もなく、ザイナスはラーズを抱き竦めた。


 声にならない声がして、抱えた身体が強張った。抵抗されると身構えたが、狩人の身体は動かない。ザイナスは頬に手を添えて、その唇に口づけた。

 蔦の分銅は漸弱に過ぎて、効果もまるでなかっただろう。単に油断が誘えればよかった。何度もそうした切っ掛けを重ねて、触れる隙ができさえすれば。

 いずれアベルの言う通り、ザイナスの手段は限られている。それを信じたのも賭けだ。自由神(ケイオス)の御使いらしく、にやにやと揶揄うだけだとしたら。

 唇を離すや、彼女は詰めた息を吸い込んで、喉で啜り泣くような音を立てた。


 追い詰め、仕留めた筈の獲物が間近に覗き込んでいた。添える掌、触れる身体が炎のようだ。ここに至って、ラーズは気づいた。狩られていたのは自分の方だ。この美しい獣の欲しいまま、蹂躙されるのは自分の方だったのだ。

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