第3話 千秋の忙しい1日
「......まあ、そうだよな普通」
連絡先を交換できたはいいものの、千秋は、よろしく、以外のメッセージのやり取りをすることはなかったのだった。
諦めてスマホの画面を閉じる。
今日は色々なことがあった。目を瞑ってしばし頭を落ち着かせる。
(先輩、性格自体は変わっていなかったけど前より可愛くなってたな)
風音は千秋にとっての初恋の先輩。初恋というのはなかなか忘れられないものなのである。
今も千秋は風音との高校時代の思い出を鮮明に覚えている。
高校時代の懐かしい思い出を思い出していると何だかむず痒くなりベッドでゴロゴロと転がる。
「あー、ゲームでもやろっと」
千秋は再びスマホを開いて新作ゲームの続きをやるのだった。
***
「また朝から講義かよ......」
仕方がないところではあるが思わずため息が出てしまう。
(単位はまだ落としてきてないし、このままのペースでいきたいんだよな)
昼からの方がまだ楽である。
朝はゆっくり寝たいところなのだが、ここ最近はそうはいかない場合が多い。
朝市への買い物を腰を悪くした母から頼まれたりと色々あるのである。
重い足取りで玄関まで行って靴を履く。
「ああ、眠い」
靴を履いている途中で一瞬目を瞑ってしまったが目を開ける。
(あっぶな......ああ、遅くまでゲームやりすぎたかな......寝たら後々困るんだよな、夜の睡眠って大事だな)
改めて睡眠の大切さを感じ、妙に目が覚めた。
ドアノブに手をかけてドアを開く。
音楽でも聴きながら行こうなどと思っていたわけだが、そんな思惑はあっさり切り捨てられた。
隣の人も同時にドアを開けて出てきた。
「あっ偶然、おはよ」
「あっおはようございます」
出てきたのは風音である。たまたま出る時間が被ったようだ。
「先輩もこれから授業ですか?」
「うん、まあね本当に眠たい」
風音は口元を抑えてあくびをした。
髪はさらさらとしておりストレートなのだが、一部寝癖がピョンと跳ねていた。
「先輩、寝癖ついてます」
「えっ、うそっ」
千秋は指差す。風音はその箇所を触り、あっ本当だ、と言って急いで手で直し始めた。
「うわ、はず」
風音は少し顔を赤らめる。
(可愛いですね、朝から目が覚めました......はい......)
「まあいいじゃないですか、それにちょっとですし」
「いやあ、それでもこれはダメです、淑女たるもの許せません」
「どこがですか、まったく淑女っぽくないじゃないですか、むしろ子供っぽいというか」
「むっ......コーヒー飲めるもん」
「角砂糖とミルクどれくらいの入れます?」
「......角砂糖は最低5個、最低ミルクも5個、合わせて10個でギリギリ」
「それはもはやコーヒーじゃないですね、コーヒーのアイデンティティ失ってます」
(先輩は素はドジでちょっと天然で何というか......美しいと言うより可愛いって言う感じなんだよな)
身長も千秋より小さいので尚更そう思うのである。
仕草の1つ1つが小動物のような可愛さがある気がする。
高校の時よりは雰囲気から大人らしさも感じられるようになったがそれまでだ。
そんな風に思っていると風音は千秋をジト目で見つめた。
(そう言うところですよ、先輩......)
心の中でそう呟き、風音を置いて大学へ向かおうとするのだった。
「あー、ちょい待ち!」
千秋に合わせて風音もついていく。
千秋は懐かしさを覚えていた。また風音とこんな風に会話できるなんて願ってもないことだった。
風音への好意ではない。ただこの空間が好きというだけである。
しかし風音もあと数ヶ月で社会人。こういう機会はもう滅多に来ないのかもしれない。
***
次はバイトである。
今日の千秋の1日は忙しい。
朝は大学へ行き、昼は買い物を頼まれ、夜は居酒屋でバイト。
家についた頃には夕方になっており、バイトの準備をしなければならない時間だった。
といってもバイトがある日はそのまま行けるような服装なので問題はない。
冷蔵庫からコップに注がれたお茶を取り出して一気に口に入れた。
「......よし、いくか」
***
「いらっしゃいませ、ご注文の方お伺いいたします」
「生ビール1つとつくね串1つ......」
いつも通り接客していけば時間が経つのも早い。お客さんが多かった日は気づいたら店を閉める時間になっている。
この日も客が多く閉店まで1時間もなかった。ピークが終わり厨房は暇を持て余している。
そんな中、1人のお客さんがやってきた。
「いらっしゃいませ、何名様でしょうか」
「あっ1人ですぅ」
(......まさかな、気のせいだよな)
聴き慣れた声が聞こえた気がするが気のせいということにして業務に戻る。
「いらっしゃいませ、ご注文の方お伺いしま......す」
(やっぱり先輩!? しかも多分めっちゃ酔ってる)
風音の酔っているところなど想像しただけで身の毛がよだつ。
普段でもハイテンションだと言うのによってしまった酔ってしまったらそれこそだる絡みされるに違いない。
千秋は視線をハンディに移動させる。視線を合わせたらいけないと本能がそう言っていた。
しかし、そんな甲斐も虚しく、風音の方に一瞬視線をやると千秋のネームプレートを見ていることに気づいた。
(あっやべっ......)
「うん? 大塚? もしかして後輩くんかあい?」