試供品はもやしでした。
「どうぞー、試供品のサンプルでーす。是非この機会にご賞味くださーい」
朝、会社向かって歩いていると、どことなく違和感のある言葉が耳に飛び込んできた。試供品もサンプルも同じ意味の言葉だったはず。声は私の進行方向にある駅前の広場から聞こえてくる。配る人の日本語はさておき、私は何の試供品を配っているのか見てみたいと思った。
「試供品のサンプルでーす。どーぞー」
ぺらぺらの黒いジャンパーに、黒いキャップという、よく見るスタッフコーデをした髪の長い若い女性が二人、通行人に何かを手渡している。近づくにつれて、手のひらサイズより一回り、いや二回りほど大きな何かが配られているのが見えてきた。試供品が気になった私は、他の通行人たちと同じように試供品を配る女性へと吸い寄せられていった。
「試供品のサンプルでーす。是非この機会にご賞味くださーい」
女性に笑顔で手渡されたものを見て、私は驚きのあまり思わずその場に立ち止まりそうになった。彼女から手渡された試供品、それはスーパーでよく見る『もやし』だった。
もやしの形をした何かではなく、もやしだ。パッケージの中央には『もやし』、右下には『内容量200g』と書かれている。これはどこからどう見てももやし以外の何物でもない。
もやしの試供品? 何か特別なもやしなの? でも、裏面を見ても生産者情報と原産地、それから保存温度ぐらいしか書いてないし、なにか秘められた効能があるわけでもなさそう。
もやしをくれた女性に質問しようとしたけれど、私のすぐ後ろにも試供品を受け取っている人が何人いて、通行の邪魔になっていたことに気がついた私は、慌ててその場を後にした。
もやしをもらった結果、私はずっともやしのことばかり考えてしまい、一日中仕事に集中することができなかった。誰が、何のためにもやしを配っていたのか。このもやしは見た目通り普通のもやしなのか。考えたとてその答えはわからないことは明白なのに、私は考えずにはいられなかった。
「おい、魚崎、大丈夫か? 今日なんだか変だぞ? 体調でも悪いのか?」
あまりにも私が上の空だったので、勘違いをした上司に心配されてしまった。もやしのことを考えていましたとは言えず、私はとりあえず「全然大丈夫です! 心配かけてすみません」と言ったけれど、心優しい上司は私を定時前に帰らせてくれた。
「困った時はお互い様だからな。無理せず今日は早く帰りなさい」
見た目はもやしのように色白細身で頼りないが、仕事ができて気配りもできる優しい上司。そんな上司の勘違いに心を痛めつつ、私は会社を後にした。帰り道、もやしをどうするか考えながら電車に揺られ、スーパーで特売品を漁ってから帰宅した。
この日の夕飯は、白ごはん、玉ねぎと豆腐の味噌汁に、ひき肉ともやしの卵とじにした。もやしは見た目を裏切ることなく、普通のもやしだった。調味料を目分量で入れたからか、卵とじが少し醤油辛かった。
「どうぞー、試供品のサンプルでーす。是非この機会にご賞味くださーい」
試供品のもやしをもらってから二、三週間経った頃、通勤途中にまた聞き覚えのある声が聞こえた。またもやしかな? それとも別の野菜かしら? そんなことを考えながら、試供品を配る女性の側に行くと、前の方から耳を疑う言葉が聞こえた。
「黒毛和牛の試供品でーす。是非この機会にご賞味くださーい」
黒毛和牛。黒毛和牛の試供品って、まさか本当に黒毛和牛をくれるの? でも、もらえるならこれはもらっておきたい。私は心躍らせながら自分が配られる番を待った。そして、前の人が試供品をもらって立ち去るかどうかのタイミングに、ついつい前のめりで右手を差し出してしまった。
「はい、どーぞー。黒毛和牛の試供品になりまーす」
彼女はそう言って笑顔で私の手のひらに黒毛和牛を置いた。そう、一切れの生の黒毛和牛を。
黒毛和牛がもらえると思った私はそのことで頭がいっぱいになり、自分の前の人がどんな風に受け取っているかなんて全く目に入ってなかった。だから、大きな発泡スチロールトレイから菜箸で摘んだ生肉を、そのまま手のひらに乗せられた時、私は自分の目を疑った。
しかし、私よりも前に生肉を受け取った人たちは文句一つ言うことなく嬉しそうにその場を後にしていたので、私もその流れに続くことにした。生肉は悩んだけれど、ハンカチで包んでスラックスのポケットに突っ込んだ。
「何だか生臭い気がするんだけど、気のせいかな?」
お昼過ぎ、もやしみたいな上司が、鼻をすんすん鳴らして首を傾げていた。生臭いと言われ、私はすっかり忘れていた臭いの原因であろう存在を思い出した。
「何の臭いですかね?」
私も上司と同じように首を傾げてその場をやり過ごし、上司が遠ざかってからトイレへダッシュ。ハンカチの中の黒毛和牛を便器に流した。臭くなったハンカチは、洗面台で洗ってみたけど臭いが取れそうになかったので、トイレにあったゴミ箱に捨てた。お気に入りだったのでちょっと寂しい気持ちになった。
「どうぞー、試供品のサンプルでーす。是非この機会にお試しくださーい」
お気に入りのハンカチを捨てた翌週、また駅前で試供品を配る女性に会った。今度は生肉じゃなかったらいいな、そう思いながら私は周りの人たちと同じく、試供品を配る女性の元へと向かった。
前回の反省を踏まえて、今回は前の人たちが何をもらっているかを見ていると、皆んな茶色いクラフト紙でできた細長い封筒を手渡されていた。
「どうぞー、親の七光の試供品です。是非お試しくださーい」
中身は何だろうと思いながら受け取ろうとしたら、黒いスタッフジャンパーの女性が笑顔で説明してくれた。説明してくれたが、言われている意味がわからなかった私は、彼女に詳しい説明を求めたくなった。でも、また後ろがつっかえそうだったので、後ろ髪を引かれながらもその場を後にした。
会社に向かいながら封筒の中を確認すると、直径2cmほどの曇ったガラス玉みたいなものと、一枚の名刺サイズの紙が入っていた。紙には『取り扱い説明書』と書かれている。歩きながら内容を読んでみたが、そこには大したことは書かれていなかった。
『二、三回指でこすると発光します。発光時間は約30秒です。光が消えると同時にこの玉は消滅します』
何これ。親の七光って言ってたけど、これじゃあただの発光するガラス玉じゃない。私は少しがっかりしながら歩くスピードを早めた。
「あ、しまった!」
その日の夕方、仕事を終えて帰り支度をしていると、上司がコピー機の前で大きな声を上げた。何事だろうと思い「どうしたんですか?」と言いつつ近づくと、上司はコピー機の下を覗き込んでいた。
「いやー、ボールペンを落としちゃってな。コピー機の下に入ってしまったみたいなんだ」
這いつくばってコピー機の下を覗き込む上司を見て、私は頭の中に閃くものがあった。そうだ、こんな時こそ役立つものを私は今朝もらったじゃないか。
「ちょっと待っててください」
そう言って私がデスクに戻りかけた時だ。「あったー! よかったー!」と、嬉しそうな上司の声が聞こえた。私がびっくりして振り返ると、上司はコピー機を少しずらし、ボールペンを拾い上げようとしているところだった。
「騒がしてくてすまんな、ちょっとずらしてみたら出てきたんだ」
上司が申し訳なさそうに言うので、「いえいえ、そんなお気になさらず。見つかって良かったです」と言って私はデスクに戻った。試供品を使うせっかくのチャンスだと思ったので、私は心の中でため息をついた。親の七光は活躍の場を失った。
親の七光、そんなもの使う機会なんてなかなか来ないと思っていた。けれど、出番は思いの外すぐにやってきた。それも唐突に、しかも我が家で。しかも、試供品をもらったその日のうちに。
少し残業をしてから会社を出たものの、真っ直ぐ帰る気になれず、駅前の本屋さんで鉱物図鑑を眺めてから家に帰った私。肩にかけていたトートバッグを床に置いた拍子に、家の鍵を落としてしまった。家の鍵は楽しそうにフローリングの上を飛び跳ねて、ベットの下に転がり込んだ。
なんて日なんだ、と思ったのも束の間、私は思わず「ついに試供品を試す時が来た!」と叫んでしまった。私は意気揚々とトートバッグから試供品が入った封筒を取り出し、左の手のひらに親の七光を乗せてみた。
親の七光は、相変わらず曇ったガラス玉にしか見えない。本当に発光するのかしら? 私は疑いつつも、とりあえず説明書に書かれた通り、右手の親指で軽く擦ってみた。するとガラス玉がほんのりと光り始めた。
「いけ! 親の七光!」
光り始めたガラス玉を見て、何だか楽しくなった私は、調子に乗って大声を出しながら、ベッドの下に勢いよくガラス玉を投げ込んだ。
ぱりん
勢いよく投げ込んだ結果、ガラス玉はなかなかのスピードでベッドの下を駆け抜け、そのまま壁に激突。ぶつかった瞬間、少し強い光を放ったかと思ったら、儚い音ともに粉々に砕け散り、そして妙な余韻を残しながら消えていった。
砕け散った親の七光を見て、思わず私は「汚い花火みたい」、と思ったことをそのまま呟いてしまった。だって輝き方がくすんだ乳白色で、砕け散った時も破片のサイズはバラバラ。消え方もたばこの煙ように、ゆらりゆらりと変な動きをしていて全てが微妙だったんだもの。
「親の七光なんて使うもんじゃないわね」
私は自分の使い方を棚に上げて文句を言ってから、バッグからスマートフォンを取り出しライトをつけて鍵を探すことにした。しかし、そんなことをするまでもなく、よく見たら鍵はベッドのかなり手前の所に落ちていた。なんだ、探すのに明かりなんて要らなかったんだ。私は自分自身に呆れて、思わず鼻で笑ってしまった。
夕飯の支度のため、昨日の残り物の麻婆茄子とニラレバ炒めを電子レンジで温めながら、ここ最近もらった試供品を思い出して、私はある結論に辿り着いた。試供品で「もらって良かった!」と思えるものがない。
そもそも、タダで配られる試供品で生活に役立つものなんてないのだ。チラシと共に配られるゴワゴワのポケットティッシュが、ギリギリ役に立つかどうかといったところだろう。ポケットティッシュ以外だと、夕飯に貢献してくれたもやしにしかまだ出会えていない。
パッケージデザインに若干こだわりを感じる化粧品サンプルですら、量が微妙で使いにくく、もらっても机やキャビネットの上でほこりを被りがちだ。そして、数ヶ月後に存在を思い出されて捨てられる始末。そう考えると、駅前の意味不明なサンプルなんてもっと使いにくいし、論外だ。私は、「タダでもらえるならとりあえずもらっておこう」という、貧乏臭い考えから卒業することを心に決めた。決めたはずだった……なのに……
「試供品のサンプルを配布していまーす。是非この機会にお試しくださーい」
何も考えずに試供品をもらうのをやめようと決意した翌日、駅前でまた黒いスタッフジャンパーを着た女性が二人、試供品を配っているのが見えた。もうもらいに行くのはやめよう、そう思った時だ。私の耳に興味深いフレーズが飛び込んできた。
「ただいま、不労所得のサンプル配布中でーす。是非この機会にご利用くださーい」
不労所得と聞いて、御し難い衝動に襲われた私は、周りの人たちと同じように、黒いスタッフジャンパーを着た女性の元へと吸い寄せられて行った。