アーシアの笑顔
胞子事件の患者の往診でまだ度々、レンは出かけているようだったが、アーシアはもう必要ないようで、ここ何日かゆっくりしていた。
そんな昼過ぎアーシアは、天気も良く風も心地良いので、ぼんやりと空でも眺めたい気持ちに誘われて西の中庭に出た。殺伐とした砦だけど普通の人達も多く働いていて、皆が過ごし易いようにと心を配ってくれているようだった。東西南北の敷地に四つある中庭も、そのような人達の手が入っていて綺麗だ。ここは水の庭園らしい。中央に大きな噴水があり勢いよく水を噴き上げて曲線を描いている。
アーシアは噴水の縁に腰かけ、水面を覗きこむ。水中には綺麗な色の魚が気持ちよさそうに泳いいでいた。ふふふと笑う。今度は、水面に映る自分の姿を見て顔をしかめた。
(やっぱり派手だわ)
兄に、〝普通の衣が欲しい〟 と訴えるのに〝それが普通だよ〟と言って取り合ってくれない。
ピチャンと水面の自分を叩いて、後に回した両腕に半身の体重を預けて、ぐうと、反り返り空を見上げた。近くで小鳥のさえずりが聞こえ、水音も心地良くアーシアの耳をくすぐった。遠く澄み渡った空に泡のような雲が流れて行くのを眺めながら心地よい風に髪を預け、さらさらと揺らしていた。
その様子を通りかかったラシードが見止めた。
ひとりで百面相をしていたかと思うと、不安定な格好で空を見上げている。噴水の水しぶきが、きらきらと輝き、幾つもの小さな虹を描いている。彼女の周りで光が踊っているようだ。その中でも一際、目を引くのはもちろん彼女だった。ラシードは不覚にも、一瞬魅入ってしまった。
相変わらず変な奴と思っていたが、あまりにも彼女が同じ姿勢で動かないので、さすがに不信に思って近づき声をかけてみた。
「何をしている、宝珠」
「きゃ!」
アーシアはいきなり目の前に現れたラシードに驚いて腕の力が抜け、水面に落ちそうになった。咄嗟にラシードは助けようと手を出したが、彼女に巻き込まれて、二人まとめて噴水の内側に倒れこんでしまった。内側の水は浅いものの、ラシードはアーシアを庇うように受身で倒れ込んだので頭から水をかぶっている。アーシアはラシードの胸元に倒れ込んだけれど、彼の身体は水の中、当然、一緒にびしょ濡れになってしまった。
(な、なんでこうなるの!)
瞬間、倒れ込んで抱き合ったような状態のまま二人とも声も無く、見つめ合った。
先に瞳を逸らしたのはラシードの方だった。ふいっと瞳を伏せ、相変わらずの冷淡な口調で言った。
「早くどいてくれないか宝珠」
アーシアは、カチンときた。
「そもそも、あなたが急に来て驚かすからでしょう!」
「騒ぐのは、後にしてくれ宝珠」
(宝珠、宝珠と、いつもまともに私の名前呼んだことないんだから!)
「私の名前は、宝珠じゃありません! アーシアです!」
アーシアは起き上がろうとして、ぬめりに脚をとられて、再びラシードの上に倒れ込んでしまった。
「うわ、ごめんなさい!」
(あ、つい謝ってしまった。このひとには二度と謝らないし、お礼も言わないと誓っていたのに!)
声に出さなかったものの、心の中で思った事が表情にしっかり出ていた。水に濡れた髪が顔に張り付くのも構わず、頬は紅潮し憤然として瞳が輝き見返している。
それを見て取ったラシードは乱れた前髪をかきあげて、珍しく軽い口調で言った。
「今日は、優雅に礼をしてくれないの?宝珠?」
彼は前回、アーシアが嫌味にしたお礼の件を言っているようだった。
「な、なんですって!誰が二度とするもんですか!あなたは私のお礼なんか、いらないんでしょう!」
ラシードは、しらっ、と返す。
「そんな事は無い。先日は大変素晴らしいお礼を頂戴して感激致しました」
「嘘ばっかり!意地悪!」
アーシアは憤懣の言葉を投げつけ、怒った勢いで再度起き上がろうともがいたが、又、倒れ込んでしまった。
「もう!馬鹿!馬鹿!」
自分に悪態つく。
その様子を見たラシードは思わず、くすりと笑った。
アーシアは驚いた。彼の楽しそうに笑った顔なんか見たことなかった。いつも無愛想で、冷めていて、笑うといっても嫌味な笑みしか見たこと無かったのだ。
アーシアが呆然としている間にラシードはアーシアごと起き上がり、彼女をひょいと抱きかかえて噴水から脱出した。
ラシードはまだ目元が笑んでいる。いつになく饒舌に喋りだした。
「さあ、お礼はしてもらえそうにないが、ずぶ濡れの宝珠をこのままにしては心が痛むので、お部屋までお運びしよう」
「ええっ!」
アーシアは瞳を見開いてぎょっとした。
「けっこうです!降ろして!」
もがいてみるが、びくともしない。
「暴れないでくれないか。その豪華な衣が水を吸って今日は、かなり重たいのだから。それとも最近は良く食べて重くなったのかな?」
「ほっといて頂戴!自分で歩きます!」
抱きかかえられたままアーシアは抵抗したが、ラシードは愉快そうに受け答えしつつ降ろそうとしない。二人は回廊に所どころ、水溜りを作りながら通って行った。彼らを見かけた者達は、ラシードらしからぬ様子に驚いて、立ち止まるものさえいた。それに後日、誰かに話してもきっと信じてくれないだろうと思った。笑うのはもちろん表情を崩すこともほとんど無い、氷のようなラシードが笑いながら、しかも宝珠嫌いの彼が宝珠を抱いて歩いていたのだから―――
部屋に到着したアーシアは、やっと降ろしてもらった。
それでは、と立ち去るラシードにアーシアは慌てて声をかけた。
「待って!」
アーシアは急いで引き出しから乾いた大きめの柔らかな布を取り出し、背伸びをしてラシードの頭にかけた。ふわりと花の香りがする。アーシアは悔しそうに、ちょっと瞳を逸らしたが、いつものようにラシードの瞳を見返しながら言い難そうに、ひとこと言った。
「お礼です」
ラシードは、くすりと笑い、それはどうも、と言って出て行った。彼は自室に帰りながら、頭にかけてもらった布を肩に掛け直し顔をふいた。やわらかな花の香りが鼻腔をくすぐる。ふと気分が軽くなる感じがした。久しぶりに笑った自分に驚いたが、彼女のむきになった様子が面白かったのだ。ラカンが〝天敵〟 を見るようだと言ったが正にそんな感じ。
いつも会えば、可愛らしい顔に 〝あなた嫌い!〟と書いてある様だ。好かれなくて結構だが臆する事無く対等に話す彼女には、少なくとも好感は覚える。
(好感?)
ラシードは、ふと浮かんだ感情に馬鹿らしいと自ら否定した。
ここ最近、ゼノアの転生期のせいか大規模な戦いはなく、束の間の平穏な日々が続いているようだった。そんなある日、カサルアは出かけていたのでアーシアはある事を実行しようと思いたった。街に出て普段着を買いに行こうと計画していた。しかし、ここから抜け出すのはかなり難しい。結界はもちろんだが自然の要塞に守られている為〈龍力〉無くては不可能だ。
アーシアは計画通りに、一緒に行ってもらうと思っている人物を探し回った。その人物を南の回廊で見つけて走り寄った。
「イザヤ、お願いがあるの」
イザヤはいきなり現れたアーシアを見下ろしながら聞いた。
「どのような?」
「街に連れて行って欲しいの」
アーシアが、悪戯っぽく微笑んで言うと、イザヤは少し驚いて訊き返した。
「街?」
「そう。もちろんイザヤの都合がつけば、の話だけど・・・一、二時間でいいの」
「何をしに?それにカサルアは今日、不在だから許可を取れませんが」
イザヤの言葉にアーシアは反発した。
「カサルアの許可なんていらないわ。私の自由でしょ!それに内緒で行きたいし。衣を買いたいの、それも普段着を。カサルアが用意してくれるのは全部、正装でしょう?他を頼んでも聞いてもらえないから、自分で用意するの」
イザヤは何度か、衣を巡っての二人のやり取りの場にいたので事情は察しがついた。カサルアに許可なく出かけていいものか迷うが、自分を純粋に頼ってくるアーシアのお願いに弱い、逆らう事が出来ない。
(自分もすっかりカサルア状態だな・・・)
「分かりました。今日は、下に行く予定があるので、その時に」
アーシアは、ぱぁと明るく微笑んで、イザヤに抱きついた。
「ありがとう! 良かった。イザヤなら味方になってくれると思ったわ!カサルアへの言い訳もよろしくね」
アーシアは、そう言うなり弾むように駆けて行った。イザヤは見送りながら一応カサルアには連絡しておこうと思い、彼への弁解を何通りか考えながら歩きだした。
そこはこの州のなかでも一番大きな街でかなりの賑わいをみせている。また流通の要のため商人は賂を監察官にたっぷりはずんでいて監視の眼も甘い。それで砦からは、かなり距離があったので彼女達はイザヤの用事もあり、次元回廊でやってきた。
アーシアは目立たない簡素な衣を着て来た。以前からこの日の為に、世話係りの女性に頼んで譲って貰ったものだった。
彼女は売り買う人々の活気に目を輝かせて辺りを見回していた。
「あ、あそこ行ってみましょう」
イザヤの腕を引きながら言う。
「アーシア、人が多いので離れないように」
「ありがとう!そう言えば・・・今日、ルカド一緒じゃないの?」
「ルカドはもしもの時の連絡の為、残してきました。何かあれば直ぐ帰れるように」
「さすがイザヤね。じゃあ、呼び出しが来ないうちに済ませましょう」
アーシアは張り切って人混みに入って行った。
ルカドとはイザヤの弟で契約した〈宝珠〉である。あの四人の龍の中で〈宝珠〉持ちはイザヤだけだ。女性型の多い〈宝珠〉の中でルカドは珍しい存在だ。〈龍〉の女性型が少ないのと同じで〈宝珠〉の男性型は非常に少ないのだ。
ルカドはアーシアの年齢とさほど変わらないだろう、まだ青年と呼ぶにはまだ二、三年は要する感じだ。イザヤと同じ色の銀の髪と銀灰の瞳を持つが雰囲気は全く異なる。容姿を誇る〈宝珠〉だが、雰囲気が可愛らしく細身で背も高くないので、今はまだ少女の格好をしていても判別出来ない感じだ。だからアーシアとふたりで並んでいるとまるで姉妹のようだった。
性格は大人しく、従順で常にイザヤに付き従っている。契約した〈龍〉と〈宝珠〉は行動を共にする事が多く、お互いの位置は離れていても常に分かると云う。
同じ頃、ラシードとラカンもこの場所へ立ち寄っていた。
「おお!おお!ラシードちょっと見てみろ!イザヤとアーシアだぜ!何やってんの?まさか、まさか、逢引か!」
ラカンは見つけた方角を指差して、隣にいるラシードにまくしたてた。
遠くだったが衣装店で座りこんで見ている二人は確かに目立っていた。簡素な格好をしていてもアーシアの容姿は損なうことないうえに、その店には到底似つかわしく無い〈龍〉が付き添っているのだから。衣を選んでいる様子だ。アーシアの両肩には違う種類の衣が掛けられ、それをイザヤが意見を言っているようだ。
「ん~迷うな」
「どちらかと言うなら、これは季節からすると彩色が弱すぎで、こちらは暗めの色合いだですが季節に合い、あなたの髪がより引き立つと思いますが。それと、こちらもいいと思います。組み合わせると良いかと・・・」
イザヤは淡々と客観的な意見を述べながら他も勧める。何れも素材は高級品だが装飾は控えめで上品な品揃えのものが多いようだ。アーシアは頷きながら、嬉しそうに答えた。
「イザヤの意見とても参考になるわ。しっかり理由を言ってくれるし、趣味も良いのね。カサルアは可愛いか綺麗しか言わないもの!」
「カサルアの選ぶものは、本当に似合っていると私は思いますが?」
アーシアは少し頬を膨らませて言う。
「着飾らせるのは〈龍〉が〈宝珠〉を見せびらかすものだと思うわ。龍の自己満足よ。私は全く必要だとは思わないもの!」
「それはまた、厳しい意見。確かに我々龍は〈宝珠〉を自慢したい性分だから。特に美しい〈宝珠〉は格別です」
イザヤは苦笑して言った。普通の『宝珠』は、当然のように着飾る。その存在自体、生きた貴石なのだから―――宝珠のその姿に龍は憧れ、契約後は〈力〉を誇示するため龍は宝珠を美しく飾る。当たり前なのだがアーシアは反感を覚えるみたいだ。イザヤは勿体無いなと思う。いつも苦労するカサルアに同情を覚えるのだった。
「迷うものは全てお買いなさい。迷うのは良いと思う証拠だから」
「とんでも無い!勿体無い!」
「私が買いましょう。それならよろしいでしょ。店主、それらを全て貰おう」
「駄目よ!イザヤ!そんなにいらないわ、ああ!駄目!」
「言ったでしょう。〈龍〉は美しい〈宝珠〉に弱いのですから。こちらは嫌いですか?」
「嫌いじゃないけど・・・」
「では、好きでしょう。これも」
「ええ!駄目!き、嫌いです!」
「嘘はいけません。でも、嫌いなら店主!他を!」
アーシアは、どんどんイザヤの術中にはまってしまう自分を呪った。そうイザヤは 〝否〟 と言わせない男だった。店の主人は、買ってくれるのかどうか、二人の会話に一喜一憂して見守っている。
「ひゃあ~衣選んでいるみたいだぜ!恐ろしいもん見た!あのイザヤがだぜ。アーシア言っていたもんな 〝イザヤは親切で、優しい〟 とか! 本当だったんだ! うひゃ~」
ラシードは二人の様子を見ていて気に入らなかった。
(イザヤに笑って話かけているなど・・・)
イザヤは、他人を全く信用しない。いつも隙なく自分の周りに壁を廻らしているようだ。又、何か言えば倍返しで正論がかえってくる。とにかく付き合いにくい奴だ。
(――まあ、人の事とやかく言えたものでもないが・・・)
「あんな風に笑っているの見た事ない――」
ラシードが低く呟いたのを、ラカンは呆気らかんと言った。
「ええ! ラシード。笑いかけてもらった事無いの?」
「そんな事はないが・・・」
もちろん笑いかけてもらった事はあるが・・・皆とどこか違うのだ。打ち解けているかと思ってもすぐに引っ込めているようだった。黄葉を見に行った時は少し違ってはいたが、それ以降はやはり、よそよそしい態度だった。
「ふ~ん・・・そういえば、お前が居る時はアーシアの態度違うもんな。そりゃ、お前が冷たくするからだろう。アーシアはいつもああだよ、とりすました〈宝珠〉達と違って、にこにこ笑っていて、素直で可愛いんだから。あのイザヤも、あの様子なら彼女の虜だね。もちろん俺も!声かけてこようぜ」
ラシードは再び二人を見る。胸の内側から湧き上がる暗い小さな塊を感じたが、この感情を何と呼べばいいのか分からなかった。
(気にいらない・・・)
何故そう思うのか解らない。あの宝珠が何をしようが、誰といようが自分には全く関係ないのに。誰にでもなついて愛敬ふりまいているのが気に入らないのか・・・?
(いかにも〈宝珠〉らしいじゃないか。〈龍〉に自分を高く買わせようとしているだけだ。しかし・・・自分にはいつも苦虫つぶしたような顔をして・・・〈龍力〉は自負している。それになびかない〈宝珠〉はいない筈―――)
ラシードはラカンを無視して足早に、もと来た道に戻って行った。
「おい、待てよ。急に何だよ! おい、待てったら、おい!」
有能な冷酷無比系のイザヤは好きなんですよ。好みとしてラシードが出来たはずなのに被るキャラを出してしまいました。滅多に微笑まない人がヒロインにだけ微笑むのは王道パターンですが、それが好きなのでキッチリその場面は今後も随所にいれてます(笑)