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ある日親父が釣りにいくぞって車に乗せてくれた。親父はほとんど家にいなく父親てよりたまに家にいるおじさんって感じだったが釣りと言われテンション上がっていると途中女性が乗り込んできた。年齢は30代後半くらいに見えた。愛想がよく高級そうなお菓子をくれた記憶がある。
その日は3人で楽しく釣りをした、なんだか母親の前より親父は表情が多く本当に家族みたいに思えたが子供なりに気を使い言葉にはしなかった。帰りも女性を送り届け笑顔で分かれて数日が経過し学校から帰ってくると母親が真面目な顔で2階に呼びつけた。
「どっちと暮らすか決めなさい」
妹三人が泣きだしそうな顔で正座している姿を見て俺は震えた。怖かった、その場の空気に身が小さくなり声が上手くでなかった。最初に母親は妹三人に聞くと母親側につくと言い最後に俺に聞かれたがビビッてろくに考えもせず妹達と同じ答えを出すと初めて親父の泣き顔を見た。
「お前ら元気でやれよ」
大人が涙と鼻水を垂らし震わせた声で言った言葉は強烈に記憶に残っている。次の日から親父は俺の世界から消えた。しかし寂しいや悲しいという感情はない、唯一残ったのは喜びだった。
「8の段まで言わないと飯抜きだぞ」
小学3年生ぐらいだった頃うるおぼえだが親父に九九を叩きこまれた。2年生では誰もが言える九九を一切言えない俺を見て親父なりに焦ったんだろう。とにかくスパルタで帰宅したら1時間は頭を捕まれ怒鳴られて九九を叩きこまれたと思う。
しかし生まれつきなのか努力が嫌いなのか俺は俺なりに頑張っても九九が言えなかった。親父は算数だけではなく他の教科も無理矢理にでも叩き込んだが俺の泣き顔しか見れなかったと思う。今振り返ると親父も必死だったんだなごめんな。
「コマタぁお前出来ないと居残りだからなぁ」
担任の熊田に算数の授業に出された問題が授業中解けず昼休みも教室に残り出されたプリントを睨んでいた。最初は自分なりに考えていたが昆虫が考えた所で学んだ記憶にさえない問題が解けるはずもない。結局昼休み全て使っても熊田と俺との沈黙だけ。
「出来たら声をかけろよぉ、質問でもいいぞ」
放課後居残り日が傾く教室で俺と同じく成績が悪いのか女子と熊田がいた。最初の頃は熊田にこれはどうやって解くんだと聞きき、こーゆ公式を使いやれと言われたがその公式はどうやるんだと言ったら小学3年生からやり直すかと言われ席に戻った。
連続1週間も居残りすれば俺は慣れた。夕方5時くらいになると熊田が声をかけて細かく問題の解き方を解説してくれるが、その解き方の解き方がわからず生返事で終わらす。たぶん熊田もわかってたと思う。こいつはダメだと、あんな時間まで付き合ってくれてありがとうな。
「コクまた居残りかよぉ」
その頃の俺の楽しみはバスケだったが毎日の居残りのせいで練習はろくに出来なかった。ただ唯一の取り柄は体力だった、幼いころから家が貧乏で自転車が買って貰えず友達と遊んでも自転車の中で俺だけ走ってたから多少は体力ついたと思う。
バスケは楽しかった、大好きなバスケ漫画を読んで明日はこんな風に練習しようとか、こうやってドリブルしたら相手を抜けそうだなとか俺は初めて自分で考えて実行していたと思う。技術面より俺の体力を評価したのかバスケ部を預かる顧問は俺をレギュラーにして試合を組んだ。
「コマタァ!! そこじゃない」
顧問が試合中叫びタイムアウトを取ると白いホワイトボードに赤いマークがついた磁石を見せて最初に説明された作戦を再び俺にだけ教えれくれた。そこでは理解しても試合で走り出すと頭から欠片も残らず消え去る。
ドリブルを徹底的に叩き込まれた俺は速さだけは相手チームにも負けておらず個人のプレイなら使えるが作戦が理解してないせいでパスは全然違う所に出す。だんだんチーム全体のリズムが狂っていき前半が終了し5人のレギュラーが顧問の前に立つ。
「コマタお前は味方がボールを取ったら何も考えず相手のゴール下まで走ってパス貰ってシュートだけしろ」
顧問のこの単純明快な作戦は驚くほどハマり試合には勝利はしたがレギュラーからは外された。当然な結果だが当時の俺は納得出来なかった、一番得点を挙げたのにと頭の悪い理由で怒っていた。思えば小学5年生あたりからだろうか、俺が頑張るのをやめたのは……元々致命的な頭の悪さだったのに努力すら手放した。
「コク今日も居残りかよ。俺達先いってるぞ」
友達が昼休み楽しそうにバスケをしていく背中を見送り窓からグラウンドを眺めながら時間が立つのを待つ。この頃になると熊田とは阿吽の呼吸、お互い言葉も交わさずとも石のように固まる。それは放課後も変わらず居残り2時間無言。
一緒に残ってた女子は努力したのか途中から問題が解ける速さが上がり居残り組から消えた。不思議な空間だったなぁ、熊田と俺だけの2時間、夕焼けを眺めて顔を少し熱くしてたと思う。プリントすら見なくなった俺を見て熊田はどう思ったんだろうな。
「コクお前馬鹿のまんまだなぁどうすんだよぉ」
「知らねぇよ~うははは」
学年が上がり6年生になるとクラスで俺はピエロみたいな扱いだった、頭が悪くていつもケラケラ笑ってたからなぁ、家も貧乏で頭も悪いともう馬鹿をやって人の気を集めるしかなかったんだと思う。その頃は学校にずーといたかった家に帰りたくなかった。
「何見てんだ」
母親が新しく家に招いた男が絵に描いたようなチンピラで恐怖の毎日だった。殴られる蹴られるのは当たり前で俺は泣き喚くと更に暴力を振るわれだんだん口数が減っていった。
小学5年生の最後の冬か6年生になっての冬か忘れたがリビングのコタツの周りを母親がチンピラから逃げながらグルグル回ってたのを覚えている。
「助けてヤスオ!!」
長男で唯一の男に母親は咄嗟に助けを求められコタツの中で震えあがっていた俺はチンピラの前に立つ。顔を見ただけで怒り狂ってるとわかり俺が言葉を出す前に拳が飛んできてボコボコにされた。どうなって気を失ったかわからないが気が付いた時は病院だった。医者ではなく看護婦に顔の傷を消毒されながら俺は俯いたまま言葉を漏らす。
「俺以外病院に運ばれてませんか。母ちゃんと妹達はこなかったですか」
看護婦が君だけだよって言った瞬間泣いてしまった。無力さと情けなさといろいろな感情が溢れ出し声はなるべき出さず泣いた。家に帰ると母親が明日からお婆ちゃんに家に行こうと言い出した。
どうやら前々から酷い暴力だったチンピラに母親が我慢できず警察にまで相談して家を空けて婆ちゃんの家まで避難という事になった。しかも母親の方でなく出ていった親父の方の婆ちゃんだったが孫が可愛いのか受け入れてくれた。
「では警戒していますので」
警察官が数人婆ちゃんの家の外を見回ると事態に子供ながらやばいなって思った。それから数日でチンピラは消えて元のアパートに戻ったがいつあいつが現れるのかとビクビクしていたのをよく覚えている。学校では怪我が目立ち友達に気を使われてあえて触れないような空気を感じ取ったが苦手だった。
そんなに腫れ物に触るみたいな扱いされるのならまだ馬鹿にされてネタにされた方がマシだったが俺の勝手な意見だ、同級生が怪我ばかりして学校に来てるんだから気も使うわな。
だから俺は馬鹿をやった。怪我なんて気にならないほど皆を笑わせようと思い思いつくままに馬鹿をやりまくったがそっちの方が楽だったと思う。