再会;兄貴の決断
兄貴が突然の宣言。アメリカに留学すると言う。
お袋は来日した友人を兄貴に紹介するが、そいつは有名な大学教授。お袋にハグしたMITの教授!いったい、どんな関係なんだ!
俺達も兄貴も目が点になった、再会瞬間・・・
昨日、3月1日は俺達の誕生日だ。
俺達は18歳の誕生日に高校を卒業した。
レイラは女子校での12年間の努めを満了した。
価値観が違う、女の園での生活から開放され、レイラは生き生きしている。
卒業式が終わった途端にヒマワリも大人の顔を見せるようになった。
俺は女達の変化に戸惑っている。
昨夜も遅くまで、ヒマワリや兄貴のナオと4人で話し込んだ。
俺は久々にピアノの音で目を覚ました。時計を見るとまだ9時だ。
兄貴か、レイラか、どちらが弾いているのだろうか・・・?
ピアノの置かれた居間では、レイラとヒマワリがピアノを囲んでいる。
「なんだ、レイラか?」「何だ、はないでしょ!」「何やってるんだ?」
「ヒマワリさんと昨日のレオの演奏について話していたのよ」
俺は分が悪くなったので退散しようとしたのだが・・・運悪く兄貴に捕まった。
「レオ、調度いい。珈琲を入れたぞ。一緒にどうだ!」
「うん、まぁ良いけど・・・」「俺も、お前の演奏が聴きたくてなぁ!」「止めてくれよ!」
「だって、ヒマワリさんたら、私の伴奏じゃ歌ってくれないんだから・・・」
ヒマワリを見ると赤くなって俯いている。「皆さん、お上手なんですね。私、驚きました。」
「上手なのはレイラと兄貴でしょ!俺は駄目!」「えっ、お兄様もピアノを弾くのですか?」
「ええ、たしなむ程度ですが・・・」「またぁ、ナオが一番、上手いでしょうが!!」
「凄い、聞かせてください。」「そうだなぁ・・・」兄貴がもったいぶって珈琲を手にした。
「熱いうちにどうぞ!」ヒマワリに珈琲を勧めている。
「ヒマワリさんの声を聴きたいから、一曲プレゼントしましょうか?」
「えっ、私なんかとっても・・・」「私も弾くから、聴かせてお願い」とレイラ。
確かにヒマワリの声は優しく美しい。俺は昨日のヒマワリの歌声を思い出してゾクっとした。
兄は「貴女に」と言ってショパンを弾き出した。「花の歌」レイラが口を尖らす。
ショパンはレイラの十八番だ。ヒマワリがうっとりと聞き入っている。
ナオの気障な言葉はカチンと来たが、まぁ、ヒマワリが喜んでいるのなら・・・。
兄貴は調子に乗って『月光』も演奏した。ベートーベンは兄貴が最も好む作曲家だ。
レイラが次に『子犬のワルツ』を演奏した。ヒマワリが子供のように喜んでいる。
曲が終わるとレイラが「次はヒマワリさん」と言ってピアノの前を空けた。
「私ですか?・・・私はピアノは弾けません」「お願い、歌って!昨日の曲を!」
ヒマワリが困ったように俺を見た。「俺もヒマワリの歌声が聴きたい」
ヒマワリがコクリと頷いた。兄貴とレイラが手をたたいた。
二人ともピアノの前に座らない。「レイラ、伴奏して」「駄目なのよ」「何で!」
「さっきも頼んだけどレオ以外の伴奏では歌わないって!」「なに〜ぃ!」
俺は墓穴を掘ったのだろうか・・・ヒマワリは困ったような視線で俺に助けを求める。
絶体絶命、昨日は二度と触れないと決めた鍵盤に早速触る事になろうとは・・・俺はピアノの前に座った。
ヒマワリのためでなきゃ、ピアノなんて弾くものか!
俺はヒマワリの目を見て、大きく息を吸い、鍵盤に指を落とした。
伴奏に続いてヒマワリの澄んだ声が響く。優しく、切なくアベマリアが流れる。
俺はヒマワリの声を全身で吸収しながらピアノの音を鳴らした。
最後の一音まで大切に、手を抜かずに奏でた。
余韻が消えるとレイラと兄貴が拍手した。気が付くとお袋も加わっている。
「素敵だわ、ヒマワリさん、とても優しい美しい声だわ。レオは幸せね!」とお袋。
「何が?」「ヒマワリさんの歌を聴いて判らないの鈍感ねレオは・・・」とレイラ。
「俺やレイラの伴奏ではこの歌声は聞けないね」と兄貴。
「ピアノが上手いかどうかじゃないのよ。レオの伴奏は素敵ね!」とお袋。
なんだかよく判らないが、からかわれているのではなさそうだ。
本気でヒマワリの歌声を誉めているらしいが俺には判らん。音楽好きが勝手に言っていろ!
ヒマワリは教会の聖歌隊で小さい頃から歌っているらしい。
専門的に歌を習ったわけではない。それを知って兄貴が驚いている。
「良かったね、レオ、一曲だけ弾ける曲がインベンションで!」口の減らないレイラだ。
「貴方達に相談があるのだけど」お袋が話し始めた。
「昨日、会った友人がね、今日も一緒に食事をしたいって言ってるの。
良ければボスも連れてきたいって・・・、どうかしら?お二人をお招きして良い?」
「昨日のお友達って大学の先生でしょ?」とレイラが尋ねた。ナオが割り込む。
「そうだ、俺が留学を予定しているMIT《マサチューセッツ工科大学》のチーフ研究員だ。
彼は大学教授だから連れてくるボスと言うのは主任教授だろう。学会で来日している」
「そうなの!えっ留学!ナオ、留学するの?」「ああ、その心算だ」
「彼らは兄貴と話をしたいんだろう?どうして、俺達家族まで・・・?」
「アメリカでは普通だろう!家族ぐるみの付き合いは・・・本当のところは、安易な発想だろ」
「安易って?」「単に、一緒に中華料理が食べたいんだろ、横浜で!」
「そうね!食いしん坊のフィリップならそんな所かしらねぇ!」二人で笑っている。
「母さんと彼は仲が良いんだろ!」「ええ、留学した時に一緒にチームで研究したから・・・」
「いいよ!俺は!」「私も!」「ヒマワリさんは?」
「えっ、私は家族じゃないのだからお邪魔になります」「何で!」
「そんなことはないわ、貴方達3人のバースディパーティーだと言ってあるもの」
「でも、外国の方と・・・」「嫌なら無理しなくても良いよ」
「嫌なんじゃなくて、私、英語が・・・」「日本語でいいんじゃない!」と兄。
「えっ?」「言葉なんかどうでも・・・」ヒマワリが不思議そうな顔で兄貴を見た。
「必用があれば誰かが通訳するだろうし、彼の日本語も楽しいから・・・」
「なんだ、日本語を話せるのですか?」「君の英語と同程度かな?」「・・・」
ヒマワリがにっこりと笑った。「賛成してくれるの?」「はい、怖がるのを止めます。」
「それは素敵だ、ありがとう」
母は予約人数を変更するようにとナオに指示した。
ナオが店に電話をかけに部屋を出るとヒマワリが話し出した。
「私、昨日から変なんです。今までなら絶対に出来と思ってやらなかった事を試してみたり、
とても無理だと思ったことが出来たり・・・最初から出来ないと諦めるのは止めます。
怖がる前に試してみようと思って・・・そうしたら、無理だと思っていた事が出来たの・・・」
母がヒマワリを見て満足そうに笑いながら話した。
「大人になるってそういう事かもね。一つずつ勇気を出してトライして世界を広げて・・・」
ヒマワリがにっこりして頷く。
俺も蛹が蝶になるようにヒマワリが大人に近づいた事を感じていた。
「レオも大人にならなきゃね!」「レイラに言われたくないね」
「二人とも充分に子供に見えるけど・・・」お袋に言われて俺達は笑い出した。
「兄貴が留学するって話だけど、何時頃から出ていたの?」俺がお袋に尋ねた。
「昔から、留学したいと言っていたけど、具体的な話をされたのは今年の初めよ。
それで友達を紹介しようと思ったのよ。ナオの師事する教授と知らずに・・・」
「ふ〜ん、ラッキーだね。兄貴は!大学院は卒業して来年、行くんでしょ?」
「別にアメリカでも修士の単位は取れるんじゃない?」
「そうなんだ・・・。でも、驚いたでしょ!」
「そうね、フィリップがナオの指導をする事になるとは・・・」
「フィリップさんとは留学した時の知り合い?」「そう、研究室の仲間よ」
「ふ〜ん!向こうも驚いたろうね。」「ふふふ、多分ね」母は意味ありげな笑い方をした。
『フィリップ氏に昔の母とのいきさつを聞いてみよう』(心の声)
「でも、ナオが居なくなると困るなぁ・・・」「レイラは何が困るんだ。」
「デートの相手が居なくなるじゃない。レオが相手じゃ、一寸ね!」
「俺だってゴメンだ!」「昨日なんて酷いのよ!彼氏の自慢大会だったのよ?
発表会、演奏会とそのたびに衣装を準備する馬鹿らしい生活とはお別れだわ。ホッとする。」
「ところで、彼氏の居ないお前はどうしたんだ?自慢できないだろう!」
「もち、ナオがエスコートしてくれたわ!昨日、顔を合わせたどの男性よりも素敵よ。注目の的」
「兄貴だって知らないのか?」「そんなのどうでも良いじゃない。」
「ナオは動きも洗練されているし、格好が良いわよ」「俺は?」「子供じゃない!」
「お前と同じ年だぞ!」「同じ年じゃ、男は幼稚だわ・・・アッ、ゴメン。」
レイラがヒマワリに謝った。ヒマワリは微笑んでいるが・・・謝る相手は俺だろ!
「ヒマワリさん、レオはちゃんとエスコートしてくれた?」「ええ、素敵でした」
ヒマワリがはっきりと答えたのでレイラが少し驚いている。
「手を出された時は一寸、驚いたけど・・・手を引かれてピアノまで連れて行ってくれたの!
王子様が現れたようで、夢の中に居るみたいで、不安が飛んでしまいました」
ヒマワリが頬を染めて語る。今度は俺が赤くなる番だ。
「腕を組んで歩いたの?」「馬鹿、手を貸しただけだ。腕ではない。お前こそ・・・」
「当たり前じゃない!ナオと腕を組んで見せびらかしたわよ!ナオは素敵だもの!」
全く、兄貴もレイラには甘いから、奴の言いなりである。
お袋はいつの間にか出かけたらしい。
レイラとヒマワリはお昼に何か作るのだとキッチンでごそごそ始めた。
ナオと二人になるのは久しぶりだ。俺はさっき飲み込んだ事を口に出した。
「兄貴はレイラに甘いよな。奴の彼氏のフリしてやるなんて・・・」
「でも、変な男とデートされるよりましだろう?」「そりゃ・・・」確かに道理!
「それより、レオ、俺が家を出たら、お前に後を任せて大丈夫か?」
ずし〜んと響く、兄貴の一言だった。
「家を出るって、先の話だろう?」「いや、来月、渡米するつもりだ。」「・・・」
「まぁ、相手次第だが、多分、そうなると思う」「お袋は知っているの?」
「気付いているんじゃないか?あの人は勘が良いから」「何も言わない?反対してない?」
「反対どころか、俺をけしかけている。自分も経験しているからじゃないかなぁ」
「・・・」「お前には済まないと思うが・・・」「何で?」「お前に負担がかかるだろう?!」
「レイラと母さんを頼むな!」「頼むって言われても・・・」
俺にはまだ実感がない。兄貴の居ない生活って・・・。
「レイラが泣くだろうな、兄貴を大好きだから・・・」「もう泣かれた」「話したの?何時?」
「彼女が合格して祝いにブレスレットを買ってやった日に、でも、何時渡米するかは言っていない」
「それで奴はスキー場まで俺を迎えに来たわけ?」「そうかも知れない」言葉が途切れた。
俺は兄貴との会話の重さを受け止めきれずにいた。俺は潰されそうな重圧を感じていた。
俺達はヒマワリとレイラの作ったパンケーキにクリームでデコレーションしたものを食べた。
まあ、味に関して何も言わんが、俺は甘い食事は好まないとだけコメントしておこう。
女達は食事と言うが、俺にとってはオヤツである。
朝がスコーンで昼がパンケーキじゃ・・・今夜の中華が今から楽しみである。
中華街や元町にも久しく行っていないので、早めに出かけてウィンドウショッピングを楽しむ事になった。
兄貴がスーツ姿なのに俺がセーターではまずいかと一応、ブレザーを着ていくことにした。
女達は色々と上下の組み合わせや色の配置を変えおしゃべりを楽しんでいる。
ヒマワリがレイラの服を着るとレイラが着た時と全く印象が違う。
見覚えのある洋服が、今までと全く異なる着こなしをされると新鮮に感じるから不思議だ。
レイラはアクセントを使い強いインパクトを与えるか、ヒマワリは同系色で優しくまとめる。
個性か好みかは判らないが、身に付け方で衣服も別の表情を見せる。
レイラはチェックのスカートとピンクのシャツ、黒のブレザーに決めたようだ。
ヒマワリはフリルの可愛いチョコレート色のスカート、白のタートルのアンサンブル。
俺は茶のタートルに黒レザーの上着、ベージュのパンツにした。
・・・と言ってもレイラから情報を仕入れた、兄貴の見立てである。
ナオはその辺がマメである。兄曰く、同伴者を引き立てるのが男の役割とか!
だから、プレイボーイかと思うとあまり浮いた噂は聞かない。
俺は高校時代はスエットとトレーニングウェア、ジーンズがあれば充分だった。
私服が殆どなかった、がら空きの俺のクローゼットに兄貴の部屋から引越してきた洋服が並ぶ。
考えてみたら、大学に行くのに私服が必用な事に気付いてなかった。
兄貴の運転で山下に向う。海沿いの公園をぶらつき、元町でお茶をして中華街へ・・・。
「これって、デートコースじゃない?」とレイラ、「よく雑誌に載っているコースだ」と俺。
なのに何故か女二人と男二人がペアになる。元町で洋服を眺め、レースなどの小物を見る。
中国の物産を扱う店では綺麗な小物を見て女性二人ではしゃいでいる。
俺とナオは余り近づかずに傍観するしかない。
ナオは土産の準備なのか、スワロスキーとレース小物を買っている。
俺達が中華料理店に到着すると何時も、滑り込む母が先に着いていた。
店の人が部屋で待つよう勧めるので席に案内してもらった。
丸テーブルの置かれた個室である。
部屋に着くと直ぐに兄貴の携帯が鳴った。
「店の場所を間違えて別館に居るみたいです。迎えにいってきます。」
兄はゲストを迎えに出て行った。別館と言っても数十メートル先である。
間もなく、ドアが開き「お待たせしました」「フィリップようこそ!」(会話は日本語である)
フィリップの巨体の後ろから兄貴ともう一人の男性が姿をみせた。
母の表情が固まった。そして・・・「リチャード?・・・本当にリチャードなの?」
初対面の男性は両手を広げた「マリア」?????マリアって誰だ?
次の瞬間、俺は信じられない光景を見た。母がその男と抱き合ったのだ。
「リチャード」「マリア」、ウェストサイド物語じゃないぜ!(ウェストサイドの主人公はトニーとマリアである)
子供の前でラブシーンか?此処は日本だ!ハグなどするなよ!
こっちが恥ずかしくなるではないか!レイラもヒマワリも驚いている。
沈着冷静な兄貴さえも驚きで、目が点になっている。
フィリップが一人、悪戯っ子のような顔でニヤニヤしている。
−−−此処からは英語である。俺の判る範囲で同時通訳する−−−
「君を脅かそうとリチャードを連れてきました。」フィリップが母に言った。
「主賓は?」と母。フィリップは黙ってリチャードを指す。
「貴方がMITの主任教授なの・・・信じられないわ」と母。
「フィリップだって教授が勤まるんだ」とリチャード。
「おいおい、それはないだろう!・・それよりナオ聞いてくれ。
君のママから紹介されるまで、僕は君がマリアの子だと知らなかったんだ。」
「マリアって?」「ああ、ゴメン、当時のママの呼び名なんだ」「何で?」
「リチャードは日本語が下手でね。『ミヤビ』も『コヤナギ』も発音できなくて」フィリップの説明。
「洗礼名でマリアと呼んでいたんだ。でも、僕だけが許されていた」とリチャード。
「仲が良かったのですね。皆さん」と兄貴。
「僕とリチャードでマリアの取り合い」とフィリップが言うとリチャードが咳払いした。
「マリアと呼ぶのは私だけだ!」フィリップが大げさに両手を広げた。
クスクスとヒマワリが笑う。
−−−−−−−
「みなさ〜ん、席について食事にしましょう。私は空腹です。ミヤビは私とリチャードの間に!」
フィリップが日本語で言って、それぞれが席に着いた。
紹興酒を注文し、3人は再会を祝って乾杯した。
母が家族を紹介した。フィリップの隣に座ったレイラ、そして俺、ヒマワリ。
ヒマワリのことを母は、俺とレイラの友人と説明した。
フィリップは日本語が中々上手だが、リチャードはそれ程、上手ではない。
来日経験が何度もあるフィリップと、日本へは初めてのリチャードだ。
リチャードは「マリアの国を訪れる勇気がなかった」と説明した。
それでも母の母国を知りたくて日本語を独学で勉強したと付け足した。
「お母さん、もてたんだね。昔は・・・?」と俺が言うと、「『昔は』が余分よ!」と母。
「ナオ、ミヤビは研究チームの男性の憧れだった、僕も彼女が大好きだった」とフィリップ。
「私は真剣にマリアを愛していました。マリアは私を残して日本に帰った。」とリチャード。
母の昔にそのようなロマンが有ったのか・・・。
「あのリチャードがMITを代表する教授ねぇ・・・」母が感慨深げにいう。
「僕だってMITの代表選手よ!」とフィリップ。
確かに世界のトップと言える研究者達がここに並んでいる。普段見られる光景ではない。
−−−この先は英語と日本語が混在---
「フィリップ、貴方は私を母の知人として受け入れたのですか?」と兄貴が尋ねた。
「いいえ、先も言ったが、私は昨日まで貴方がミヤビの息子だと知りませんでした。
久しぶりにミヤビとデートできると喜んで会いに来たら貴方がいたのです。」
「私も母の友人が貴方だと知って私も驚きました」
「君がミヤビの息子だと最初に言えば良かったのですよ、ナオ」
「フィリップ、君は昨日、僕に内緒でマリアに会ったのか?」とリチャード。
「君も誘ったじゃないか。日本の美しい女性に一緒に会いに行こうと・・・」
「昨日、アクシデントがなければ私はミヤビを我々の滞在するホテルのバーに誘った。
そして、リチャード。君を呼び出す心算だったよ。ナオが現れて計画が狂った」
食事をしながら、話が進む。
「ナオは優秀な研究者になります。私に預けなさい」リチャードが母に言った(英語)
「貴方が言うなら、間違いはないわね」「勿論」(英語)
リチャードは兄と母と言葉を交わすことが多いが、フィリップは俺達に話しかける。
それも英語と日本語がごちゃ混ぜである。
俺は英語で聞かれると自然に英語で、日本語の時は日本語で返事を返す。
最初は少し緊張している様子だったヒマワリも巧みなフィリップの話術に乗せられている。
何時の間にか頬をそめて、英語で語っている。俺が聞き入っていると彼女も気付いた。
「あっ、嫌だ、私ったら、下手な英語で話している」「何が嫌ですか?」とフィリップ。(日本語)
「私、英語があまり得意でないから・・・」「そんな事有りません。上手です」(英語)
「本当に?」「貴方の言うこと、私は理解できます。それでOKです。違いますか?」
フィリップの質問にヒマワリが困っているようなので俺が助け舟を出した。
「日本では読むことと書く事で学校の成績が決まります。
僕は幼い頃からNZに遠征に出かけています。
日常会話は出来ますが、英語の成績として評価されません。」
「日本は興味深い評価をするのですね」
「はい、私も日本の英語教育は好きでは有りません」とレイラ。
「英語が話したければアメリカにいらっしゃい。皆さんなら何時来ても歓迎します」
「そうね。それが一番早いかも・・・」レイラが意気投合している。
一方では兄貴とリチャート、お袋が難しい議論をしているようだ。
「ミヤビもリチャードも消化に悪いよ」とフィリップが日本語で水を差した。
意味が理解できなかったらしいリチャードにナオが英語で説明する。
フィリップがゲームをしようと提案した。
フィリップとリチャードは英語以外で話す。日本人のメンバーは日本語以外で話す。
「スワヒリ語でも良いの?」俺が尋ねると「いいんだよ!話してご覧」とフィリップが笑わせる。
次の料理が運ばれてきた。給仕が日本語で料理を説明する。
フィリップが何かを尋ねた。給仕が驚いたように中国語でまくし立てる。
「フィリップは中国語も話せるの?」とレイラが英語で尋ねる。「少しね」
「説明がわかったの?」「半分だけ・・・」ヒマワリが楽しそうに笑った。
フィリップは日本語が結構話せるがリチャードはかなり怪しい。
独学で覚えた日本語なので会話の経験がない。母の英語の方がずっとましだ。
下手な日本語で話すのがじれったくなったのだろう。
リチャードが突然ぺらぺらと話し出した。『おかしい、単語か拾えない』
何語なんだ?母も同じ言語で返事を返した。
「ドイツ語だ、この速さでは聞き取れない」とナオが英語で言った。
「そうなのよ。二人は僕が居てもドイツ語で二人だけの会話を交わすの。昔から!」
フィリップが補足して大笑いだ。
「ぎぶあっぷ!」とフィリップが宣言してゲームは終わった。
フィリップが俺に「二人だけで会話を楽しまれたら面白くないよね!」と言って笑った。
普段は口にする事のないフカひれ、ツバメの巣、あわび、車えびなど豪華な料理が次々と出てくる。
俺が少々、もてあまし気味なのだから、量もバッチリだ。
レイラやヒマワリがもてあますと、俺と兄貴が加勢する。フィリップも喜んで手伝う。
フィリップは食べる事に熱心だが、リチャードは母に夢中だ。
兄貴と話したり母と話したり・・・といっても兄貴は付け足し。
いささか満腹になったところにチャーハンが出てきた。
「私、ぎぶあっぷ」「私も・・・」
俺も満腹だが・・・一口味わうと、このチャーハンが超美味い。
結局、母との話に熱中するリチャードにも分け与え、残りはフィリップと兄貴と俺で平らげた。
ぎぶあっぷと言っていたレイラもデザートは別腹らしい。ぺろりと戴く。
リチャードは母と別れがたく、ホテルで一緒に飲もうと誘っている。
兄貴はフィリップと専門用語を交えて早口の英語で打ち合わせている。
母がぱちんと手を打った。「OK。うちで話しましょう」
「ナオはフィリップと何を打ち合わせるの?」
「主任教授にプレゼンするので、準備を彼が手伝ってくれる。」
「主任教授ねぇ・・・」母はリチャードをチラリと横目で見た。
リチャードが早口で母に何か言っている。
どうも、「ナオの研究が価値あるものか否か、自分で聞いてみれば判る」と言ったような!
お袋はMITの教授と一緒に研究が議論できるレベルの技術者なのだろうか?
俺は興奮でゾクゾクした。もしかしてお袋や兄貴は凄いエンジニアかも・・・。
「じゃあ、私達は少し山下公園を歩いてタクシーで帰るから」
「了解、先に帰ってお風呂沸かす?」「お布団もお願い!」
「判った。」車に移動しようとすると・・・フィリップが付いてくる。
「私はお邪魔虫ね!」とフィリップ。
リチャードがフィリップを誘った。フィリップが「僕は若い美人と先に行く」と答えた。
母とリチャードの後ろ姿を見ながら「彼らは25年ぶりの再会なんだ」とつぷやいた。
母達は船で港内観光をしてから戻ったと後で聞いた。
俺達は車内で話が弾んでいた。フィリップの話はとても楽しい。
帰るとフィリップの相手を兄貴に任せて俺は風呂をレイラは寝具を準備した。
兄がフィリップに2階のシャワールームを使うか日本式の風呂が良いかを尋ねた。
日本の風呂には興味があるが、シャワーを借りたいと答えた。
フィリップに着せようと兄貴が自分の普段着を探すが、Lサイズの服も彼には小さい。
上着は何とかなるが、兄貴のスエットパンツでは小さいかもしれない。
彼は兄貴のサッカー用の短パンを身に付け「これが良い」とくつろいだ。
太目の彼はどうやら暑がりのようだ。
俺達は珈琲を飲みながら若き日の母のロマンをフィリップから聞いた。
「素敵ですね」「ママにそんなロマンがあったなんて・・・」女性たちは感激している。
「でも、何故、母は日本に戻ったのですか?」俺が聞くとフィリップが答えた。
「私は詳しく聞いていません。リチャードは聞いたかも知れませんが私には語りません」
「触れては行けない事なのかも・・・」と兄貴。
「聞くべきでは有りません」とフィリップが強く主張した。
母達が帰宅した。
リチャードは意外な事に日本式の風呂に入りたいと言う。
入り方は知らないが興味があると言われ、俺が付き合うことにした。
リチャードに日本式の入浴法を教えながら、母の若いことのことを少し聞いた。
彼は真剣にマリアを愛した。そして、マリアも私を愛していたと言った。
息子に対してかなり過激な発言だが、はっきり主張するのは文化の違いかも知れない。
風呂を出るとスエットと浴衣が準備されている。
彼は迷わず浴衣を広げ、和式のローブだと喜んだ。
俺はすばやく自分の衣服を身に付けリチャードの着付けを手伝った。
母はリチャードが浴衣で現れたのを見て微笑んだ。緑茶を入れて勧める。
彼が日本のしきたりに合わせて日本人を知りたいという気持ちが伝わってくる。
「リチャード、ずるいね!」とフィリップがからかった。
「私は日本式が好きなんだ」「日本には行かないと言い続けたのに・・・」
「マリアの国に行くのが辛かっただけだ」・・・本当に25年間も掛かったの???
「書斎に行く?リビングで飲む?」母に聞かれてリチャードは首をかしげた。
「マリアの仕事の話を聞けるか?」「勿論」「ならば、書斎へ」「判った」
母はナッツとチーズなどの簡単なつまみを準備して彼を書斎に案内した。
その後の二人の会話は俺は知らない。二人の25年間が埋まったのかどうかも・・・。
しかし、昔の恋人に仕事の話を聞きたいと言うのでは甘い言葉は期待できないような気がする。
兄貴はフィリップと自分の部屋に移動した。プレゼンがどうのと会話している。
研究の話でもするのだろう。
翌日、彼らは母の作った味噌汁とアジの干物、ご飯、香の物という純和風の朝食を取った。
一つ和式でないのは、食事の後で兄貴の入れた珈琲を満足そうに飲んだ事。
布団で眠ったのは初めてというリチャードも日本式の寝具を気に入った様子だ。
「では、後ほど待っているから・・・」と兄貴に言って二人はホテルに引き上げた。
彼らは今日の午後から講演があり、その後で兄貴の研究報告を聞くのだと言う。
「母さん、疲れているところを悪いけど、僕のプレゼン見てくれる?」兄貴が頼んでいる。
「良いけど、私が聞いても・・・」「じゃあお願い」
兄貴はノートPCを持って母の書斎に入っていった。珍しく、兄貴が緊張している。
MITの教授に研究をアピールするのは確かに大事に違いない。
午後からスーツを着た兄貴はパソコンを持って彼らの講演に出かけていった。
帰宅後、お袋に・・・。
「嫌になるよ。今日、母さんに『工学である以上は実現の可能性と効果を検討しなくては』
と意見されたでしょ」
「意見じゃなくて、コメントよ」「そのことを話したんだ」「・・・」
「フィリップはそれはそうだ、ミヤビには参ったね」だって。「リチャードは?」
「彼はマリアの意見は正しい。我々研究者は謙虚に研究に向き合わなくてはならないって」
「そう、リチャードが・・・あの、リチャードがね」と微笑んだ。
実はフィリップに聞いたのだが、学生時代は研究に夢中になり暴走しがちで有った、
方向性を失うリチャードとチームを母が現実に引き戻す役割をしていたとか・・・。
母の笑いは、昔を思い出したのかも知れない。