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灰色少女に幸福を

作者: kunai

 森の中にある小さい家。それが灰羽はいばねの住処だった。

 灰羽の家は代々続く魔法使いの家柄で、彼自身も物心つく前からそんな環境で暮らしてきた。だから魔法使いになることに疑問なんて欠片も抱かなかった。

 灰羽たち魔法使い一族に課せられた永遠の役目は『シンデレラを幸せにすること』。

 それはすなわち王子と結婚させることだった。

 シンデレラを王子とくっつけ幸せにすることが出来れば魔法使いとして一人前と認めてもらえる。そうなればこの不便な森の小屋生活を卒業して好きな国へ旅立てる。

 そして灰羽にもその役目は回ってきた。

 お世辞にも美人とは呼べずとにかく性格が悪い三姉妹の元にやってきたシンデレラは今年十八。

 あの三姉妹よりはるかに綺麗な容姿をした少女は広い屋敷で便利な雑用係としてこき使われていた。

「見た目は合格。年齢も余裕で結婚していい年だし近くにいい感じの年の王子もいる」

 シンデレラが王子様と結婚できる準備は万端だった。しかし。

「条件は全部満たしてる。満たしてるのに……っ!」

 灰羽の代のシンデレラは、今までのシンデレラとは全く違うタイプだった。




「……つっかれたぁ……」

 ペラペラの毛布が敷かれたベッドに倒れ込んだのは、腹黒い三姉妹の雑用係、シンデレラだった。

 腰まである金髪を無造作に一つに束ね、地味な色合いの簡素な衣服を身にまとった少女は今日一日のことを思い出す。

「……あのクソババア、何が『今日は魚の気分じゃないの』だ。文句があるなら自分でメシ作れや」

 誰が見ても美人と認める少女はしかし、大層口が悪かった。

 ちなみにシンデレラがクソババアとのたまうのは今年二十七になる三姉妹の長女だ。ババアと呼ぶにはあまりにも可哀想だが、毎日こき使われているシンデレラは苛立ちを込めて内心そう呼ぶ。

「あのブタとゴボウも『今日はチキンが食べたかったの』『この魚は嫌いだわ』とか言い出しやがって。何がチキンだ偏食野郎。そんなんだから片方はブタで片方はゴボウなんだろが」

 ちなみにブタというのが次女である。恰幅のいい彼女は三姉妹の中で一番食にうるさく、そしてよく食べる。

 もう一人のゴボウというのが三女である。次女と比べて折れそうに細い彼女は好き嫌いが激しく、彼女もまた食に対してうるさい。次女が『あれが食べたかった』と文句を言うのに対して三女は『これは食べれないから嫌い』と文句を言う。

「マジうぜぇホントうぜぇ……!」

「――――絶世の美少女であるシンデレラがその言葉使いってどーよ」

「あ、灰羽」

 シンデレラにあてがわれた小さく古びた部屋の窓にいたのは灰羽だった。

 灰羽の背中には大きな黒い羽が生えていた。これもまた彼の魔法である。自身の背中に羽を生やす魔法によってシンデレラの部屋のある四階に難なくやって来るのである。

 鳥が枝にとまるように窓枠にしっかり足をかけながら灰羽は呆れたような顔で笑った。

「歴代のシンデレラはもっとおしとやかだったんだけどな」

「みんなよく耐えてたわよね」

「そして歴代の三姉妹はいつだって性格悪かった」

「可哀想に遺伝子レベルで歪んでんのね」

 一つも可哀想と感じていない声音でそう言い放ち、まとめていた髪をほどいた。

「……なあ、やっぱ王子様と結ばれてくれる気はねぇ訳?」

「ないわね」

「お前が王子様に求めた条件覚えてるか?」

「金髪碧眼イケメンボイスの好青年」

「それ。満たした奴いんだけど」

「そんな高級物件があたしの手に入るとでも?」

「それを全力サポートして結ばせるのが俺の役目だから」

 もう何度も繰り返された会話だった。灰羽はシンデレラが王子様と結ばれることを望み、しかしシンデレラはそれを拒んだ。

「てかその話これで何度目? いい加減眠たいの、あたし。明日も朝からこき使われんだろうし」

「……悪い、おやすみ」

「ん」

 灰羽が窓枠を軽く蹴る。その体は重力に従って落下し、しかしすぐに羽の音が聞こえた。

 薄い毛布を口元まで引っ張り上げたシンデレラは一人呟く。

「王子様、ねぇ……」

 



 灰羽と出会ったのはシンデレラが十六になった時だった。

「初めまして。シンデレラ」

 いきなり窓枠に足をかけて挨拶してきた青年が普通の人間じゃないなんて簡単に分かった。

「……どちら様ですか」

 何故ならシンデレラの部屋は四階で、青年の背中には黒い羽が生えていたから。

「そこの森に暮らす魔法使いですよ。灰羽と申します」

 にこり、と胡散臭いほど綺麗な笑みを浮かべて自称・魔法使いが名乗った。

「はあ……。で、魔法使いがあたしに何の用です」

 その日もいつも通り散々こき使われて疲労もピークだった。正直さっさと眠りたい。そんな中現れた胡散臭い魔法使い。対応が素っ気ないのは勘弁してほしい。

「俺の役目はあなたを王子様と結婚させることなんです」

「はあ?」

「俺の家が代々続く魔法使いでして……。魔法使いは必ずシンデレラを幸せにしなきゃいけないんです。それをしたら初めて一人前になれる訳でして」

「……つまり? あたしの幸せはどこぞの王子と結ばれることだからさっさと結婚しろと?」

「……まあ、望みはそれです」

 ひどく乱暴な言葉でまとめたシンデレラに灰羽は目線を逸らしながら肯定した。

「ふうん……」

「そのためのサポートは全力でしますよ。ドレスもガラスの靴も――――」

「お断りです」

「————はい?」

 灰羽の説明はシンデレラのたった一言で終わらされた。

「お断りだって言ったんです。王子様との結婚」

「……え、だって、あなたここで酷い扱い受けてるんでしょう? 王子様と結ばれればそんな生活から解放されるんですよ?」

「そうかも知れないけどあたしは嫌です」

 取り付く島のない態度のシンデレラにだんだん灰羽の仮面も外れていく。

「何でですか。あんた、あんな雑用係みたいにこき使われて楽しいんですか」

「楽しい訳あるかバカ。手は荒れるしストレス溜まるし殺してやりたいくらい嫌いだよ」

「じゃあ何で」

「あんた、逆の立場だったらいきなり現れた得体の知れん男に王子と結婚しろって言われて出来るわけ!?」

「……っ」

 それを言われると痛い。さすがに事が性急すぎたか。

「……分かった。お前の方が正論だ。とりあえず対象との信頼関係作りから始めるわ」

「あたしお断りって言ってんだけど。なに勝手に信頼関係築こうとしてんの」

「まあまあ。お前仮にもシンデレラだし、王子様に希望があったら可能な限り応えるぞ? 本気で結婚相手を探すなら俺ほど適材な奴はいない」

「じゃあ金髪碧眼イケメンボイスの好青年で」

「……お前……」

「何よ、可能な限り応えてくれんでしょ」

 呆れたような声の灰羽に眠気で不機嫌になった声で尋ねる。というかこの時すでに意識は半分眠りについていて、後になって思い返しても何を言ったのやら殆ど記憶にない。 

「明日からポツポツ来るわ」

「ああ……、どーぞ……」

 その時バサリと羽音を聞いたのを最後にシンデレラの意識はなくなった。

 そしてこの日を境にシンデレラが寝る前の十分間程度、灰羽は四階のこの部屋を訪れるようになる。




 窓から差し込む光で目を覚ます。ああ、また今日も一日が始まるという誰もが感じるであろう憂鬱感が全身を包む。

 内心、せーの、と勢いをつけて起き上がる。小さいクローゼットから簡素な服を取り出し着替える。雑用係のシンデレラにドレスなんてある筈もなく、クローゼットに収納されているのはどれもこれも似たような型の地味な色の服ばかりだった。

 髪をいつも通り一つに括り、まず真っ先にするのは三姉妹の朝食作りだ。

「何しよっかなぁ~……。サンドイッチ、とかでいいか。確か冷蔵庫に賞味期限ヤバいハムと卵あったろ」

 下級とはいえ仮にも貴族の娘である三姉妹の朝食を、賞味期限がヤバいからという理由でサンドイッチに決める雑用係など、世界中探しても多分シンデレラしかいないだろう。

 シンデレラの予想通り冷蔵庫にあった賞味期限ぎりぎりのハムと卵を取り出しフライパンで焼く。その間にハンパに残って使い道に困っていたレタスとトマトを切る。冷蔵庫の掃除も兼ねて作ったサンドイッチは何だかんだで様になっていた。

 そして綺麗なドレスに身を包んだ三姉妹がテーブルに着く。彼女たちの前に余り物で作ったサンドイッチが置かれた。

「ちょっとシンデレラ、紅茶がないじゃない」

「あ、すいません、すぐに作ってきます」

 たかが紅茶ですら三姉妹とも拘りがあって作るのにコツがいる。

 まず長女は砂糖少なめでミルクやや多め。次女はこれでもかと言うほど砂糖とミルクを加えミルクティーのようになった激甘。三女は紅茶が嫌いらしくカフェオレ。

 一人ひとりに合った紅茶を作れるのに数か月かかった。たかが紅茶ごときでだ。作る度に違うと文句を言われ、何度食器洗い用の洗剤を紅茶に混ぜ込もうと思ったか分からない。

 数か月かかって身に着けた紅茶は三姉妹を満足させたらしい。優雅に紅茶を飲む最中に、シンデレラは食器を洗っていく。

「ああそうだわ、シンデレラ」

「? はい、何でしょう」

 長女が紅茶を飲みながら見下すような笑みを浮かべた。

「今度、国王の第一王子の婚約者を決める舞踏会があるの。私たち、その舞踏会に招かれたのよね」

「はあ……」

 だから何だ、自慢が目的ならこれ以上の時間の無駄はない。あんたと違ってこっちはやることが山程ある。

「この家で一番豪華で綺麗なドレスを三着用意しておいて頂戴」

 ああ、目的はそれか。

「はい、かしこまりました」

 にこやかに対応しつつシンデレラは内心舌打ちした。くそ、余計な仕事がまた一つ増えた。

 さっさと皿を洗い終え、モップとバケツを両手に床を磨いていく。人が必死に雑巾を絞り、床を磨いている傍からハイヒールをカツカツ響かせながら三姉妹が通り過ぎていく。これで殺意が湧かない方がおかしい。煮え滾る殺意を腹の底に沈め、ひたすら無心で磨き続けた。

 そしてドレス選びである。

「自分で選べよクソが……」

 誰にどのドレスが似合うかなんていちいち考えない。ただひたすら豪勢なドレスばかりをピックアップしていく。 

「――――それ、第一王子の舞踏会用か?」

「……っ!?」

 突如、背後から男の声がした。反射的に振り返ると見慣れた黒い服。

「び……っくりしたぁ! 何でこんなとこにいんのよ、あんた!」

 赤やピンクなどの鮮やかで華やかなドレスが大量に収納されている衣装室に全身黒の衣装を身にまとう灰羽は異常に目立っていた。

「この屋敷の警備ザルだなー。廊下の窓から普通に入ってこれたぞ」

 フードを外しながら灰羽が飄々と嘯いた。

 ザルも何も警備員すらいない。この家に勤めているのはシンデレラただ一人だ。

「で、それ」

「ああ、そう、舞踏会用のドレスだけど」

「お前もその舞踏会出てくんねぇ? ドレスはこっちでどーにかするから」

「出ないって前から言ってんでしょ」

「――――頼む。最後の我儘だから」

「……?」

 今までと打って変わったような真剣な声音に無視が出来なかった。

「今日がラストチャンスなんだよ。詳しいことは、言えねぇけど……」

 灰羽が視線を斜め下に下げながら呟いた。こんな姿見たことなかった。

「舞踏会に行けば、あんたの我儘は果たせるの?」

「ああ」

 灰羽の言う『ラストチャンス』が何なのかも分からない。ただ、ここで頷かなければ、もう二度と灰羽と会えない気がした。

「……分かったわよ……」

 シンデレラのその答えに灰羽が安堵したような溜息をついた。

「じゃ、夜にまた来るから。寝るなよ」

 それだけを言い残し、灰羽は踵を返した。一人衣装室に取り残されたシンデレラは無意識に抱えたドレスを握り締めた。




 そして夜。三姉妹の着付けやヘアセットでボロボロになったシンデレラの元に灰羽がやって来た。

「で、あたしは何をすればいい訳?」

「とりあえず馬車。かぼちゃ使うんだけど」

「かぼちゃ昨日食べたわよ。煮物にして」

「……他にかぼちゃって……」

「昨日の傷みかけの奴で最後ね」

「ちなみにネズミも必要なんだけど」

「先週ネズミ駆除してもらっちゃった」

 淡々と返される絶望的な答えに灰羽が頭を抱えた。

「……何かマズかったみたいでごめん」

「……ああ、いいよ。元からお前相手に歴代の方法が通用するとは思ってねぇから」

 人を変人みたいに言うな。

「じゃあ――――飛ぶか」

「は!?」

「今からかぼちゃ掘ってネズミ捕まえるより俺がお前抱えて飛んだ方が早い」

 そう言って灰羽が手招きした。素直に従いシンデレラが近づくとふいに足が地面から離れた。つまり、抱っこ状態。

「ここで身なり綺麗にしても多分飛んでる時に乱れるから。向こうで魔法かける」

「な、んで抱っこ!? おんぶにして!」

「それだと羽広げられねぇし」

 言われてみればその通りだ。この状態で飛ぶのかと思うと急に怖くなり灰羽の肩を握り締める。

「おーよしよし。爪立てていいからしがみついとけ」

 灰羽が窓枠に足をかけ、そして勢いよく蹴った。重力に従って落下する筈だった体は、バサリという羽音と共に上昇する。

「……っ!!」

 高い。思っていた以上に高い。灰羽はいつもこの景色を見ているのか。

「こいつ、ホントに魔法使いなんだ……」

 背中に生える黒い翼を見ながら呟く。

「何か言ったか!?」

 怒っている訳ではないのだろう。ただ風の音で声を張り上げないとこれだけ近距離にいても会話が成立しない。

「ホントに! 魔法使いだったんだなって!」

「お前まだ疑ってたのかよ!」

「今から完全に信じる!」

「遅いけどどーも!」

 そうこうしているうちに舞踏会の開かれる城が見えてきた。城の入り口は何台もの馬車や貴族が見えたので人気がなく城の入り口からそれほど離れていない場所に降り立つ。

「っし、魔法かけるぞ」

 灰羽がいかにもな細身の杖を取り出した。それを何度か振り、シンデレラに向ける。キラキラした光が杖

の先から生まれたかと思えば、それは一瞬にしてシンデレラの体を包み込んだ。

「うわ……っ!?」

 思わず目を閉じ顔の前で腕を交差させる。痛みも何もない。何が起こっているのか分からない。

「もう目ぇ開けてもいいぞ」

 灰羽の声に恐る恐る目を開く。目の前には棒をしまった灰羽。

「灰羽……?」

「服、見てみろよ」

 そう促されて自分の服に目を向け、瞠目した。

「え……、何、これ……」

 着たこともない高そうな真っ白いドレス。足元は透明なガラスの靴で、頭に手を伸ばせば綺麗に結われていることが分かった。

「気に入ってくれた?」

「……ちょっとはね……」

 素直に好きだと認めるのが嫌でわざとそんな風に言った。灰羽もシンデレラの微妙に捻くれた性格を知っているので軽く苦笑するだけだ。

「でもそのドレスがもつのは0時までだ」

 現在の時刻、8時半。あと3時間半か。

「それまでに王子と結ばれてこい」

「あたしと一国の王子様じゃ身分違いも甚だしいわよ」

 灰羽は舞踏会に行けば我儘は果たせると言った。なら結ばれるかどうかは灰羽の我儘の範疇には含まれない。結ばれなくても責められる謂れはない。

「まあ、とりあえず行ってくるわ」

 踵を返し城の入り口に向かって歩いていく。今までペッタンコな靴しか履いたことのないシンデレラにとってハイヒールはかなり辛い。

「シンデレラ」

 呼び止められて、振り返った。

「今までありがとな」

 らしくもなく礼を述べた灰羽にシンデレラは怪訝な顔をした。

「何それ、今生の別れみたい」

 すぐにまた歩き出したシンデレラの背を見送りながら、一人残された灰羽は静かに笑った。

「俺の役目は、ここで終わり」

 今生の別れみたい。シンデレラのその言葉は、ハズレじゃない。

「さよならだ。シンデレラ」




 ひどく朧げな記憶がある。

 まだ灰羽が六歳になったばかりの頃。魔法使いである両親の指導でようやく羽を具現化することができ、この日初めて空を飛んだ。

 飛べるのは人目につきにくい夜だけ。月明かりだけが光源の視界は殆ど利かず安定して飛ぶことも出来ず、すぐに体力が尽きて急降下した。

「うわやば……!」

 なけなしの体力を振り絞り、地面と激突することは免れたがすぐに立ち上がる余力は残っていなかった。

 地面にうつ伏せに転がったまま目だけ動かす。そして今いる場所がどこかのテラスであることを知った。

「人に見つかる前に、飛ばないと……」

 早く飛んで逃げたいのに、息が整わず羽に力が入らない。早く早くと焦るほど欲しいだけの体力が集まらない。

 その時――――。

 小さな音を立ててテラスに面した縦長の戸が開いた。灰羽の心臓が大きく跳ね上がり全力疾走する。目が暗闇に慣れてきたのか白い靴を履いた少女らしき足が視界の隅に映った。

 バレた。どうしよう。こんなところで捕まりたくない。死にたくない。だってまだやりたいことは山ほどある。

 つうっと涙が流れた時、白い靴がこちらに向かって近寄ってきた。

「痛いの?」

 何を訊ねられたか、一瞬分からなかった。

「あなた魔法使いさん?」

 純粋な問いに無視を決め込むか返答するか一瞬迷った。そして。

「……なんで、そう思うの……」

 返答することを選んだ。

 切れる息の合間から質問に質問で返した灰羽に少女は容易く答えた。

「羽が生えてるから」

 ああ、羽、消してなかったか。

 魔法使いかという少女の問いに答えはしなかったものの確実に正体はバレている。今から消してももう手遅れだ。

 灰羽が腕を使って上半身を起こした。改めて目の前の少女を見る。黒髪に漆黒の双眸をもつ灰羽とは対照的な鮮やかな金髪と碧眼が印象に残った。

 ふいに少女が一度部屋の中に戻った。ほんの少しして再び灰羽の元にやってきた少女の手に握られていたのは絆創膏である。そしてそれを灰羽の左頬に貼った。

「ここ、血出てた」

 少女が自らの左頬を指さした。体全体が苦しくてかすり傷の痛みまで認識できていなかった。

「もう怪我しないでね」

 にこりと笑った少女に灰羽は何も言えなかった。魔法使いと魔法使いじゃない奴とでは、同じ人間でも大きな壁があることは両親から教わった。魔法使いは好奇心の対象になりやすい。捕まったら何をされるか分からない。魔法使いじゃない人間と関わる時は十分注意しろと。

 必然的に魔法使いじゃない人間は恐ろしいと思っていた。

 なのに、こんな優しい人間もいるのか。

「……ィ……ア……? ●●●●? どこ行ったの?」

「あ、ママ起きちゃった」

 少女が立ち上がり人差し指を唇に当てた。

「ホントはね、外に出ちゃダメなんだけど。ママが寝てたから、こっそり出ちゃった。内緒ね」

 悪戯っぽく笑い軽い足取りで戸に駆ける。部屋に入る直前、一度だけ振り返り手を振った。

 このままずっとここにいる訳にもいかない。体力もだいぶ戻ってきたし息も整った。もう飛べる。

 羽を震わせ再び暗い空を飛びながら、少女の住んでいる家の大きさに驚いた。これはもう城だ。

「名前、何だったんだろ……?」

 母親らしき女の声は細くて聞き取れなかった。

 魔法の習得でいつもどこかしらに怪我をしている灰羽と違い、怪我なんて縁のなさそうな綺麗な少女を思い出す。

 一目見て分かったのはもう二度と会えないであろう高貴な身分の少女であること。

 つまり、名前が聞き取れていようといなかろうと灰羽には関係ない名前。

 少し成長し、自分が落ちたあの城がこの国を治めるレイアーク家のものだと知った。シンデレラが結ばれる王子のいる城。灰羽たち魔法使いの勝負の場。その程度の認識しかなくそれ以上詳しく知ろうとはしなかった。何故なら。

「社会より実技の方が好きなんだよ、俺」

 レイアーク家の歴史を辿っていくより魔法の習得訓練の方が楽しかったから。

 魔法の訓練をこなしていくうちに月日は流れ、一人前の魔法使いとして認めてもらうための試験が始まった。それがシンデレラを王子と結婚させるという灰羽たち魔法使いに課せられた使命を達成することである。

 この試験が始まると同時に両親は他国へ移住すると言い出した。

「え……っらい唐突だな」

 唖然とした声を何とか繋いだ。

「父さんも母さんももう十分魔法使いとして働いた。一通りの魔法ならお前も問題なくこなせる。この森は静かだが生活がちと不便でな」

「買い物とか、まさか市場まで飛んでく訳にもいかないでしょ? もう若くもないのに重い荷物抱えて森の中歩くのすごく疲れるんだから」

 森での生活が不便なことなんか物心ついた頃から実感している。人目を気にせず魔法の訓練が出来るのは利点だが日常生活に関することでは欠点だらけだ。

「この家はお前に譲り渡す。ただ、シンデレラを幸福へ導いてこの森を旅立つ時は魔法使いがいた痕跡を残さんよう焼くなり何なりしてくれ」

 生活が不便だという動機によって両親はさっさと他国へ行ってしまい、残された灰羽は両親曰くの不便な森の小屋で一人暮らしを余儀なくされた。シンデレラの結婚させるための計画を練りつつ生きていくための生活もこなしていく。

 今まで母親に任せきりだった家事を自分でしてみて改めて気づいた。

「クソだなこの家……っ!」

 日の出ている時間帯しか市場は開いていないがそんな人目のつく時間帯に飛べる訳がない。飛べたとしてもそれは森の中だけに限られ、羽が木の枝にぶつかり何枚か抜けるたびに痛みで顔を顰めた。

 買い物が面倒だという理由とシンデレラに関する情報収集や計画立案で忙しいのを理由に食事や睡眠を疎かにしていたせいか、一人暮らしが始まって一ヶ月が経った頃体重が三キロ減っていた。母親の偉大さに心の底から感服した。

 慌ただしい日々を過ごしていくうちにあの少女の姿はもうぼんやりとしか思い出せなくなっていた。記憶の中で美化されている可能性は高いが、それでもかなりの美人であったことは今でも覚えている。

 順調に成長していればあの少女も今頃婚約者を探す時期の筈だ。もしくは既に誰かの妻となっているか。

「ちっさい頃あんだけ可愛かったなら確実美人になってるだろうし、あの子を伴侶に出来た男は幸せモンだな」

 国王の娘がどこに嫁ぐかは知らないが国同士の繋がりを強めるため、彼女の意思にそぐわない結婚をさせられるのだろう。身分の高い女ほど自由は少なくなる。道具のような扱いに灰羽の不快感は拭えない。せめてあの優しい笑顔が曇らないことを願うばかりだった。

「……懐かしいモン思い出してたな……」

 なぜ急にこんな古い記憶が蘇ったのか。

 多分魔法をかけドレスアップしたシンデレラがあの頃の少女とどこか似ていたからだろう。

「馬子にも衣裳ってやつか?」

 自分の魔法の気配を感じながらレイアーク家の屋根に立ち、シンデレラが聞いたら確実に反論されるであろう感想を抱く。どんな風に反論するのか容易に想像でき思わず口元を緩めた。




 城の中はとにかく色に溢れていた。

 豪華なドレス、きらびやかな装飾品。シンデレラの知らなかった世界がそこに広がっていた。

「人多すぎ……。酔いそう……」

 人ごみを避けるように会場の隅へ移動する。そこから辺りを見渡すと一か所、ものすごい人だかりが出来ていた。恍惚とした表情を浮かべる女の隙間からかすかに見えたのは。

「――――ああ、あれが王子か」

 金髪碧眼イケメンボイスの好青年。ここからじゃ声は聞き取れないし姿も殆ど見えないがそれでも灰羽がシンデレラの無謀な望みを叶えてくれていたことが分かった。

「絶対いないと思ってたのに、見つけやがって……」

 いなかったらそれを理由に舞踏会の誘いを蹴ることが出来る。しかし灰羽はシンデレラの望み通りの物件を見つけ、言い訳を失ったシンデレラは「それでも嫌」と理不尽に誘いを蹴っていた。

「よくやるよなぁ……」

 そう、無意識に呟いた時。

「あの、少しお時間よろしいでしょうか?」

「え?」

 声に反応して振り返ると、目の前には金髪碧眼の青年。つまり。

「王、子様……」

 自分なんか近づく権利もないだろうと思っていた高級物件。当然その姿を拝んだのはついさっきの筈なのに、何故か懐かしかった。

「あ、名前、名乗らず失礼しました」

 少しだけ笑って謝る王子にシンデレラの中で罪悪感が積もる。この国の第一王子の名前を憶えていない方がよっぽど失礼だ。 

「ユウキ=レイアークと申します」

 ――――その名前を、知らない筈がなかった。

「ユウキ……!?」

 不躾にも呼び捨てで呼んだシンデレラに、第一王子は目を見開いた。

「え……? お前、●●●●?」

 ユウキがシンデレラに放った名前はとっくに捨てた筈の本当の自分の名だった。




「何、お前今雑用係やってんの?」

「そーよ。あんたこそ何あの自然すぎて逆に怖い笑顔」

 しばらく彼女と二人きりにさせてほしい。

 第一王子目当てである他の姫からは不満の声が上がったが、それを「すいません、必ず戻ってきますので」という完璧な笑顔で黙らせた。

『その方はユウキ様にとってどんな方なんですか?』

 そう強気に訊ねる姫に。

「何が『私の幼馴染なんですよ』だ。あたしはもっと邪魔な存在だっての」

「お前口悪くなったなー……」

「猫被りなあんたに言われたくないわ」

「昔はまだ可愛げあったってのに」

「何年経ったと思ってんの? 可愛げだけじゃ生きてけない」

 てか、とシンデレラは無理矢理話を変えた。

「婚約者に良さそうなお姫様は見つかった?」

「や? 本当ならお前選ぶ予定だったんだけど」

 ユウキのその言い方が妙に引っかかった。

「……選ぶ予定だったって何。何であたしが来ること知ってんの」

 あの三姉妹のように舞踏会の招待状が出されていたわけでもない。灰羽の願いで急遽参加することになった雑用係の小娘をどうして「選ぶ予定」だったのか。

「……ちょっと不思議な友達がいてさ」

 ユウキの話し方が慎重になる。どこまで喋っていいか探っている。そんな感じだった。

「へえ、奇遇。あたしもね、不思議な友達がいるの」

 お互いがお互いを探り合うような話し方と奇妙に貼り付けた笑み。

「……俺が知ってる不思議な友達は全身真っ黒で時々羽が生える優男なんだけど」

「あら、全く同じ」

「……そしてその優男は魔法使いだ」

「やだ、あたしの知ってる不思議な友達と一緒」

 完璧な笑顔でそう言い終わった瞬間、シンデレラが身を乗り出しユウキの胸倉を掴んだ。

「何であんたが灰羽のこと知ってんの!? あたしの知らない何を知ってんの!?」

「胸倉掴み上げるお姫様なんか聞いたことねえな……」

「何言ってんの? あたしはお姫様じゃなくて雑用係だっつーの」 

 ギリ、とユウキの胸倉を掴む手に力が篭もる。

「いいからあたしの質問に答えなさいよ」

「答えてやるからこの手どけろよ」

 指示通りシンデレラは手を緩め自分の席に着いた。息苦しかったのかユウキが軽く喉のあたりをさする。

「で、何であんたが灰羽のこと知ってんの」

 しつこいくらいシンデレラの前に現れたあの男。そしてユウキの前にも現れたあの男。

 思えば全てが謎だった。何でそこまでしてシンデレラを王子と結婚させたかったのか。どこに住んでいて何をして生活しているのか。そして――――。

「…………」

 ふと、気が付いた。

「なあ、唐突だけどさ。お前、灰羽の本当の名前知ってるか?」

 あたし、灰羽の本当の名前すら知らない……――――。

 愕然とするシンデレラに、頬杖をついたユウキが口を開いた。



 

 遡ること三年前――――。

 ユウキが十五の頃、母親であるユリンが原因不明の病に冒された。

 レイアーク家当主にしてユウキの父親である男は自分の妻が病に冒されたと知っても一度も見舞いに来なかった。そんな男を父親だと認識するのも馬鹿らしく意地でもあの男には頼らなかった。

 街の医者に藁にもすがる思いでユリンの容体を見てもらったが告げられる言葉は残酷なものばかり。どれも信じたくなかった。

 ただ横になる母親の手を握ることしか出来ない自分に嫌気が刺した時。

「こんばんは。レイアーク家次期当主さん」

 ばさり、という羽音と共に、聞いたこともない男の声がした。

 反射的に顔を向ければ窓枠に足を掛けて微笑する黒い羽の生えた男。明らかに人間じゃなかった。思わず身を固くし後退る。

「そんな警戒しなくても別にあんた喰おうとか思ってねぇから」

 不安定な窓枠の上で男は苦笑した。母親の寝室のあるこの部屋は三階にあり、信じられないが背中に生えている羽でどこからか飛んできたとしか考えられなかった。 

 黒い男は緩く笑みを浮かべたままつい、とユリンを指さした。

「その人、あんたの母親だろ? 医者ですらお手上げの病に冒された母親を前にあんたはどうすることも出来ない。当たり?」

 奥歯を噛んで押し黙るユウキに男は耳を疑う言葉を投げた。

「俺ならその病気治すことが出来る」

 思わず目を見開いた。初めて表情の変わったユウキに男が笑みを強くする。

「魔法使いなんだよ、俺」

 それはお伽噺の中だけの存在と思っていた。けど今そこはどうでもいい。魔法使いでも何でも、母親の命を救ってくれる誰かが欲しかった。

「本当に……?」

「その代わり、俺にも条件がある。そんな難しい条件じゃない筈だけど」

「条件?」

「今度、あんたの婚約者を決める舞踏会開く予定あるだろ?」

 興味なさすぎて頭の片隅に追いやられていたが確かにそんな話は上がっていた。

「あるけど」

「それ、延期にしてくんね?」

 この男の真意が分からない。ユウキの婚約者を決める舞踏会を延期にしてこの男に何のメリットがあるというのか。

「理由は何でもいい。あんたがいいなら舞踏会当日に俺が魔法で軽い発熱起こさせる。とにかくまだ開催しないでほしいんだよ」

「それは……、別にいいけど」

 ユウキの承諾に男が軽く微笑んだ。

「ありがとな。変な条件って思うだろ?」

 その通りだったので思わず頷いた。

「我儘なお姫様が言うこと聞いてくんなくてね」

 それが本当なのか嘘なのか、苦笑を貼り付けた顔からは判断できなかった。

「あんた、名前は?」

「……ユウキ。ユウキ=レイアーク」

「ユウキか。俺は灰羽」

 ハイバネ、と口の中で復唱する。

「変な名前」

「まあ、本名じゃねーし」

「じゃ本名は?」

 ユウキのその問いに灰羽と名乗った男は悪戯げに笑った。一体何パターン笑顔を常備しているのか、一つ一つの笑顔が違うこの男から目が離せなかった。

 右手の人差し指を口の前に立て、短く。

「内緒」

 そう言った。

「魔法使いが本当の名前教えるのは生涯ただ一人だからな」

「それ、結婚相手?」

「そーなるね」

 自分とは住む世界の違う人間にユウキの興味は尽きなかった。聞いてみたいことがどんどん頭から湧き出てくる。好奇心旺盛、コミュニケーション能力最高ランクのユリンの息子として育ったユウキである。灰羽に害がないと分かるとあとは簡単だった。

「魔法使いとか単純にすげえ興味あるんだけど」

「俺が答えられることなら答えるけど。どうせ治療も一回じゃ終わんねえし」

「何回かに分けてやるってことか?」

「延命系の魔法は何回にも分けてちょっとずつやってかねえと負担デカくなるからな」

 そしてその日を境に三日に一度のペースで灰羽はユリンの自室に訪れた。灰羽がユリンの治療を始めて一週間が経過した頃、医者からユリンの容体がかすかに回復していることを告げられた。

 灰羽は舞踏会の開催を遅らせること以外何も求めてこなかった。父親との間でその話が持ち上がる度にユリンに似て口達者なユウキはひらりとかわす。どうしてもかわし切れなかった時は灰羽に頼み魔法で発熱を引き起こしてもらった。

 それがおよそ三年続いた。街医者の処方する薬でも効果が現れるまでユリンの容体は回復し、同時に舞踏会開催を延期にさせる言い訳もそろそろ底についてきた。むしろよく三年間もその場しのぎの言い訳を見つけられたと我ながら感心する。

「ごめん、この言い訳で多分最後だ。次はもう舞踏会が開かれる」

「や、正直ここまで延期させてもらえるとは思わなかった。助かる」

 もう魔法は必要ないだろう、という灰羽の診断から三年がかりの治療は今日で最後となった。

 この魔法使いと会えるのも、多分今日が最後だ。

「灰羽んとこの我儘なお姫様は説得できそう?」

 その我儘なお姫様が一体どこの誰なのか、三年経っても教えてはくれなかったがそう訊ねてみた。

「説得させてやるよ」

 自信ありげに笑う灰羽にユウキも笑った。

「あー、最後に一つだけ、条件出していいか?」

「何?」

「俺の我儘なお姫様、口は悪いし性格も難ありだけど根はすっげえいい奴なんだよね」

 灰羽にそこまで言わしめるどこかの姫に合ってみたくなった。

「舞踏会開いたらさ、そいつ選んでやってくんね? 口は悪いけど顔はいいから。そこは保障する」

「灰羽の保障付きなら安心できそうだ」

 第一王子の妃の座を狙う派手で猫被りな姫よりも灰羽曰くの我儘なお姫様の方がはるかに惹かれる。

「当日はそいつに真っ白いドレスとガラスの靴履かせるから。髪はお前みたいな金髪な」

「了解。楽しみにしとく」

「……ホント、ありがとな。これでさよならだ」

 ざっくりとした説明と別れの言葉を述べると灰羽はいつものように窓から飛び去った。あの羽音と声をもう聞くことはないのかと思うとほんの少し寂しさが押し寄せる。

 そしてその二週間後。ユウキの婚約者を決定する舞踏会は豪華絢爛に行われた。案の定、妃の座を狙うキラキラした姫に取り囲まれる中、とある後ろ姿が目についた。

 シンプルな純白のドレスと鮮やかな金髪。こういった場に不慣れなのか会場の隅の方で立ち尽くしていた。

 完璧な笑顔で姫の囲いから抜け出し、立ち尽くす少女に歩み寄る。

「あの、少しお時間よろしいでしょうか?」

 ユウキの声に少女が勢いよく振り返った。灰羽の情報通り綺麗な顔をした少女と視線がぶつかる。しかしユウキが感じたのは微妙な懐かしさだった。

「王、子様……」

「あ、名前、名乗らず失礼しました」

 どこか懐かしさを感じる少女に少し笑む。

「ユウキ=レイアークと申します」

 ユウキの名前に少女が目を見開く。そして。

「ユウキ……!?」

 ――――少女に名前を呼ばれて、ようやく懐かしさの正体を知る。

「え……? お前、●●●●?」

  




「――――ってのが俺の知ってる全部だな」

「何、それ……。そんな話、あたし、一度も……」

「そりゃお前にバレたら元も子もないだろ」

 何もかもが初耳だった。ユウキの母親が病に冒されていたことも、治療の交換条件として舞踏会参加を拒むシンデレラを頷かせるまでの時間かせぎに開催を延期していたことも。

「だから俺はそれっきり灰羽と会ってねえんだけど、あいつ元気?」

「元気も何も、あたし会場入る直前まであいつと一緒にいたし」

 魔法で用意してもらったドレスと靴、綺麗にまとめられた髪。らしくもなく礼を述べた姿が脳裏にフラッシュバックする。

 ――――その時、気付いてしまった。

「……ねえ、あんた今、灰羽と別れてから一回も会ってないって言ったわよね」

「? ああ」

「さよならで別れて、それっきり姿も見てないんでしょ?」

「見てねえ、けど」

 シンデレラのどこか切羽づまった質問にユウキも一つ一つ返していく。

「あたしもさっき、そうやって別れたばっかなの!!」

『今までありがとな』

 あの時あたしはなんて返した。  

『何それ、今生の別れみたい』

 あれは本当に別れの言葉だったんじゃないの。今までみたいに羽を生やしてまたあたしの部屋に来てくれると、そんな保障誰もしてくれてないのに信じていた。

「見つけなきゃ……」

「あ、おい……!?」

 ゆらりと椅子から立ち上がり出入り口に向かって走り出す。履きなれない高いヒールのガラスの靴と重いドレスが心底邪魔だった。もっと全力で走りたいのに走る速度を鈍らせる。

 城から出て赤い絨毯の敷かれた階段を駆け下りる。灰羽と別れてから何時間が経った? ドレスの魔法をかけてもらった時が灰羽の姿を見た最後だ。 

「おい……! 待てって……!」

「……っ! 待てる訳ないでしょ!?」

 追いついてきたユウキがシンデレラの二の腕を掴む。それを全力で振り払い、叫んだ。

「あいつがどっかに消えるかも知んないのに! 何にも説明してくれないまま消えようとしてんのに! 待てる訳ないでしょーが!!」

 じっと待ってたった灰羽は何も教えてくれない。説明してくれない。

 ならこっちから聞きにいくしかない。自分の足で見つけ出すしかない。

 残りの階段を全速力で駆け下りる。もうユウキは追ってこなかった。勢いで城から飛び出したもののどこに行けばいいのかなんて分からない。だって灰羽の家すら知らない。

 とりあえず魔法をかけてもらった森に向かって走りだした。月明かりが照らすだけの森に飛び込むのは気が引けたが迷っている時間はなかった。ドレスの裾を引きずらないよう持ち上げ不慣れな靴で走る。途中頬に細い木の枝がぶつかり鋭く痛む。靴擦れを起こしたのか両足が鈍く痛む。日々の雑用でそれなりに鍛えられている筈なのに息が上がって呼吸すら苦しい。

 でも止まらなかった。立ち止まることが怖かった。

「……っ!」

 視界が滲む。違う、泣いてなんかない。何であんな自分勝手な奴のために泣かなきゃなんないのバッカみたい。

 あ、やば、涙、零れそ……っ!

「……っ、お前、何やってんの……!?」

 ユウキの時と同じように二の腕を掴まれた。けど声は今まさに探し求めていた人物のもの。

「灰、羽……っ!!」




 何でこいつがこんなにボロボロになっているのか理解できなかった。

 頬や腕は木の枝とぶつけて出来た傷によって血が滲んでいたし、綺麗にまとめた髪も乱れていた。真っ白だったドレスには泥が付着していて、クッション性など皆無のガラスの靴であれだけ走ったのだから靴擦れだって起きているだろう。

 今日一番幸せになる筈だったシンデレラは何故か泣いていた。灰羽が焦ったように二の腕を掴んでいた手を離す。

「……急に城の中から俺の魔法の気配が消えたと思ったら何でこんなとこ――――」

「全部あんたが悪いんじゃないっ!!」

 いきなり涙交じりの声で怒鳴られた。

「ユウキに全部聞いた! あたしが結婚できるように舞台作ってくれたこと全部聞いた! けどね!」

 考えに考え抜いた末の計画だった。各代のシンデレラを王子と結び付け幸せにすることが永遠の役目である魔法使いの家に生まれて、今までずっとこの日のためだけに生きてきた。

「ねえ。あんた、あたしの本当の名前知ってる?」

「は……?」

 唐突にシンデレラが訊ねた。一瞬考え、そして自分がシンデレラの本当の名前を知らないことに気が付いた。

「……お前はシンデレラだろ」

「違う。それはあたしの本当の名前じゃない」

 先ほどまで大粒の涙を流していたとは思えないほど毅然とした声で否定した。

 ――――ああ、知ってる。

 シンデレラ。その意味が『灰かぶり』なことくらい子供の時から知ってる。

 それが本名じゃないことも知ってる。だが――――。

「魔法使いが対象とするのは『シンデレラになった女』で『シンデレラになる前の女』のことなんか知ったことじゃない」

 返した声は冷たく、突き放したような響きを持っていることを自覚した。

 魔法使いが対象へ過度な干渉を行うことは禁止されていた。情が生まれて正しい判断が下せなくなることを危惧してだ。同時に魔法という特殊な仕事を担う魔法使いが身分を特定出来るような情報を開示することも禁止されていた。

 だから灰羽なんて名前も勿論偽名。ひそかに意味を込めた、しかし紛れもない偽名なのだ。

 灰羽はシンデレラの本当の名前を知らないし、シンデレラもまた灰羽の本当の名前を知らない。

 軽口が叩けあえるくらいまで仲良くなってもお互い何も知らない。なんて脆い関係だろう。

「知らないよね。だからあんな計画立てられたんでしょ」

 灰羽が必死で練り上げ進めてきた計画を『あんな』呼ばわりされた挙げ句、何でそこまで名前に拘るのかも分からず、灰羽は眉を寄せた。

 あの三姉妹の屋敷で働き出した少女を灰羽はシンデレラと判断した。そして実際その少女はあの屋敷でシンデレラ(灰かぶり)と呼ばれ雑用係としてこき使われていた。

 シンデレラと呼ばれるようになって三年が経った。三年間、彼女の本当の名前は誰も知らなかったし誰も呼んでくれなかった。

「あたしの、本当の名前は……っ!」

 捨てたと判断してもいいような名前に、どうしてそこまで拘るのか。




「あたしの名前は、ミレイア=レイアークよ!!」




 十八年前――――。

 レイアーク家の当主とその妻との間に一人の男児が生まれた。

 それがユウキ=レイアーク。

 時を同じくして、もう一人子供が生まれた。

 レイアーク家当主と召し使いの女との間に生まれた女児。

 それがシンデレラだった。

 シンデレラはレイアーク家当主の不倫相手の子供であり、ユウキと異母兄妹だった。

 そんなシンデレラと召し使いの母親は城の一室で軟禁状態だった。

 外で遊ぶことは勿論、部屋の外にも出てはいけない。何でも揃った広すぎる部屋だけが二人の世界だった。

 息が詰まりそうな生活はある女性が部屋を訪れて変わった。

「アーリア! 今日も来ちゃった!」

「ユリン、ありがとう」

 ユウキの母親であり正妻であるユリンはほぼ毎日のようにシンデレラの母親でもあるアリアの元に訪れていた。元々は部屋を訪れることも当主から許されていなかったが強引に許可をもぎ取ったらしい。

「ユウキだって遊び相手は欲しいだろうしさー。こんな部屋に軟禁されてたらあたしだったら発狂しそう。アリアよく耐えてるわよねー」

 さっぱりとした性格の彼女と比べ、アリアの性格はとにかく儚かった。元々丈夫な方ではなかったがシンデレラが生まれてから儚さに拍車がかかった。

 そしてシンデレラが六歳の頃。アリアは亡くなった。

 それと同時にシンデレラは母親の遠い親戚に引き取られた。

 それから十五まで引き取られた家で過ごしていたが、これ以上迷惑はかけられないと母親と同じ召し使いの道を選び、勤め先となったのがあの性格の悪い三姉妹の屋敷だった。

 かつて何でも揃った城の一室で綺麗なドレスと丁寧に梳かれた金髪を揺らめかせ、愛らしい笑顔を振りまいていた少女は、地味な色合いの簡素な衣服に身を包み、髪も適当に一本括りにするだけの口の悪い少女へと変貌してしまっていた。

 あの三姉妹の元で働き始めて三年が経過し、どういう訳か魔法使いと知り合い、異母兄妹である第一王子の十二年ぶりの再会を果たす今に至る。




「……ミレイア、レイアーク……?」

 ――――朧げな記憶の中で、儚げな声が響いた。

 体力が尽きてレイアーク家のテラスに落ちた自分と、絆創膏を貼ってくれた少女。

 そしてその少女を呼ぶ母親らしき細い声は、

「……レィ……ミレイア……?」

 そう、言ってはいなかったか?

「あたしはね、当主と不倫相手の間にできた子供なの。そんな奴が第一王子と結ばれるなんて絶対に許されないのよ」

 王家の家系図にも存在しない、生まれたことを消去された少女。

「……俺の計画、端から間違ってたんだな」

 灰羽の顔に自虐的な、苦笑にも似た笑みが浮かべられた。

 確かに歴史は苦手で避けてきたがそれがこんなところに跳ね返ってくるとは。

 それとも王家の家系図に存在しない少女なら、学んでいたところで意味はなかったのか。

「シンデレラだけど幸せになることは出来ないシンデレラ、か」

 それが、灰羽の生み出した少女だった。

 シンデレラが、否、ミレイアが何かを言いたげに口を開こうとした。それを遮るように灰羽がミレイアの背後を指さす。

「とりあえず、怪我治してやるからそこ座れ」

 そこ、と灰羽が示したのは倒れた木の幹だった。

「魔法で治すの?」

「? ああ」

「なら嫌だ」

「はあ? なんで」

「あんたの手で手当てして」

 変な奴。

 ミレイアの指示で、灰羽が魔法で消毒液とガーゼ、絆創膏、そしてタオルを具現化させた。木の幹に腰かけたミレイアの前にひざまずき、ドレスをめくってもらう。

「うっわ、血まみれ」

 ガラスの靴の表面からも出血していることは明らかで、脱がせてみると予想通りミレイアの足は何か所も靴擦れを起こし血まみれ状態だった。

「この靴硬い。ヒールなんか慣れてもないし」

「全力疾走するように作られてねえからな」

 片手でミレイアの右足を固定しもう片方の手に消毒液を持つ。靴擦れに消毒液をかけた瞬間、「痛いバカ!」と足を振り上げようとしたミレイアの攻撃を、力任せに掴むことで何とか回避する。足を包むとタオルの白が滲んだ赤で染まっていた。靴擦れが起こっている箇所に絆創膏を貼り、左足の手当てを始める。

「なんか、手際いいね……」

「慣れだ、慣れ」

 ものの数分で足の手当ては終わった。絆創膏だらけのミレイアの足が地面に着く前にガラスの靴の血を拭き取る。ミレイアが靴を履き終えるのと同時に細い木の枝に打たれて血の滲む腕や顔の手当てに移った。

「お前、顔……」

「なに?」

「左。血の涙みたいになってんぞ」

「え、うそ、やば」

「あー、触んな余計悲惨なことになる」

 頬に手を伸ばすミレイアの手首を軽く掴み下ろさせる。

 左頬に走った傷からは血が垂れていて泣いた後のようだった。そこにガーゼを貼り手当ては終わる。

「………………ありがとう」

「いーえ」

 長い沈黙の後に聞き逃しそうなほど小さく早口に礼を言われた。 

「ねえ。あんたこれからどーすんの?」

 あたしは王子様と結ばれないのにどーすんの。

 ミレイアがそのことを尋ねているのは明白だった。

「どうってまたシンデレラ探すんだよ」

 魔法使いの存在意義はシンデレラが王子様と結ばれ幸せになること。それを叶えられない魔法使いなんて存在する意味がない。

「そうね」

 木の幹に座ったままのミレイアは叫んだ。

「王子様と結ばれない役立たずなシンデレラなんかあんたはいらないもんね!」




 王子様と結ばれない役立たずなシンデレラなんかあんたはいらないもんね!

 我ながら相手の心を抉るひどい言葉を吐いた。

「そんなん思ってねえよ」

 灰羽は特別傷ついた様子もなく、感情的に怒鳴ったミレイアを冷静に見つめていた。

 なんでそんな冷静でいられるの。

 あんた、生まれてからずっとあたしを王子様と結婚させるためだけに人生かけてきたんでしょ。

 そのための最高の舞台用意してくれたんでしょ。

 それが全部壊れたっていうのに。

 ゼロになったっていうのに。

 至って平静を保とうと強がっている姿が、どうしようもなく癇に障った。

「王子と結ばれなくたってお前はシンデレラだった。最後までサポートはする。金髪碧眼イケメンボイスの好青年? だったっけな、お前の理想。それに見合う奴また見つけて、幸せになれるよう舞台整えてやる」

 違う。違う。

 そんなことしてほしくて叫んだわけじゃない。怒鳴ったわけじゃない。

 あたしが言いたかったのは—――――。

「王子様と結ばれることが幸せなんて誰が決めたの」

 その問いかけに、灰羽が目を見開いた。

「なに、言って……」

「あたしの幸せはあたしが決める! 誰かに決めてもらわなくたって、そんくらい自分で出来るのよ!」

 歴代のシンデレラはそうだったのかもしれない。

 提示された幸せな道をその通りに歩いて、幸せな結末を迎えたのだろう。

 けどあたしは提示された道が幸せだってどうしても思えなかった。

「代わりの男の人ももういらない。好きな人いるからもういらない」

「は? いつそんな奴見つけた。誰だよそいつ」

 怪訝な顔をする灰羽ににやりと笑い、木の幹から腰を上げる。

 歩くとやっぱり足は痛いし、笑った時には頬が痛い。

 全身痛くて痛くて、それでもミレイアが叫んで動く意味は。

 全身黒の男の胸倉を掴み自分の方に引き寄せながら、背伸びする。

 やや前のめりとなった灰羽の目が再び見開かれた。

「…………こいつ」

 唇同士が触れていた時間は多分一秒にも満たなかった。

 超至近距離にある灰羽の顔を見つめ、笑ってやる。

「間抜け面」

 ここまで接近して、初めて気が付いた。

 ああ、こいつ上から下までホントに真っ黒だ。

 黒髪に漆黒の目。服だって真っ黒でフードを被れば表情すら分からなくなるほど。

 金髪碧眼に真っ白なドレスのミレイアと真逆だった。

 お前とは違うと突き付けられているかのように、お互い真逆の姿だった。




 昔聞いたことがある。

「ねえ。過去のシンデレラで王子様以外を好きになった人いなかったの?」  

 いつものように三姉妹にこき使われ、ヘロヘロになったシンデレラの部屋にやってきた灰羽に尋ねた質問だ。

「いるのはいる」

「え、その人どーなったの」

 当然気になってそう聞き返した。

 すると何故か灰羽が泣くのを堪えるような笑みを浮かべた。

「ちょっと残酷な処置をとった」

「……何それ」



「シンデレラの記憶から好きな奴の記憶を消す魔法をかけた」



 反射的に肩が跳ねた。跳ねるのを抑えられなかった。

「もっと他に方法があったかも知れない。けど、その代の魔法使いはそうした」

「酷くないその処置。あたしなら魔法かける杖奪ってへし折ってでも止めさせる」

「お前だとマジでへし折りそうで怖いんだよな……」

 慄く灰羽に先を促す。

「で、その代のシンデレラは最終的にはどうなったの」

「他に好きな奴がいたなんて記憶もないシンデレラは優しくてイケメンな王子に見初められてトントン拍子にハッピーエンド」

 ごく普通に好きな人を好きになっただけなのに、その記憶は勝手に消され、偽りの幸せを手に入れて終わるなんて絶対おかしい。

「あ、じゃあ相手は? シンデレラが好きになった人はどうなったの」

「そいつの記憶からもシンデレラの記憶を消した。変にこじれて三角関係とかに発展すんのを防ぐために」

 淡々と告げられる冷酷な対応にシンデレラは眉を寄せた。

「なんか、魔法使いの思う壺じゃん……」

「記憶操作の魔法とかそこそこ難しいんだよ。それが出来たってなるとある程度実力はある魔法使いだったと思うんだけどな」

「実力はあっても人としての感情が欠落してんのよ!」

「それは否定しない。けど、その時の魔法使いを否定もしない」

「何で!?」

「俺らの目的はシンデレラを王子と結婚させることただ一つなんだよ。それの障害になるやつを消すってのは別に特別な処置じゃない」

 灰羽は違うだろうと根拠もなく信じていただけにその台詞は刺さった。

 だから、意地の悪い質問をしてやりたくなった。

「……もし、あたしが王子様以外の誰かを好きになったら……?」

 意地悪く投げかけた声はほんのかすかに揺らいでいた。

 揺らいだ声の問いかけに、灰羽は少し沈黙して答えた。

「……その時は、俺がお前の記憶も相手の記憶も消すよ」




 その会話が、現実のものになるなんて。

 強気な目のミレイアとは対照的に、呆然とする灰羽は無意識に細身の杖を具現化させていた。

 もし、ミレイアが王子以外の誰かを好きになったのなら――――――。

『……その時は、俺がお前の記憶も相手の記憶も消すよ』

 ミレイアに魔法をかけようと腕を持ち上げる。

 しかし杖の先端がミレイアに向けられるより先に、ミレイアが動き出した。

 杖を力づくで奪い取り素早く身を引く。重いドレスと靴擦れだらけの足とは思えないほど俊敏な動きだった。

「動いたら杖へし折るわよ!」

 強盗のような台詞。人質は杖。杖を片手に叫ぶのはドレス姿の少女。

「勝手に消したら一生恨んでやる! 死んでも許さない!!」

「……返せ」

 思っていた以上に短く低い声が喉から転がり出た。

「返したらあんたは魔法かけるでしょ」

「当たり前だろ」

「じゃあ返さない」

「……っ! 何で俺なんだよ……!!」

 感情という爆弾への導火線は、燃え尽きた。

「俺なんか好きになったって、俺はなんもしてやれねえんだよ!!」

 過去の王子のように。今のユウキのように。

 地位も富も優しさも灰羽にはないのに。与えられないのに。

 今日誰よりも幸せになる筈だった少女は自らその幸せを投げ捨てた。

 幸せを投げ捨てるはめになった原因の一つは、紛れもなく灰羽だ。

「勘違いしないでよ」

 悲鳴のように怒鳴った灰羽と打って変わって、ミレイアが声を発する。

「何かしてもらおうなんて思ってない。あんたと一緒なら、あたしは幸せになれるのよ!」

「…………っ!」

 魔法使いの役目はいつだってシンデレラを幸せにすることだった。

 魔法使いがシンデレラと共に幸せになるなんて、前代未聞だ。

「だから……っ!」

 ミレイアが一度息を吸う。



「だから! あんたの名前を教えてよ!!」



 魔法使いが本当の名前を教えるのは生涯でただ一人。

 それはつまり灰羽の結婚相手となる誰かのことだ。

「名前だけじゃない。ホントは全部。全部知りたい。だってあたし、あんたのこと何も知らない」

 あんなに一緒にいたのに。

 何であたしは何も知らないの。

 何でこんなに言葉が通じないの。

 誰もが抱く『恋する』という感情が、どうしてあたしは許されないの。

 気が付けばミレイアの頬に涙が伝っていた。 

「魔法使いはシンデレラを幸せにしてくれる存在なんでしょ!?」

 あたしは出来損ないのシンデレラだったけど。

 あんたからしたら失敗作のシンデレラだったけど。

 それでも幸せになれる権利があるのなら。

「じゃあ、あたしを幸せにしてよ……!」

 今日だけで一体何回泣いて叫んだんだろう。持ちうる言葉全てを使って言いたいことをぶちまけた。これでもまだ灰羽が拒絶の意思を表すなら、もうミレイアに出来ることはない。

 灰羽はしばらくの沈黙の後、ゆっくり口を開いた。

 もう何年も名乗ってない本当の自分の名前。本名を教えることになる相手が現れるなんて想像もしていなかったし、ましてやそれがシンデレラになるはずだった少女だなんて一体誰が予測できる。

 前代未聞だと詰られても、魔法を生業とする一族の末代までの恥と蔑まれても、それでもこいつに伝えたかった。名前を呼んでほしかった。

「……ル……ィ……」

「え……?」

 口が上手く動いてくれない。

 父さん母さんごめん。俺、一人前の魔法使いに、なれない。

 ここまで育ててもらった両親に心の中で謝って、自分でも笑えるほどぎこちなく、紡いだ名前は。

「……アルト。アルト=シーイング」

 それが、灰羽の本当の名前だった。

「アルト……シーイング……」

「……————っ!!」

 呼ばれた。その声に。シンデレラとして王子と結ばれるはずだった少女に。

「いい名前じゃない」

 強気な笑みがガーゼを貼り付け涙に濡れた顔に浮かべられる。

 その笑みにつられて、灰羽も、否、アルトも苦笑に似た笑みを浮かべた。

「魔法使い失格だな、俺」

「勝手に失格とか決めつけないでよ」

 ミレイアの碧い瞳がまっすぐにアルトを捉える。

「あんたが生涯たった一人にしか教えない名前をあたしは貰った。だから、あんたの全部はあたしのものよ」

 同時に0時を告げる鐘が鳴る。シンデレラの魔法が、解ける時間だった。

 薄汚れた白のドレスや髪を美しくまとめていた飾りが光の粒子となって消えていく。  

 その粒子に包まれながら、シンデレラは鮮やかに、笑った。

「失格だなんて言わせない。あたしにとってあんたは最高の魔法使いよ」

 魔法使いによってシンデレラは王子と結ばれ幸せな結末を迎えるという絶対の定義は覆された。

 魔法使いの視点から見れば、アルトは一人前の魔法使いになるための試験に失敗した落ちこぼれだ。

 しかし、ミレイアの言葉がアルトを救う。

『王子様と結ばれることが幸せなんて誰が決めたの』

 強気で揺らがないあの碧い目が、笑顔が、本人には絶対言わないが、アルトは好きだった。

『あたしの幸せはあたしが決める! 誰かに決めてもらわなくたって、そんくらい自分で出来るのよ!』

 魔法使いの提示した絶対に幸せになれる道をかなぐり捨てて、王子と結ばれることが最良だと信じて疑わない魔法使いを説き伏せて。

『あんたと一緒なら、あたしは幸せになれるのよ!』

 自分の幸せを、自分で見つけたのだ。

 ドレスの魔法が解け、質素な服を身にまとったミレイアがそこにいた。

「やっぱ、その格好の方が似合うな。お前」

 着飾ったドレスではなく。綺麗にまとめられた髪ではなく。

 ほどけた長い金髪を風に遊ばせ、ミレイアは誇らしげに笑った。

「当然でしょ。だってあたしはシンデレラよ」




 シンデレラ。灰かぶりを意味するその名前。

 自分の本名の代わりにアルトが新たに考えた名前は灰羽だった。

『なんであんたの名前、灰羽っていうの?』

 随分前にミレイアからされた質問。あの時は適当に誤魔化した。

 特に意味なんてない。適当だ、と。

 しかしその名前にはちゃんと意味があった。

 その名前が意味するものは。



 灰羽————灰かぶりの少女が幸福に向かって飛び立てるための、羽。

 

 




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