恋した雪女
2011年8月31日、加筆・修正を施し、内容を大幅に変更にしました。
彼女は今までにその感情によって不幸になっていった人間達を山ほど見てきた。
なんて馬鹿なんだろう。互いに傷つき傷つけ合い、更には相手のために自分の命まで投げ出して。
そんな風に思っていた。
だから自分は絶対にそんなもの、恋愛感情なんてもたないと心に誓っていた。
それなのに今、彼女の心の中には一人の男性がいる。
やっかいな相手を好きになってしまった。せめて彼女と同じ妖怪なら良かったのだ。
あろうことか彼女は人間の男に惚れてしまった。
完全に一目惚れだった。
こんな雪山には似合わない、小麦色の肌と輝いて見える、白い歯。
そして何より、見るものを幸せにするあの笑顔。
そんな彼を最初に見た時、顔が耳まで赤くなるのが自分でも分かった。
けれども、自分は妖怪で、彼は人間。
決して姿を見せる事は出来ない。彼はきっと驚いて逃げ出してしまう。だから会えない。
会えなければ話をすることも出来ない。
彼女に出来る事は、この雪山から無事に彼が下山できるのを祈ることだけ。
彼に何があっても、自分はただ見守ることしか出来ない……。
「先刻から何を見ているのだ」
後ろから光を放って現れたのは山の神。身の丈ほどある真っ白な髭が、この雪山の長であることを示している。
「山神様……。いえ、余りに暇を持て余していましたので、この山を登る人間共の様子をただぼんやりと眺めておりました」
「そうか、『ぼんやりと』か……」
山の神の指摘するような小さな呟きに、彼女は思わず顔を赤らめた。そんな彼女を見て、山の神は肩をすくめて言う。
「変な感情を持つのではないぞ。お前だって知っているだろう?今までにも多くのこの山の妖怪が、人間と接触を図って結果的に彼らを殺めてきた。つい20年前にだって雪男の1人が人間の女性を抱きしめて……その後彼は自ら命を絶った。儂らと人間は決定的に違うのだ。お前のその身体だって、人間が触れば一度熱を奪い取って凍死させることになる。儂はもう見たくないのだ、妖怪と人間両者ともに不幸になるのは。その為には人間とは関わらないことが1番なのだ」
「ええ……分かっています」
俯き加減に返事をする彼女に、山の神は強く念を押すようにもう1度繰り返した。
「いいか、絶対に変な気を起こすでないぞ。お前の為を思って言っているのだ」
彼女は山の神の言うことに、頭では納得できたものの、彼を見守ることを止められなかった。
決して接触はしない。遠くからただ見ているだけ。たとえ自分と結ばれなくても、彼には幸せになって欲しかった。だからこの目で彼がこの山を無事に降りて行くのを見届けたかった。彼への思いをここで断ち切るためにも。
彼が小屋に入って行ったまま、もう二日が経った。
あの小屋は下山ルートの途中にある、一時休憩用の粗末な物のはずだ。
ならば二日も入ったまま出てこない、というのはおかしい。
彼の身に何かがあったのかしら……。彼女は不安になった。
少し見に行ってみよう、小さくなって隠れて行けば大丈夫のはずだ。妖力を落とせば、彼に危害は及ばない。
周りの雪に妖力をばらまき、小さくなった体でこっそり小屋へ入ると、そこにはテーブルが一つとその周りに何個かの椅子、奥には小さめのベッドがあった。
そして彼女が見たのはそれだけではない。ベッドの上で横たわる男の姿。
それは間違い無く彼だった。
彼の息は荒く、雪山の中のこの寒さだというのに、額には汗が浮かんでいた。
遠くから一目見ただけで高熱、重病だとわかる。
どうしよう……。彼女は困惑した。
こんな小屋に薬は無く、人を呼ぶ事なんて自分には出来ない。
しかし、だからといってこのままでは彼の命が危ないかもしれない。
悩む彼女の頭にひとつ案が浮かんだ。
山の神の言葉……。自分の身体で彼の熱を奪い取る。
高い熱さえ下がれば、彼はひとりで麓まで降りることができるはず。
だが……。妖力を削った小さなこの体で熱を受け取った自分は果たしてどうなってしまうのだろう?
彼の病状を見る限り、妖力が戻るまで待ってはいられない。
空中を漂いながら決心できずにいる彼女の耳に、か細い声が聞こえてきた。
「……あれ、君は誰だい?」
いけない!彼が目覚めてしまった!
彼女はただおろおろしながら言葉に詰まっていると、彼はゆっくりと言葉を続けた。
「ああ、天使のお迎えか。随分小さく可愛いね。そんな身体で僕を持ち上げられるかい?」
優しい声だった。そして、辛そうだけど優しいその笑顔。
改めて、自分はこの人に恋をしているのだと思った。彼女は彼を怖がらせないように言葉を投げかけながら彼の額にふわりと降り立った。
「私は天使ではありません。ただの妖怪。でも、あなたに危害を加えるつもりはありません。私を信じて下さい」
「ああ、冷たくて気持ちがいい。ありがとう、ありがとう……」
彼の額の上、薄れゆく意識の中、自分の身体が溶けていくのを感じながら、眩い光に彼女は瞳を閉じた。
窓から差し込む光で、ある登山者は目が覚めた。
すがすがしい気分だ、すっかり熱も下がったらしい。一時はどうなる事かと思った。
ベッドから降りようとした時、床が濡れていることに気がつく。
おかしいな、しっかり雪は落としたはずなのに・・・。
おそらく熱でふらふらの状態、気づかないところに雪がついていたのだろう。
この雪山では珍しい青空の下、登山者が山を降りていく様子を、
山神の肩の上、彼女は優しい眼差しで見つめていた。