美しき青きロクサーヌ 2
「きみ」
「は、はい!」
「化粧室に行きたいのだが」
「えっと、それならこの先を……」
「この屋敷は不慣れなのだ、案内してくれ」
「わ、わかりました。では……」
広間を抜けて化粧室へと続く通路には二人の他に誰も居ない。ふとレウレトが給仕を呼び止めた。
「きみ、名前は?」
「えっ! あ、その……」
もちろん彼女はレウレトが誰だかを知っている。ただ驚いて思考が現実に追いつかないのだ。彼女が答えるのを待たずに彼が語を接いだ。
「失礼、私としたことが礼を逸したようだ」
そう言って彼はサングラスを外すと慇懃に貴族の礼をして名乗った。
「私はレウレトだ」
「あ……、ロクサーヌ、です」
そう彼女が深々とお辞儀する。ふいに彼が歩み寄り、
「ロクサーヌ……、美しい名前だ」
そう言って跪坐してロクサーヌの手を取り、軽く口づけをする。そうして彼は崇めるようにして彼女の姿を見つめた。
黒を基調としたメイド服を着て、その細い腰元には白の前掛けが垂れている。少しく目線を上に向けると控えめな胸元が、さらに目線をずらせば彼女の顔がある。その表情にはうやうやしく恥じらう戸惑いの色が浮かんでいる。細い可憐な首筋には黒のチョーカーが巻かれていて、その滑らかな首筋からは仄かに色香が匂いたち、ために艶めかしい。腰まで伸びたワンレングスの髪は紺碧に染まり、横に垂れ下がった青毛の犬耳がちらちらと紫色に煌めいている。まるで絹を思わせるその白い肌。額には毛筆で細く払ったかのような婉麗な眉が八文字に描かれていて、その下にはつぶらな碧青の瞳が星のように瞬き、長い睫毛と釣り上がった目尻はどこか猫を思わせる。つんと整った鼻に薄紅色の唇。双頬には少しくそばかすが見受けられるが、むしろそれが愛おしい。
そんなレウレトの熱い視線を感じたロクサーヌが双頬を朱に染めつつ口にした。
「あ、あの」
「ああ! これは失礼」
呼ばれてやっとレウレトは我に帰って彼女の手を名残惜しげに離しつつ立ち上がって言った。
「化粧室に行きたいというのは口実なんだ、本当はあのむせるような香水の匂いにうんざりしていたんだよ。どこか夜風に当たれる静かな場所があればいいのだが」
「それでしたら中庭はどうでしょう? あそこでしたら今は誰もいません」
「そうか、では案内してくれ」
そうして二人が中庭に出た時、
「それでは……」
とロクサーヌがお辞儀して去ろうとする。その刹那レウレトが彼女の手を取った。
「ロクサーヌ、きみと話がしたい」
「ですが、わたしはまだ仕事が……」
「客をもてなすのが給仕の仕事ではないのか?」
「わ、わかりました、給仕長に相談してみます」
それを聞いて彼はやっとロクサーヌの手を離し、そそと走り行く彼女を見送っていた。
それにしてもだ、これはいったいどうしたことだ!
ついさっきまで米英で一、二を争う美女達が歓心を買おうとこぞって競い合っていた時、彼は鉄のような顔をしていたではないか。士官学校時代に夜会に行った折り、彼は一張羅の制服で参加したわけだが、その不味い格好と両眼異色の瞳を見て笑った女性達のせいで緊張し、そのせいで両手を忙しく動かしていたではないか。そのレウレトが、淑女をもてなすための、貴族の礼を尽くしている! そして今夜の彼はやけに積極的である。いったい彼の中ではなにが起こっていたのだろう。それを一言で表すならば、彼の心の奥底では大いなる地殻変動が起きていたのだ。言い換えれば彼の魂が奮えていたのだ。いまや彼はまるで世界には二人しか居ないという錯覚に陥っていた。ロクサーヌしか見えなくなってしまった。彼女にハートを盗まれた。青年レウレトに激しい恋が訪れたのである。
ロクサーヌ=セフィーロ、彼女こそがレウレトの人格形成において甚大な影響を与えた人物である。そして唯一彼が全霊を懸けて愛した女性である。女性は本当の男性に会って初めてその美しさを開花させることができる。同様に男性は女性の愛を知って初めて本物になれる。レウレトはロクサーヌと出会い、本当の愛を知った。彼の総身に流れる熱き血潮は沸騰し、総身火の玉と化した。彼女のためならば自身の命など微塵も惜しくはない、そう思っていた。彼女の苦しみを取り除いて楽を与えようと彼は胸中にて誓願を発てた。一家和楽の家庭を築き、子を授かり、育んでいきたいと渇望した。そうして自身の子が蔑まされない世界を創ろうと彼は前進していくのである。これこそが幼少の頃より追い求めた彼の五彩であった。




