神速の兵 3
そうして、さあどうぞこちらへと言わんばかりにデューイが急かし、わけも分からずにフェデリコは言われたまま書き上げた論文を手にして部屋を出ていく。デューイもあとに続いて部屋を出る時、カロリーンにこう告げた。
「少々ご主人を拝借致します」
それでいまこうしてフェデリコはボルティモアにある宏大な邸宅内に入り、客室で待たされている。ざっと見回してみるがどれも一生お目にかかれないような見事な調度品で溢れている。いま座っているアンティークのソファは巧緻な意匠が施され、天井を見ればまばゆいばかりに輝くシャンデリアが吊されて、ふと見た壁にはどこかでみたような絵画が飾られている。
――もしかしたら、あれはアンリ=ルソーの……、まさか……、ね。
そんなふうにフェデリコが借りてきた猫のようにそわそわしている。
「あ、あの……」
とフェデリコが遠慮がちに客室付きのメイドに声を掛けた。
「のどが渇いたので、水を……」
水が注がれたグラスを受け取り、一気に飲み干して、壊れたらどうしようと思いつつグラスを丁寧に置いた。と、その時カランという音がした。フェデリコがその方へ顔を向けると、呆れたような困惑したような、なんとも形容しがたい表情をした。なぜならそこには水晶のわんわんおがふわふわと浮いていていたからである。
「やれやれ、子供達の遊び相手はやけに疲れる」
そう言いながら水晶のわんわんおがメイドに話し掛けた。
「のどが渇いたぞ、ミスターピッポー(※茶褐色の炭酸飲料水)をくれ」
メイドがミスターピッポーをグラスに注いでストローを入れると、わんわんおはそれを口にくわえてモキュモキュと音をさせてうまそうに飲んでいた。そしてグラスを空にすると、
「けっふ!」
と体を揺らしながら大きくげっぷをして、それからフェデリコに顔を向けて話し掛けた。
「ふう、やっと一息ついたぞ……、ん? おお! いやあ待たせてすまないねえ。レトはいま来客中で遅くなるから代わりに来てやったぞ」
「あ、あの……」
「おお! これは失礼、おれはピガット、よろしく」
「よ、よろしく……」
「ところで……、確かフェデリコ君だったかな?」
「は、はい」
「チェスはできるかね?」
「えっ? まあ、できますけど……」
「これでもおれは、レトより強いんだ」
「は、はあ……」
「まあレトが用事を済ますまでの余興だよ。さっそく一局やろうじゃないか」
そうピガットが言うと、先のメイドが黒檀のテーブルにチェス盤を用意した。それで奇妙なわんわんおと冴えない身なりをした男の勝負が始まった。そうして十五分が経過したのだがピガットはあっさりと負けてしまった。
「はっはっは、まあ最初はゲストに華を持たせるのがホストの役目だよ。さあもう一番」
それでフェデリコが駒を並べ直してまた始めるのだが、今度は十五分もかからずに勝負がついた。またしてもピガットが負けてしまったのである。
「に……、二連敗だと! やるじゃないかフェデリコ君、どうやら君はおれを本気にさせたぞ。さあもう一番!」
そう言うピガットの表情には先程の余裕はない。むしろ真剣師さながらの気迫が滲み出ている。フェデリコも面白くなってきたのか前のめりになってはチェス盤を睨んでいる。部屋にはひりひりと火傷をするような緊迫した雰囲気が充満していた。先のメイドがミスターピッポーをなみなみと注いだグラスを用意してもピガットは見向きもしない。そうしてその小さな額には玉の汗を滲ませて微動だにもせずチェス盤を睨んでいる。
やがてピガットはふっと表情を和らげてこう言った。
「まいりました」
「ありがとうございました」
そうフェデリコが言って、一人と一匹は一礼した。とちょうどその時部屋をノックする音がして、デューイが入ってきた。
「大変お待たせしました、御屋形様の許へご案内致します」
「わかりました……、ピガット君、久々にいい勝負だったよ。またやろう」
にっこり微笑んでフェデリコがそう言うと、ゆっくりと立ち上がって部屋を出ていった。残されたピガットはチェス盤を見つめながら考えていた。と、急にぴかぴかと光を放ちながら独白した。
「思い出したぞ! フェデリコっていえばおれの愛読している"推理式指導チェス要綱"の著者じゃないか……。あとでサインしてもらわなければ!」




