神速の兵 2
こんなふうにして一人の世界に耽っていたのだが、ふいに男の脳裏に鬼の形相をしたカロリーンがよぎった。
「あっ!」
そう叫んだ途端、くわえていた煙草が腕に落ちて火傷を負ってしまった。
「あちち……。そうだそうだ、すっかり買い物を忘れていたよ。カロリーンは怒ると上官より怖いからなあ……」
言いつつ男は立ち上がり、足で吸い殻を踏み消したあと、ゆっくりとした足取りで階段を降りていった。そして自身の名が刻まれた表札が貼ってあるポストを見て、ぴたりと足を止めた。
「まさか、入っているわけないよなあ……」
その日はバレンタインデーで、本命の女子からのチョコレートが入っているかも知れない、そんな薄く淡く脆い期待をしてポストのフタを開けてみるのだが、やはりポストの中身は空であった。
「そうだよねえ……、はあ」
そう男がため息混じりに言うと、後ろから声を掛ける者があった。
「五一三号室のフラットレイさんですか?」
「ええ……、僕ですけど」
「ちょうど良かった! 貴方宛ての速達が届いてますよ」
と郵便配達員が赤い封筒を取り出して差し出す。男がサインをして受け取ると配達員はさっさと自転車に乗って行ってしまった。
「赤い封筒なんて初めてだなあ、軍関係の辞令でもなさそうだし……」
言いつつ封筒の裏を見た瞬間、男の心臓が大きく飛び跳ねた。見間違いだろうか、いやいやそんなはずはない。そういった具合に男が丸縁眼鏡を外しては目をしばたたかせている。レンズをシャツの袖で磨いたあと、改めてそこに書かれている名をゆっくりと、じっくりと、確かめるように読み上げた。
「レウレト、フォン、ルクレール……」
まるで呪文のようにして読み上げると、男の心臓は兎のようにぴょんぴょんと跳ね回った。そうしていま居る階段を一気に駆け上がり、家族のいる部屋に飛びこんでこう叫んだ。
「カロリーン! 手紙がきた! 手紙がきたんだよ!」
そのせいでせっかく寝かしつけた乳飲み子が起きて、泣き出してしまった。
「うるさいねえ……、買い物はどうしたんだい?」
「それどころじゃないんだ! 手紙がきたんだよ!」
「誰からだい?」
「ルクレール将軍閣下から!」
聞いてカロリーンの元々大きかった目がさらに大きくなった。それを見てなぜか乳飲み子が泣き止んだ。
「それで、なんて書いてあるんだい?」
訝しい顔をしてカロリーンが言う。
「ああ! そうだった、まだ封を開けてなかったんだ」
言って男はいそいそと貧相な文机の前に座り、獅子の紋様が押された蝋を剥がし、震える手で恐る恐る中身を取り出した。
~~
敬略
フェデリコ=フラットレイ殿。
貴殿の手紙を預かり、大変嬉しく思う。なぜならば貴殿の書いた論文について非常に興味を持ったからだ。ぶしつけではあるが、我が輩の起臥する屋敷にご足労願いたい。ついてはこの手紙が読まれた頃には使いの者がそちらに到着する由、これに従って御足労願いたい。なにせいまの我が輩には時間ほど大切なものはない。どうか非礼を許されよ。貴殿が来ることを心待ちにしている。
R.R
~~
気づいたらフェデリコはその場に直立していて、手紙を持ったまま石像のように固まっていた。そうしてしばらくしてのちに、ふいにドアをノックする音が狭い八畳の部屋に響き渡った。
「あんた、誰か来たよ」
カロリーンが言ってもフェデリコはまだ固まっていた。それで仕方なくカロリーンが大きな体を重そうにしてドアを開ける。
「あんた誰だい?」
カロリーンが不機嫌そうに言うと長身痩躯の黒づくめの男がやんわりと答えた。
「ルクレール家の執事、デューイと申します」
「なんの用だい?」
「御屋形様の命により、フェデリコ=フラットレイ様をお迎えに上がりました」
そう言って慇懃にお辞儀をするのでカロリーンもついつられてしまった。
「あんた、お客さんだよ!」
雷に打たれたかのように、細い体をしたフェデリコが揺れた。それでやっと我に帰ることができたフェデリコが戸惑いつつデューイに尋ねた。
「えっと……、どちらさまですか?」
「聞いてなかったのかい? 執事のデューイさんだってよ」
代わりにカロリーンが答えた。
「フラットレイ様、御屋形様がお待ちかねでございます。ささ、早く車へ」
「えっと……、この格好でですか?」
フェデリコがよれよれの黄ばんだワイシャツに裾の擦り切れたズボンを着ている自身に指差すと、デューイがにっこりと微笑みつつこう答えた。
「さようでございます」




