神速の兵 1
「なあカロリーン、手紙が来てなかったかな?」
長めの黒髪をボサボサにして丸縁眼鏡をかけた、黄ばんだよれよれのワイシャツを着た男がそう尋ねると、乳飲み子をあやしていたカロリーンが答えた。
「いいや、見てないね」
「そうか……」
妻の返事を聞いて男はがっくりとうなだれて椅子に腰を下ろした。
「ねえ、あんた」
「なんだい?」
「誰の手紙を待ってるんだい?」
「ああ……、実はルクレール将軍閣下に手紙を宛てたんだよ」
「まあ!」
と妻のカロリーンが本当にびっくりしたので乳飲み子も驚いて泣いてしまった。
「おおよしよし……。まったく、あんたには呆れたもんだよ。なんでまた将軍閣下に手紙なんざ送るもんかね。切手と紙とインクの無駄遣いじゃないか。あんたの手紙なんかそのままくずカゴいきってもんさね」
「仕方ないだろう! 僕の上司にあの論文を見せても、まるでちんぷんかんぷんだったんだから。参謀省の人間ならこの論文の有用性がいかに優れているかが伝わるのに……」
「まあ、あんたにはそんなコネなんかありゃしないからねえ」
「そうはっきり言うなよ」
「仕方ないさね、あんたにそんなコネがあればもっとマシな生活ができるもんだよ」
「まあ、それはそうなんだけどね……」
男は申し訳なさそうに言いつつ狭い部屋を見回した。八畳の板間には四つの痛んだベッドが並べて置いてあり、大きな体に金髪を伸ばし放題にしたカロリーンがベッドに腰かけて泣き止んだ乳飲み子を寝かしつけている。備え付けのキッチンには食器類が乱雑に放り込まれていて、時折蛇口から水が一滴二適と洩れている。窓に面して座っている男の後ろには貧相な文机とその上にインク入れとペンが転がり、傍らに粗末な本棚が重みに耐えるようにしてキシキシと音を鳴らしている。
ふと男は深いため息を洩らし、それから立ち上がった。
「あんた、どこに行くんだい?」
「煙草を買いに行ってくるよ」
「ついでに夕飯の買い物もしてきておくれよ。もうすぐうちの悪ガキ共が帰ってくるからね」
「うん」
返事をしつつ男は手を振り振り部屋を出ていった。
レンガ造りのアパートは五階建てで、最上階からカンカンと鳴らして男が螺旋階段を下りていく。その途中で立ち止まり、おもむろにその場へ腰を下ろすとズボンのポケットからくしゃくしゃの紙煙草を取り出し、口にくわえて火を点けた。紫煙を燻らしつつ煙を呑み、吐く拍子に天を仰ぎみる。抜けるような青空に白煙が風に舞い散った。
「いい天気だなあ……」
煙草をくわえながら男はそう言った。そしてしばらくの間そのままぼうっとしていた。
――別にいまの生活に不満があるわけじゃない。ある程度は充たされている。妻は昔より少しだけ太ったけど、病気一つしないし、なによりよく家事をやってくれている。子供にも恵まれて、いまじゃあ二男三女の大家族だ。つまり僕はその大黒柱で、軍の後方支援部隊に配属されていて、まあまあの給料で家族を養っているわけだ。僕の体がもっと頑丈だったら、前線で戦働きを見せて出世できるかも知れないのになあ……。まあ、体力測定の段階で落第だから仕方ないんだけどね。しかしまあ、なんとか筆記試験に受かって良かったよ。天は二物を与えず、ってわけだよなあ……。いや、そんなことはないか。
レウレト=フォン=ルクレール。
彗星のごとく出現して、いきなり少佐に昇進したと思いきや、あっという間に難攻不落のテキサスを手中にして、いまや陸軍少将だ。天才ってのは本当にいるもんなんだなあ……。それに比べて僕なんか十年軍に所属しているのに、いまだに少尉止まりだ。まあ安全と言えば安全なんだけど、後方支援なんて兵站を数えて送る勘定方みたいなものだから間違いなく出世コースからは外れているよ。もっと家族に楽をさせたいがために毎日夜中も寝ずに勉強してやっとこさ論文を書き上げたっていうのに、うちのぼんくら上官は見ようともしない。このヴォルンシステムは衛星を介さずとも距離や天候に邪魔されずに味方同士で連絡が取れ、且つ敵にも傍受されないという、革新的なものなんだ! しかもさらに研究を発展させれば、指向性電波によって敵の暗号通信をも傍受可能にする。さらにヴォルンシステムを汎用化すれば、自軍の戦況をリアルタイムで把握できる……。




