蛟竜池を出ず 6
彼は外出して正解だった。確かに面白いことが起こったのだから。それはユーリのハートを盗むことであったのだが、思いの外その代償は大きく、彼女の笑顔が胸奥に染み込んで離れなくなってしまったのである。いったい彼はなにゆえにこのような恋の病に罹って重篤患者のようになってしまったのか。あのまどろむような光の世界で、レウレトはユーリを見つめていた。そうして自身の母親であるレティシアと重ねていた。酒場で働く母親を思い起こし、身を粉にして自身を育ててくれたと思いが万感胸に迫るのをひしひしと感じていたのだ。意識が薄れ、気づけば眼前にはユーリがいた。色こそ違うが、自身を見つめる彼女の眼差しは母親のそれとまったく一緒ではないか。そうしてベッドの上で彼女の匂いに包まれつつ心が安らぐのを覚えていたのだ。
当時の彼の日記にこうある。
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昨日からどうにもおかしい。彼女が頭から離れないでいる。ついにはオレの見る夢にまで出てきた。
彼女を思う度に切なくて仕方がない。この気持ちはなんなのだろう、どうすればこれを静めることができるのだろう……。
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自身に何が起きているのかを知るために、彼はユーリに会いに行くことにした。彼女と出会った場所と時間を鮮明に覚えていたから、頃合いを計って行くと、果して彼女が居るのを確認した。と同時に胸が高鳴るのを感じていた。そうして持ち前の勇気が奥手な彼を動かした。
「おはよう」
「おはよう、レウレト」
「買い物か?」
「ええ、レウレトは?」
「休みだ、特に予定はない」
「そうなんだ」
「ああ、だから、その、なんだ……、手伝おうか?」
「えっ?」
「荷物持ちをしてやると言っているんだ」
「ありがとう、でも大丈夫よ、そんなに多くはないし」
「そうか、だが護衛は必要だと思わないか?」
「そうね、じゃあお願いするわ」
その日以来、彼は休日の度に桜や桃がなる木が立ち並ぶ公園にてユーリと会っていた。何とは無く、二人は昼食をして故郷の話をしていた。そうして桜桃花下の逢瀬を重ねているうちに彼は気づいた。
――オレは、ユーリが好きなのだな。
と同時に、ある思いが浮かんできた。
――オレにはしっぽがあって、彼女には無いのだな。
それで彼は自身の夢とユーリを天秤に掛けた。そしてユーリへの想いを路傍の花とした。こうして彼は士官学校を卒業してエンパイアステートを離れるまで、とうとうユーリに想いを伝えることはなかった。ただ彼女はレウレトのことを慕っていたし、また彼の想いも知っていたのかも知れない。彼が列車にて任地に赴くの際、ユーリは見送りに来ていた。しばらく二人は別れを惜しむように見つめ合っていたが、やがて列車の発車ベルが鳴ると、彼女がそっと寄り添ってキスをした。そうして頬を赤らめる彼を見ながら彼女が言った。
「さよなら、レウレト」
ガタゴトと音を鳴らして列車が動き出す。遠くの地平線から警笛を鳴らして、やがて見えなくなると、彼女は落涙した。生涯レウレトはこのことを忘れなかった。その証拠に後年、ユーリの店が放火によって焼失した際に多額の義捐金を送っている。そして、彼はどんなに出世していっても毎年ユーリの口座に小切手を振り込んでいた。彼は自身の受けた恩を知り、必ずその恩に報いる人間であった。




