蛟竜池を出ず 4
その日の夕方、自室にてシャワーを浴び終わったレウレトが外出の支度をしている。そこにピガットがふわふわとやってきた。
「なんだか機嫌が良さそうだな」
「うん? そんなことはないぞ」
「嘘つくな、さてはうまいもの食いに行く気だな」
「まあ、間違ってはいないな」
「ずるいぞ! おれはもうパンは飽きた、唐揚げが食いたい!」
「無理言うな、これでもしゃぶってろ」
言われてピガットが後ずさりした。
「コ、コーラはいやだぞ」
「安心しろ、今度のはチョコレート味だ」
「むう……」
「そう腐るな、お土産を期待して待っててくれ」
「ほんとだな? 期待していいんだな?」
「ああ、期待していいぞ」
「わかった、じゃあ行ってよし」
えらそうに体を反らしてピガットがそう言った。
寄宿舎には基本的に門限がない。そのため出入りは自由なのだが、何か問題を起こした時や翌日の訓練に遅れた者は教官の厳し過ぎる罵声混じりの叱責を喰らうことになる。また常時解放されているのは辛い訓練を耐え兼ねた者がいつでも脱走できるための配慮である。途中で逃げ出す者は戦場でも敵前逃亡を図るだろうし、そういった根性無しは軍に必要ないのだ。その寄宿舎から歩いて二十分くらいの場所にユーリの働くハッピー・エンジェルがある。繁華街に面したこの酒場は周辺の地域住民のみならず、士官候補生の息抜きする場所でもある。ネオン煌めく看板には天使が描かれており、天使の羽を模した、両開きの扉の前にレウレトが立っていた。
――さて、どうしたものか。教官や他の連中もここに来ているのだろうが、まあ無視すればよかろう。それに行きがかりとはいえ、ユーリが招待してくれたのだ。無下に断る道理もない。とりあえず馳走になって、さっさと帰ろう。
そう思いつつレウレトが"天使の羽"を押す。扉をくぐった途端、アルコールの芳醇な香りと、食べ物のうまそうな匂いがレウレトの鼻を刺激した。続いて様々なやかましい喧騒が耳を鳴らせた。女をからかいつつ葉巻をくわえながらポーカーを楽しんでいる者。酒を飲んで喚いている者。楽隊の陽気な旋律に合わせて踊っている者。酔い潰れて床に突っ伏している者。腕相撲に金を賭けて、その周りで声を張り上げている者、店にいるほとんどが士官候補生だ。彼らは次の日も休日なので日頃の憂さを晴らすべく大いに賑わっている。そんな中をユーリがせわしく動いて空きグラスを運んでいるのが見えた。それでレウレトが床で寝ている男を避けながら彼女の傍に寄った。
「まあ! 来てくれたんですね、嬉しいです」
「ん……、まあな」
「席を用意してよかった、案内しますね」
彼女に促されて後についていく。カウンターの席に着いた時、彼が言った。
「すまない、あまり持ち合わせていないのだが……」
「大丈夫ですよ、気にしないで下さい。ね、お父さん?」
言ってユーリが顔を向けると、視線の先にはバーテンの着る服の上からでも判る筋骨隆々たる体をして口ひげをたくわえた大男が大きな手を器用に使って客の注文を作っていた。そしてレウレトを見るなりお父さんと呼ばれた大男が険しい顔して言った。
「あんたがレウレトさんかい?」
「そうだ」
その返事を聞いて、大男が急に深々と頭を下げた。
「娘を助けて頂いてありがとうございます。わたしはユーリの父、ドーレスと言います。ささやかではありますが、酒と食事を用意しました。是非食べていって下さい」
「うむ、馳走になる」
そうレウレトが返事をすると、ドーレスはいかつい顔に満面の笑みを浮かべた。
「ごめんなさい、注文まだでしたね。何に致します?」
「実は、酒を飲むのは初めてなんだが」
「えっ?」
「そういやあ、オレはついこのあいだ十八になったばかりでな、だからやっと合法的に酒が飲めるわけだ」
澄ました顔して彼がそう言う。
「どうした?」
「い、いえ……。では、当店自慢のビールはどうでしょう?」
「ビールか、それにしよう」
ほんの少ししてジョッキに注がれたビールが彼の前に置かれた。
「これがビールか、どれ……、苦いな」
「慣れれば美味しくなりますよ」
にっこりしてドーレスが答えた。




