「行き場のない娘だ、置いてやってくれ」と夫が愛人を連れ帰りましたので、正式に雇い入れて一人前の侍女に育てます
旦那様が屋敷へお戻りになったのは、雨の上がった夕暮れどきである。軒先の雫が、暮れ残る庭へ細い音を落としていた。
雨を吸った石畳に、玄関の灯が細く長く揺れている。外套の裾から水が落ち、足元へ黒い染みを広げていた。その後ろには、痩せた娘が一人、濡れた肩をすぼめて立っている。
「行き場のない娘だ、置いてやってくれ」
わたくしは何も言わず、雨粒の残る旦那様のお顔を見る。袖口へ、夜の冷気が忍び込む。
七年で覚えたのは、驚いた顔を見せないことである。目をそらさずにいれば、相手は沈黙を埋めようと、さらに口を開く。
「……いや、君の侍女として、だ。君なら分かってくれると思った」
侍女として、と旦那様は言い直した。
娘の手へ目を落とす。赤く裂けたあかぎれ。爪の内に残った煤。指輪の跡はどこにもない。髪は肩の上で不揃いに切られ、宿場の下働きが自分で鋏を入れた形をしている。湿った毛先が、青ざめた頬に貼りついている。
「お名前を伺えますか?」
「……ハンナ、です。すみません、あの、ご迷惑を……」
「迷惑のうちには入りませんわ。うちは人手が足りておりませんもの」
嫁いで七年、この屋敷の鍵束と給金台帳はわたくしが預かってきた。腰の鍵は、歩くたび乾いた音を立てる。誰を入れるかを決めるのも、わたくしの役目である。
「承知しました。では、正式に雇い入れます」
旦那様の眉が、ほんの少しだけ動く。灯の影が、そのお顔を横切った。
「……正式に、とは?」
「言葉どおりの意味ですわ。帳場へ参りましょう」
◇
帳場の卓に、雇用の証文を広げる。乾いた紙の匂いが、雨気を含んだ部屋に立つ。旦那様も卓の向こうへ腰を下ろされる。面白いものを見にきたお顔である。
「名前、ハンナ。お年は?」
「……十七です……」
「以前は、どちらで働いていらしたのです?」
「……鴉亭という宿で、下働きをしておりました……」
「十七。起床は六つの鐘、仕着せは二揃い、休みは十日ごとに一日ですわ」
わたくしは羽根を止めずに書き続ける。紙を掻く音が、娘の浅い息の間を埋めていく。
「お給金は、十日ごとに銀貨一枚ですわ」
「……え……?」
「うちは、働く者にはきちんと給金を出しますの」
娘の唇が、声にならない形に動く。握り合わせた指先は、赤くなるほど強く重なっていた。
「そんな、お金をいただけるようなことは、何も……」
「働けば出ますのよ。働かなければ出ません。それだけの勘定ですわ」
証文を裏返す。紙が卓をこする乾いた音がする。この家の則は一行しかない。
「では、読み上げますわね」
「使用人は、主の寝間へ入らぬ」
娘は紙の面を見つめたまま、小さく頷く。指が、服の裾をそっとつまんでいた。
「お名前は、お書きになれますか?」
「……いいえ。すみません、書けません……」
「では、こちらへ印を」
娘は親指を朱に押しつける。引き上げた指へ赤が厚くまとわり、震える手で紙の隅に丸い跡を残す。
「旦那様。こちらへ、ご署名を」
「……僕が?」
「エーレンハイムの金からお給金を出しますもの。当主の署名と女主人の印、その両方が揃わなければ、この家では紙一枚動きません。先代のお定めですのよ」
旦那様は口元だけで少し笑い、羽根を取られる。何に署名なさっているのか確かめもせず、羽根先が紙を滑っていく。
わたくしはその隣へ、指輪の印を捺す。この七年で、同じ印を捺した数は二百五十を超える。冷えた金の縁が指の腹へ食い込む感じにも、もう慣れている。
「これであなたは、正式にこの家の侍女ですわ、ハンナ」
名を呼ばれた娘は、名を呼ばれたことに気づくのが遅かった。
鴉亭では、おい、のひと言で足りたのだろう。名は、胸の奥へしまっておくものだったのかもしれない。
この屋敷と領地の三分の一を、七年前に実家から持ってきた持参金の金貨八百枚で買い戻したときの証文にも、先代の署名と、この同じ印が並んでいる。あのときも、この金の縁は同じように指へ食い込んだ。
◇
三日目の夜、旦那様は客をお招きになった。食堂の燭台が銀器に映り、白い卓布の上で火を増やしている。
厨は湯気と獣脂の匂いで満ち、火の熱が頬へまとわりつく。ハンナはその中を、食堂とのあいだで無駄に往復しない。銀器の並びも、一度見ただけで覚えている。
「よく気が利く娘だろう。僕が連れてきたんだ」
「ほう、ずいぶんよく仕込まれておいでだ」
「三日でこれだ。見どころがある」
匙と小刀の向き、硝子の高さ、皿を下げる順。三日前まで宿場の土間に居た娘が、そのどれも間違えない。磨いた銀へ伸びる指先は、途中で止まらない。
わたくしは黙って葡萄酒を注ぐ。赤い液面に燭火が揺れる。ご自分で選んで、ご自分で育てたかのような口ぶりである。
客が帰り、屋敷が静まったあと、二階の廊下で旦那様が娘を呼び止める声がした。わたくしは階段の踊り場の暗がりに立っている。消えかけた燭火が、壁に細長い影を揺らしている。
「ハンナ。少し、僕の部屋へ来い」
「申し訳ありません、お仕事中ですので」
「仕事だと?」
「証文の裏に書いてございました。使用人は、主の寝間へ入らぬ、と」
旦那様のお声が、少し高くなる。静かな廊下の壁が、その響きを硬く返す。
「そんな紙が、何になる?」
旦那様が娘へ一歩寄る。床板が、靴の下で低く鳴った。
「ハンナ。僕はお前を、いずれこの家の女主人にすると言った。忘れたのか?」
「……はい。伺いました。ですが、証文をいただきましたので……」
旦那様の手が、娘の腕を掴む。細い袖に皺が集まり、娘の肩が強く引かれる。
わたくしは廊下の角から出る。靴音が、板張りの床へ硬く響く。
「旦那様。証文の裏に、きちんと書いてございますわ。――旦那様ご自身がご署名なさった紙ですもの」
旦那様の手が離れる。掴まれていた袖だけが、細かく震えていた。
「……僕は、君なら分かると思っただけだ。冗談だ」
わたくしは帳場へ戻り、灯を寄せて給金台帳の余白へ日付を書き入れる。何があったのかは書かない。見たのはわたくしで、台帳は日付を動かせなくするための紙である。
帳場の扉を閉めてから、羽根を握る指が白くなっていることに気づく。こうして指先が震えるたび、わたくしはその揺れを勘定に直してきた。数にしてしまえば、呼吸も筆先も乱れない。
◇
十日目の朝が、この家での最初の給金日になる。薄い朝日が、帳場の窓から銭箱へ差していた。
銭箱から銀貨を一枚取り出す。硬貨は朝の冷たさをそのまま抱え、掌に置くと、金属の匂いと確かな重みが残る。
生まれて初めて自分で稼いだ金を、その子は両手で受け取った。
「……重い、です……」
「銀貨一枚ですのよ」
「……はい。それでも、重いんです……」
十日ごとに一日、休みが来る。門を出て、そのまま戻らなくてもよい日である。その一枚で、宿場へ戻る荷馬車に乗れる。門の向こうには、白く乾き始めた街道が延びている。
ハンナは門まで歩き、冷たい鉄の取っ手へ手をかけ、それから戻ってきた。
「……奥様。字を、教えてくださいませんか……?」
紙と羽根を渡す。娘は羽根の持ち方も知らず、力を込めるたび先端が紙に引っかかる。
それでも半刻のあいだに、震える墨の線で自分の名を書いてしまう。
「……わたし、書けました」
その子が自分を「わたし」と言ったのは、それが初めてである。かすかな声なのに、帳場の壁へまっすぐ届く。
わたくしは頷いた。頷いただけである。何か言えば、喉の奥で細くなった声が、普段とは違う形でこぼれてしまう。
次に、わたくしの名を書かせる。羽根先を、ゆっくりと、一画ずつ進ませた。
書き終えた娘が、墨の乾かない紙をじっと見つめている。
「……このお名前、見たことがあります……」
「わたくしの名を、ですか?」
「……旦那様の書斎で、暖炉の灰を掻き出しに参りましたとき、机の上の書き付けに、同じ形がありました……」
「それは、いつのことでしょう?」
「……五日ほど前です。旦那様が、お前は字が読めないから構わない、と……」
娘は紙を置く。それから、今度は目を伏せず、まっすぐにわたくしを見た。
「……奥様。あの書き付けは、書斎の右の、いちばん下の抽斗です。旦那様が仕舞われるのを、灰を運びながら見ました」
「なぜ、それをわたくしに教えてくださるのです?」
「……奥様が、わたしに給金をくださったからです」
◇
書斎へ入り、右の、いちばん下の抽斗を引く。古い木が擦れ、重い音を立てる。
借用証書。金貨三十枚。借り主の欄には、わたくしの名がある。四隅に折り目がつき、墨はもう乾いて紙へ沈んでいる。
わたくしの筆ではない。線の払いも、文字の間も違う。そして、あるべき印だけがない。
厩の者を代官所へ走らせる。遠ざかる蹄の音を聞きながら、表座敷へ旦那様をお呼びし、卓へ証書を置いた。
「エーレンハイムの金は、旦那様の署名と、わたくしの印。両方が揃って動きますの」
「……君、それは」
「先代のお定めですから、この紙に値打ちはございません。ただ、わたくしの名を、わたくしではない者が書いたという事実だけは残りますわ」
半刻もせぬうちに、案内も待たずに義弟が入ってくる。開いた戸が壁へ当たり、乾いた音を立てる。
「その紙は通らん。ブラント商会が十日ばかり前に持ち込んだが、印がないからうちで突き返した。兄上に取ってこいと言って戻した」
「なぜ、黙っていらしたのです?」
「あんたの印が押されて出てくるか、十日待った。悪いが、あんたも疑ってた」
マティアス様は外套も脱がずに証書を顎で指す。荒い息に、外の冷たい空気が混じっている。
「払い先は割れた。三十枚のうち十枚は鴉亭、あの汚え宿だ。兄上の名じゃ、もう一枚も借りられん」
金貨十枚。娘を一人、宿から連れ出すのに払われた額である。朝、娘の掌へ置いた銀貨の冷たさが、わたくしの指に戻ってくる。
「……僕はあの娘を、金を出して連れてきたんだ。僕のものだ」
「その十枚は、わたくしの名で借りた金ですわね?」
「買った覚えはありませんの。雇っただけですわ」
「商会へのお支払いは、旦那様ご自身の勘定ですわ。金はもう動いておりますもの」
「兄上。使用人は正妻になれない。主が使用人に手を出せば、家名の恥として離縁の事由になる。世間の理だ」
わたくしは台帳を開き、紙の擦れる音とともに、余白の日付を見せた。
「三日目の夜、廊下です。わたくしは、この目で見ておりますわ」
「リュディア。頼む、話を聞いてくれ」
旦那様がわたくしを名で呼んだのは、七年で初めてである。その音だけが、妙に近く耳へ残る。
「ええ。ずっと、聞いておりますとも」
「君は、僕を追い出す気か?」
「離縁いたしますわ。事由は二つ。名を騙った証書と、三日目の夜の廊下ですわ」
「出て行くのは、あなたですわ」
旦那様の口が、開いたまま止まる。漏れかけた息だけが、喉の奥で鳴った。
「そんな馬鹿な話があるか」
「この屋敷は七年前、わたくしの持参金の金貨八百枚で買い戻したものですわ」
「あれは……あれは、家の金だろう?」
「家の金ではございません。実家の金ですわ。証文には売り主と先代の署名、わたくしの印があり、買い主の欄もわたくしの名ですの」
わたくしは台帳に新しい行を開く。何もない白さが、灯の下へまっすぐ延びている。
「七年、この家の勘定は全部わたくしが合わせてまいりました。一度も、自分の分を書き入れたことがございません」
筆を取り、その行へ、自分の名を書き入れる。墨が乾く前に、その隣へ、十日ごとに銀貨一枚、と添える。
書いてしまうと、思ったより小さな数だった。紙の上では頼りなく見える。それでも、七年で初めて書いた自分の値である。
置いてやってくれ、と言ったのは、彼のほうである。
◇
数日後の朝。玄関には、旦那様の荷が三つ積まれている。淡い朝日が、閉じた革鞄の金具に冷たく光っていた。
離縁の証書に、旦那様の署名とわたくしの印が並んでいる。この家で二つが揃った最後の紙である。乾いた朱が、朝の光に赤く沈む。この屋敷の金は、もうエーレンハイムの金ではない。明日からは、わたくしの印だけで動く。
帳場では、ハンナが台帳へ自分の名を書いている。もう羽根先は、紙の上で立ち止まらない。
「今日から、給金は十日ごとに銀貨二枚です。奥の納戸の鍵も、ひとつお預けしますわ」
「……はい。奥様」
「お返事が、ずいぶん短くなりましたわね」
「すみません。……いえ、ありがとうございます」
義弟が戸口に寄りかかっている。差し込む朝日が、外套の片側だけを照らす。
「義姉上。代官所に一人ぶん席が空いてる。給金も出るぞ。……別に、あんたのためじゃない」
「わたくしはもう、あなたの義姉ではございませんのよ」
「知ってる。呼び方は変えん」
マティアス様は羽根をつまみ、また置く。羽根軸が卓で軽く鳴る。わたくしも、義弟と呼ぶのをやめる気はない。
「では、こちらからも一つ。代官所の帳面を見せてくださいまし」
「は?」
「雇われる前に、雇い主を検めておくのが筋ですもの」
マティアス様が、口の端だけで笑う。伏せていた目が、ようやくこちらを向く。
廊下から、旦那様の声がした。閉じた戸を探るような、低くかすれた声である。
「……僕が連れてきたあの娘は、まだこの家にいるのか?」
「ええ、あの子はよく働きます。――あなたよりも、ずっと」
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