水面にほどける
六月の雨は、町の輪郭を少しずつ溶かしていく。
駅前のロータリーも、商店街のアーケードも、放課後の校舎の窓も、すべてが薄い水の膜に包まれて、遠い昔からそこに沈んでいたもののように見えた。私はいつも、その季節が苦手だった。傘の内側に閉じこもると、自分の呼吸だけがやけに大きく聞こえる。世界から切り離されたみたいで、けれど本当は、世界のほうから私を見放しているだけなのではないかと感じてしまう。
そんな六月の夕方に、私は初めて凪の泣き顔を見た。
凪は、ひとつ下の学年だった。ひとつ下、と言っても、私と凪のあいだにある一年は、数字ほど単純ではなかった。私は十八歳で、もうすぐこの町を出ることになっていた。凪は十七歳で、まだこの町に残る。進路希望の紙一枚が、私たちを向こう岸とこちら岸に分けてしまったみたいだった。
美術室の窓際で、凪は一人、濡れた前髪を指で梳いていた。部活動の時間はとっくに終わっていて、廊下から聞こえる声も、少しずつ雨音に吸われていた。
「帰らないの」
私が言うと、凪は振り返らずに答えた。
「先輩こそ」
その呼び方が、私は少しだけ嫌いだった。凪に先輩と呼ばれるたび、私たちは決して同じ場所には立てないのだと知らされる気がしたからだ。
「傘、忘れたの」
「嘘」
「どうして」
「先輩、今日、朝から持ってました」
凪はそう言って、ようやくこちらを見た。目元が赤かった。雨のせいではないと、すぐに分かった。私は言葉を探したけれど、ちょうどいい言葉なんて、この世には最初から存在しないのだと思った。
凪は、私の絵のモデルだった。
といっても、正式に頼んだわけではない。春の終わり、校庭の片隅に咲いていた白い花の前で、凪がぼんやり空を見ている姿を見かけた。その横顔を忘れられなくて、私は何枚もスケッチを描いた。凪の知らないところで。凪の許しも得ずに。だからそれは、恋というよりも、最初は盗みだったのかもしれない。
見つめてはいけないものを見つめている。
そんな気持ちが、いつも胸の奥にあった。
女の子を好きになることが悪いとは思っていなかった。けれど、私が凪を好きでいることには、どこか後ろめたさがあった。凪はまっすぐで、まだ傷つく前の硝子みたいで、私はその透明さに手を伸ばしながら、自分の指紋で曇らせてしまうのではないかと怖れていた。
「泣いてた?」
私は、聞かなくてもいいことを聞いた。
凪は少し笑った。
「泣いてません」
「目、赤いよ」
「雨です」
「ここ、室内だけど」
凪は黙った。それから、窓の外へ視線を戻した。雨粒がガラスを滑っていく。幾筋もの透明な線が、景色を縦に裂いていた。
「先輩、卒業したら、東京に行くんですよね」
「うん」
「戻ってきますか」
「たぶん、たまには」
「たまに、ですか」
その声があまりに静かだったので、私は胸の奥で何かがほどける音を聞いた気がした。
私は凪の隣に立った。近すぎない距離。触れようと思えば触れられるのに、触れてしまえばもう戻れない距離。
「凪は、私に戻ってきてほしいの」
凪は答えなかった。
ただ、窓に映った彼女の顔が、泣きそうに歪んだ。
私はその沈黙の意味を、都合よく受け取ってはいけないと思った。好きという言葉は、時々、人の心に刃のように入ってしまう。渡す側は花束のつもりでも、受け取る側には重すぎることがある。だから私はずっと言えなかった。凪の笑顔を見るたび、言葉を飲み込んだ。凪が私の描いた絵を覗き込んで「きれい」と言うたび、ほんとうにきれいなのはあなたのほうだと思いながら、笑って誤魔化した。
でも、その日だけは違った。
雨が降っていたからかもしれない。卒業が近づいていたからかもしれない。凪の赤い目が、私の臆病を責めているように見えたからかもしれない。
「私は、戻ってきたいよ」
凪がこちらを向いた。
「この町に?」
「違う」
私は息を吸った。雨の匂いが、開いていない窓の隙間から入り込んでくるようだった。
「凪のところに」
言ってしまった瞬間、世界が少し傾いた。
凪は、何も言わなかった。驚いた顔をするわけでもなく、嫌悪を浮かべるわけでもなく、ただ私を見つめていた。その沈黙が怖くて、私は続けた。
「困らせたいわけじゃない。返事がほしいわけでもない。ただ、黙ったままいなくなるのは、卑怯だと思ったから」
「卑怯?」
「うん。私は、凪を好きになった。ずっと、言わないでおこうと思ってた。女の子同士だからとか、先輩と後輩だからとか、卒業するからとか、理由はいくらでもあった。でも本当は、怖かっただけ。凪に嫌われるのが」
最後のほうは、ほとんど声にならなかった。
凪はゆっくり瞬きをした。そして、濡れた睫毛を伏せた。
「私も、怖かったです」
私は凪を見た。
「何が」
「先輩が、普通に卒業して、普通に遠くへ行って、普通に私のことを忘れること」
凪の声は震えていた。
「でも、それを寂しいって言う資格が、私にはないと思ってました。だって、先輩は私のものじゃないから。引き止める理由なんて、どこにもないから」
私は胸が苦しくなった。
凪は小さく笑った。泣きながら笑うと、人はこんなにも幼く、こんなにも強く見えるのだと、その時初めて知った。
「私、先輩の絵、好きです」
「ありがとう」
「でも本当は、絵を見てる先輩のほうが好きでした」
言葉が、雨音よりも深く私の中に落ちた。
凪は続けた。
「真剣な顔をしてるところも、絵の具を手につけたまま気づかないところも、褒められると少しだけ耳が赤くなるところも、全部、見てました。ずっと」
私は何も言えなかった。
美術室の空気が、急に薄くなった気がした。息をするだけで、胸が震えた。私たちは向かい合っていた。机の上には乾きかけの筆が並び、壁には誰かの描きかけの静物画が掛かっている。世界は何ひとつ変わっていないのに、私の中の季節だけが、急に春へ戻っていく。
「凪」
名前を呼ぶと、凪は小さく頷いた。
私は手を伸ばした。許されるかどうか分からないまま、彼女の指先に触れた。凪は逃げなかった。むしろ、迷子になった子どもみたいに、私の手を握り返した。
その手は冷たかった。
けれど、確かに私を選んでいた。
「好き」
凪が言った。
その二文字は、あまりにも小さくて、けれど私の世界を支えるには十分だった。
「私も」
私が答えると、凪は今度こそ泣いた。声を殺して、肩を震わせて、でも手だけは離さなかった。私は凪を抱きしめた。制服越しに伝わる体温が、雨の日の教室には不似合いなほど温かかった。
私たちはしばらく、そのままでいた。
誰にも見つからない美術室で、誰にも説明できない感情を、二人だけで確かめていた。後ろめたさが完全に消えたわけではない。これから先、戸惑う日もあるだろう。言葉を選ばなければならない場所もあるだろう。好きだというだけで、なぜか小さく息を潜めなければならない夜も、きっとある。
けれど、その全部を理由にして手を離すには、凪の指はあまりにも優しかった。
「東京に行っても、連絡していいですか」
凪が私の肩口で言った。
「して。毎日でも」
「迷惑じゃないですか」
「迷惑なわけない」
「会いたくなったら?」
「会いに来る。会いにも来て」
凪は少し顔を上げた。
「私、卒業したら、先輩のいる街に行きたいです」
「うん」
「それまで、待っててくれますか」
待つ、という言葉が、こんなに明るく聞こえることを私は知らなかった。それは別れの言葉ではなく、未来を同じ方向に置くための約束だった。
「待ってる」
私は答えた。
凪は笑った。涙で濡れた頬のまま、はっきりと笑った。その笑顔を見た瞬間、私はきっと一生、六月の雨を嫌いにはなれないと思った。
帰るころには、雨は少し弱まっていた。
私たちは一本の傘に入って校門を出た。肩が触れ合うたび、凪は照れたように俯いた。私はその横顔を見ないふりをしながら、ほんの少しだけ傘を凪のほうへ傾けた。
「先輩、濡れます」
「いいよ」
「よくないです」
凪はそう言って、私の腕にそっと自分の腕を重ねた。
町の灯りが濡れた道路に滲んでいた。赤も青も白も、境目をなくして、水面のように揺れている。その中を、私たちはゆっくり歩いた。遠くへ行くためではなく、同じ場所へ帰るために。
駅の改札前で、凪は私を見上げた。
「明日も、美術室にいますか」
「いるよ」
「じゃあ、私も行きます」
それだけの約束が、まるで永遠の入口みたいだった。
私は凪の手を、もう一度握った。人目を気にしてすぐに離すつもりだったのに、凪が強く握り返したから、私たちは少しだけ笑ってしまった。
雨の夜に、二人分の影が並んでいた。
それはまだ頼りなく、いつか消えてしまいそうなほど淡かった。けれど私は知っていた。水面に映る光が、どれほど揺れても光であることをやめないように、私たちの恋もまた、名前を与えられた瞬間から、もう消えないものになったのだ。
凪が小さく手を振った。
私は同じように手を振り返した。
電車の窓に映る自分の顔は、少し泣きそうで、少し笑っていた。胸の奥には、まだ言い尽くせない言葉がいくつも残っている。けれど今は、それでよかった。
明日また会える。
その事実だけで、私の未来は、初めて私のものになった。




