刻まれた記憶
――風の音が、やけに静かだった。
幼いフェリスは、森の奥で立ち尽くしていた。
目の前に、首を引きちぎられている父の死体があった。
音は聞こえなかった。
ただ、赤黒い影が地面に広がっていく。
その向こうに、巨大な影。
強化されたオーガ。
膨れ上がった筋肉。濁った瞳。
そして――口元が、歪む。
ニタリ。
声は出さない。
だが、確かに笑っていた。
フェリスの視界が揺れる。
父が動かない。
呼びかけようとして、声が出ない。
喉が締まる。
一歩、踏み出す。
「……あ…あ…」
その瞬間――
「あぁ゛ーーーーッ!!」
フェリスの絶叫が森を裂いた。
風が爆ぜる。
地面が弾け、木々が揺れ、空気が歪む。
フェリスの足が踏み込む。
次の瞬間、オーガの身体が吹き飛ぶ。
だが、終わらない。
斬る。
叩きつける。
裂く。
何度も。
何度も。
息が荒れる。
涙で視界が滲む。
それでも止まらない。
オーガが地面を転がる。
立ち上がる。
また吹き飛ぶ。
もう笑っていない。
それでも、フェリスは止まらない。
「あぁ゛ッ……あぁ゛あああああッ!!」
風が暴走する。
森が削れる。
地面が抉れる。
やがて、オーガは動かなくなった。
だが、風はまだ荒れている。
フェリスの腕は振り下ろされ続ける。
「もういい!!」
遠くで誰かの声がした。
その一言で、風が乱れた。
静寂が落ちる。
荒れ果てた森。
砕けた大地。
動かないオーガ。
そして――父。
フェリスの膝が崩れる。
震える手で父の肩に触れる。
冷たい。
動かない。
「……とう、さん……」
声が、掠れる。
背後で、ざわめきが広がる。
離れた場所で見ていた村人たち。
目が合う。
そこにあるのは――畏怖。
期待でも、賞賛でもない。
距離。
恐れ。
誰も近づかない。
風が、わずかに揺れる。
フェリスは俯いた。
家の中は、暗い。
窓の外で子どもたちの声が止まる。
風を出そうとして、やめる。
指先が震える。
何も触れたくない。
何も聞きたくない。
布団の中で、膝を抱える。
時間が、止まる。
コンコン。
扉が鳴る。
返事はしない。
しばらくして、扉が開いた。
イグニスが立っている。
少し緊張した顔。
だが、何も言わない。
部屋に入り、壁にもたれる。
沈黙。
しばらくして、ぽつりと。
「……外、虹てるぞ」
返事はない。
「腹、減ってないか」
沈黙。
それでも、イグニスは帰らない。
ただ、そこにいる。
フェリスは顔を伏せたまま、小さく言う。
「……うるさい」
その声に、イグニスはほんの少しだけ安堵したように息を吐いた。
――また来る。
その言葉と同時に、
「フェリス!」
現実の声が重なる。
フェリスは飛び起きた。
荒い呼吸。
汗が額を伝う。
背中に鈍い痛み。
目の前に、イグニスの顔。
「大丈夫か!? おい!」
フェリスは一瞬だけ視線を逸らす。
胸の奥がざわついている。
だが、何も言わない。
代わりに、掠れた声で。
「……馬車は?」
イグニスが呆れたように眉を寄せる。
「馬車は無事だ…それより今はお前の方が問題だろう」
「二日も寝てたんだぞ」
フェリスの指が止まる。
「……ごめん、迷惑かけて…」
「別に構わない」
ほんの一拍。
「お前の世話も尻拭いも、昔から私の役目だろう?
」
静かな声。
強くもなく、優しくもなく。
ただ、事実のように。
フェリスは何も言えなくなる。
フェリスはゆっくりと起き上がる。
身体は重い。
空は曇っている。
風が、かすかに揺れた。
だが、フェリスは気づかない。
ただ、遠くを見る。
赤い影の消えた空を。
ーーーーーーーー
雪の舞う荒野に、静寂が戻った。
空は灰色の雲に覆われ、風が凍てつく音だけが耳に残る。
アリエルは膝をつき、深呼吸を一つ――戦闘後の緊張を静かに解きほぐす。
「……これで全ての飛竜は討伐したようです。お怪我はありませんね?」
アリエルは冷静に仲間たちを見渡す。
その水色の髪の魔法使いセリスは、雪に足を取られながらも得意げに両手を振っていた。
「うんうん!余裕余裕!私の魔法も効いたよね!見てた?ビカビカ光ったでしょー!」
セリスは雪に倒れた飛竜の翼を蹴りながら、まるで自分が一番活躍したかのように声を弾ませる。
赤髪の女剣士リディアは肩の力を抜き、太陽のような笑みを浮かべてアリエルに目を向けた。
「ふん、確かに手応えはあったな。だが、私にかかればこんなものだ。余裕だったな」
リディアの言葉には、自信と誇りが滲んでいる。
雪原の冷たい風も、彼女の熱意までは凍らせられないようだった。
アリエルは静かに二人を見つめ、微かに眉を上げる。
「……皆様、油断は禁物です。次の竜の群れも、この地に迫っているかもしれません」
その声には冷静さと覚悟が含まれていたが、どこか安心感をもたらす響きでもあった。
セリスは両手を広げて雪を弾きながら叫ぶ。
「えー、まだ行くのー!?でもさ、私たちなら楽勝だよね!だよねー!」
リディアは剣の柄を握り直し、笑いながら答えた。
「その通りだ。私たち三人、どんな敵も蹴散らせる。行こう、次も一掃してやるぞ」
アリエルは静かに頷き、吹き荒れる雪の中、仲間とともに前へと歩みを進めた。
冷たい世界に、三人の力強い足音だけが響き渡る――。
雪原を抜けると、三人の目の前に小さな村が姿を現した。
屋根は雪に覆われ、煙突からは白い煙がゆらりと立ち上る。
凍った大地の中で、温かい灯りが微かに揺れているのが見えた。
「人の営みが、まだある……」
アリエルは静かに呟き、足を止めた。
村人たちは外で薪を運んだり、凍てつく井戸の水をくみ上げたりしていた。
だが、どこか不安げな空気も漂っている。
三人は広場にある掲示板の前で足を止める。
そこには、黒いインクで描かれた文字が躍っていた。
「……冥禍の兆候、北方にて観測。警戒せよ」
セリスが目を丸くして言う。
「えっ、またあの冥禍!?な……」
リディアは剣を軽く握り直し、眉をひそめる。
「最近、この辺りの天候もおかしかった。雪嵐や黒い霧が急に現れたり……」
アリエルは村の長老らしき人物に近づき、静かに問いかけた。
「こ詳しく教えていただけますか」
長老は雪の積もる道を蹴るように歩きながら答える。
「北の山脈で、闇の気配が濃くなっておる……近々、この村も危険に晒されるやもしれん」
アリエルは言葉を噛みしめ、仲間たちに目を向けた。
「警戒は怠らない。次の目的地に向かい、情報を集めましょう」
セリスは少し不満げに肩をすくめる。
「また旅……でも、仕方ないね。私たちなら何とかなるでしょ!」
リディアは剣を肩にかけ、笑みを浮かべる。
「油断せず、だな。だが、この旅路も……きっと悪くはない」
アリエルは静かに頷き、雪に覆われた村を後にした。
冷たい風が頬を打つ中、三人の影は長く伸び、次の目的地へと歩みを進めていった。
――遠く、黒い雲の裂け目から、かすかに異様な光が漏れているのが見えた。
世界の片隅で、何かが静かに目を覚ましつつあることを、まだ誰も知らない。




